Wind of Mind

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ハードロック編:ディープ・パープル3(紫の炎:第2期から第3期へ)

2006年07月06日 | 洋楽のルーツ
最強といわれた第2期もリッチーとギラン、ロジャーの間に亀裂が入り2人が脱退。ギランのボーカルとロジャーのアイディアに飽きが来てバンドを辞めたがっていたリッチーを引き留めるために、脱退したがっていたギランとロジャーも併せてクビにしたという説もあります。
この二人は、76年にイアン・ギラン・バンド(後にギラン)を結成、人気を博しますが私はあまり好きになれなかった。(苦笑)
パープルには新たにデヴィット・カヴァーディル(v)とグレン・ヒューズ(b、v)が加入します。
カヴァーディルは全くの新人でオーディションによって選ばれ、ヒューズとツインボーカルという形で第3期はスタートしました。
ファーストシングルは「紫の炎」(burn:写真)同名のアルバムから74年にリリース。これは、第2期の流れを汲んだ曲で結構ヒット、私も好きです。しかし、イアン・ギランのボーカルとどうしても比べてしまう。
カヴァーディルのボーカルはまだ線が細かったし(これは致し方ないが)、ヒューズのボーカルも悪くはないのですが荒かった。
カヴァーディルはブルースが基盤で、どちらかというと高音よりも中低音に魅力のあるタイプだったと思います。彼が本領を発揮できたのは、やはり後に参加するホワイトスネイクのようなバンドで第3期のパープルには合わなかったのではないかと思います。
リッチーも路線を変えたかったはずなのに結局は第2期のイメージを引きずってしまった。それは私がそうだったように、その音がファンが望む音だったからかもしれません。

ハードロック編:ディープ・パープル2(第2期の名曲)

2006年07月05日 | 洋楽のルーツ
イン・ロック、ファイア・ボール、マシン・ヘッド。
この三枚のアルバムにはハイウェイ・スターをはじめスモーク・オン・ザ・ウォーター、ミュール、スペース・トラッキン、ファイアボール、ストレンジ・ウーマン、スピード・キング、チャイルド・イン・タイム、イントゥ・ザ・ファイアーとハード・ロックの名曲がずらり。それにブラック・ナイトを加えると私的パープルのベリーベストの完成です。
特にハイウェイ・スターでのリッチーの早引きソロと曲名そのもののスピード感、チャイルド・イン・タイムでの様式美とギランの絶叫ボーカル、ストレンジ・ウーマンでのリッチーのギターとギランの絡みはこれ以上ないハードロックの醍醐味で我々は熱狂したものです。
スモーク・オン・ザ・ウォーターは後にサザン・オールスターズがカバーして特にメジャーになりましたが、ハード・ロックバンドとしてはメロディのある独特のフレーズが印象的な曲ばかりです。
ブラックナイトは確かハードロック系の曲がヒットしないといわれていた名古屋から火がつき日本で大ヒットしたというようなことを聞いた覚えがありますが本当でしょうか。
同じ時期にやはりブリティッシュ・ハードのレッド・ツェッペリンがおりましたがブルースを基調としており、私的にはパープルの方が判りやすかった。もちろんツェッペリンもすばらしいバンドで「天国への階段」のイントロのギターはコピーしたりしました。
まあ、ペイジ&プラントよりもリッチー&ギランの方が私には判りやすく魅力的だったということでしょう。はっきりした芯のあるボーカルとギターが私の好みに合ったのだと思います。
もともと私はボーカルに魅力を感じる人だったので、イアン・ギランのボーカルはその後の私にとってロックボーカルの基準というか、憧れ的な存在となりそれ以降の私のボーカリストの嗜好に多大なる影響をもたらすことになるのです。

ハードロック編:ディープ・パープル1(第2期黄金期)

2006年07月04日 | 洋楽のルーツ
いきなり第2期から入って恐縮ですが、私が中学1年の時、ディープ・パープルはすでに第2期黄金時代を迎えていました。
第1期は後追いで、ちょっと聴いただけ(苦笑)
ディープ・パープルはイギリスのロックバンドで、私は第2期から第3期への大きな転換期をリアルタイムで見ていたことになります。
第2期のディープ・パープルは、それ以前のジョン・ロード(key)を中心としたクラシックの要素を取り入れたロックからリッチー・ブラックモア(g)を中心としたハード・ロック路線に転換し大成功を納めていました。

マシン・ヘッド - Machine Head (1972)
ライヴ・イン・ジャパン - Live In Japan (1972)
紫の軌跡 - Purple Passages (1972)
紫の肖像 - Who Do We Think Are (1973)
紫の炎 - Burn (1974)

これが、私の中学時代に発表されたアルバムです。
マシン・ヘッド(写真左上)がでる前にイン・ロック(写真左下)、ファイア・ボール(写真右上)をすでに発表しており、これにマシン・ヘッドを加えた俗に言う第2期の3部作、特にマシン・ヘッドは後にロックのバイブルとも呼ばれるぐらいの傑作でした。
さらに72年の「ライブ・イン・ジャパン」(写真右下)は世界的に大ヒット。
ディープ・パールがまさにブリティッシュ・ハード・ロックの雄として君臨していた絶頂期でした。
なんといっても魅力は、リッチーの神業的な早弾きリードギターとイアン・ギランの驚異のボーカルにありましたが、ベースのロジャー・グローバー、ドラムスのイアン・ペイスという強力なリズム・セクションに支えられていたことは言うまでもなく、さらにキーボードのジョン・ロードが英国的な様式美を醸し出すという、まさに、当時最強のハード・ロック・バンドで、私もすぐにその魅力に取り付かれてしまうのでした。

ロック編:ポール・マッカートニー3(ボーカリストとしての魅力)

2006年06月22日 | 洋楽のルーツ
「ビーナス・アンド・マース」(写真)や「USライヴ」はすばらしいアルバムで私も好きでした。しかし、シングルは「あの娘におせっかい」「心のラブソング」(スピード・オブ・サウンド)など一時期に比べるとメロディがいまいちともいわれていました。
私も何か物足りなさを感じていましたが、天才ヒットメイカーとして期待されるポールの辛いところだと思います。ヒットしていても「ポールにしてはよくない」といわれるのですから。
しかしそれにしても、ビートルズ時代からポールの才能のすばらしさは万人が認めるところで、演奏にしてもビートルズは演奏が下手というイメージがありましたが、ポールについてはベーシストとしても1流だがそのベースでさえ、ビートルズを結成するときにベーシストがいなかったから一番器用なポールがベースになったとか、ギターを弾かせたらジョージより上手いとかいわれていました。
ボーカルにしてもジョンとポールの区別がつかないような初期の曲もありますが、イエスタディのようなバラードも歌えばのっぽのサリーやアイム・ダウンのようなシャウトもこなす。天才ポールの底知れぬ音楽性を感じさせる一例です。ジョンもバラード・シャウトとこなす希有なボーカリストでありましたからビートルズというバンドは本当に計り知れない可能性と実力を持ったバンドだったのだと思います。
メンバー4人が1人ずつでもバンドのリーダーになりうるバンド、つまり4本の柱がバンドを組んでしまったのですから、いつまでもひとつの枠に収まるはずがないという説もうなずけるものがありました。

ロック編:ポール・マッカートニー2(ポールの逆襲:ウイングス全盛期)

2006年06月21日 | 洋楽のルーツ
ウイングスはポールがビートルズ脱退後のソロアルバム等の酷評などから再起を賭けて結成したバンドでした。同じようなことをギターのデニー・レインが言っている記事を読んだ覚えがあります。彼とってはムーディ・ブルースをやめて(ムーディ・ブルースはデニーが去った後プログレッシブ・ロック・バンドとして成功を収めることになる)からの成功を賭けたバンドだったのです。デニーはメンバー交代の激しいウイングスの中で71年の結成から81年の解散まで終始一貫してメンバーであり続けポールを支えました。
ポールのウイングスには物足りなさを感じていた私ですが、73年に発表された大ヒットアルバム「バンド・オン・ザ・ラン」に入っていた同名タイトル曲と「ジェット」は好きでした。その前に、シングルでは「007死ぬのは奴らだ」がありましたね。1つ前のアルバム「レッドローズ・スピード・ウェイ」には「マイ・ラヴ」が入っていて、当時から名曲とされていましたが、その頃はそれほどいいとは思いませんでした。
その後、75年「ビーナス・アンド・マース」76年「スピード・オブ・サウンド」それらを引っさげての全米ツアーはLP3枚組「ウイングスUSライヴ」や映画「ロックショウ」としても大ヒットとウイングスの全盛期を迎えます。この頃のアルバムには余裕・風格すら感じた時期でもありました。

写真は74年度のベーシスト部門第1位に輝いたミュージックライフの表紙です。
70年代中盤から後半、遂にポールの逆襲が始まりました!

ロック編:ポール・マッカートニー1(ビートルズと力道山の知られざる関係)

2006年06月20日 | 洋楽のルーツ
さて、ビートルズもポールで一段落です。
正直言って、本当にポールを好きになったのは2002年の東京ドームからなんです。
解散して、ポールの音楽を初めて聞いた時はもうウイングスを結成していて、ポップバンドのイメージが強かったのです。
ウイングスのファーストアルバム「ウイングス・ワイルドライフ」もポップすぎてその当時はあまり好きではありませんでした。(苦笑)
ジョンやジョージの曲もポップな物もあるのですが、ポールの純粋なラヴ・ソングとは明らかに一線を画していたと思います。私は決してメッセージ色や思想に傾倒するのが好きなタイプではないのですが、あの頃はそれが大人に見え、カッコイイと思ったのだと思います。ハードロックの影響ももちろんありましたが。。。
さらに、ジョンやジョージとの確執や我が儘とか、ウイングスのメンバーも気に入らないとすぐ代えるとかポールの悪いところばかりが眼についてしまったのでしょう。
ビートルズはポールの脱退宣言で事実上の解散。すぐにほとんどの楽器を自分で演奏した「マッカートニー」、そして「ラム」とソロアルバムを出しますが好セールスを挙げた割には評価はいまいちだったようです。
ポールの脱退によるビートルズの公的解散が70年12月だったので、毎年12月になるとビートルズの特集がラジオなどで良く組まれていました。
もう一つ、余談ですが、12月の特集といえば12月に亡くなった力道山の特集も毎年のようにあり、プロレス好きな私はこの2大ビッグスターの共通点に不思議な因果関係を感じるのであります。

ロック編:リンゴ・スター(豪華絢爛!オール・スター・バンド)

2006年06月18日 | 洋楽のルーツ
リンゴは1989年以降現在に至るまで、大物ミュージシャンを集めた「オール・スター・バンド」を結成して活発にツアーを行っています。今までの主な参加メンバーメンバーは、イーグルスのジョー・ウォルシュ、トッド・ラングレン、フリーのサイモン・カーク、ピーター・フランプトン、デイヴ・メイスン、クリームのジャック・ブルース、ラズベリーズのエリック・カルメン、モット・ザ・フープルのイアン・ハンター、EL&Pのグレッグ・レイク、シーラE、メン・アット・ワーク(懐かしい!)のコリン・ヘイ、エドガー・ウインターそして先日亡くなったビリー・プレストンなどまさに豪華絢爛!もう本当にすっごいメンバーです。リンゴの息子でありオアシスやザ・フーのドラマーとしても知られるザックも度々参加しているようです。1989年と1995年には来日公演が実現、これからもまた元気な姿を見せて欲しいものです。今度来たら是非行きたいですね!

さあ次回、最後のビートルは、いよいよ、ビートルズの問題児?ポールの登場です!

ロック編:リンゴ・スター2(人柄とかっこよさ)

2006年06月17日 | 洋楽のルーツ
ところで、今年はビートルズ来日40周年だったんですね!
今からちょうど40年前の今月、1966年6月29日に来日、いいタイミングと言うべきなのか、自分でもちょっとビックリしております。どうりで、特集が多いはずです。

さてさて、リンゴです。
リンゴは1970年代前半から後半にかけて元ビートルズのメンバーとしては最もコンスタントにヒット・シングルを連発したといわれています。
また1981年には、かねてから定評のあった俳優として映画「おかしなおかしな石器人」に出演。これは、リンゴが原始人の役で台詞もほとんど原始人語?笑える作品でした。
決して上手いとは言えないリンゴのボーカルですが、必ずと言っていいほどヒットするのが不思議でもありました。しかし、それは元ビートルズというだけでヒットするのではなく、やはりリンゴの人柄が曲にも現れているんでしょうね~。みんなから愛されているという印象を持ちました。
解散後も各ビートル達とも交流を持ち、ジョンのバックを勤められるのはリンゴしかいない。とまでいわれました。その人柄が他の三人を繋げる潤滑油的な存在だったのではないかと思います。
中学の頃、リンゴが渋くてカッコイイと言っていたマニアックな女の子がいましたが、確かに、LET IT BEの裏ジャケットのリンゴ(写真右下)は今見ても渋くてカッコいいですね!

ロック編:リンゴ・スター1(Goodnight Vienna)

2006年06月15日 | 洋楽のルーツ
リンゴはビートルズがデビューする直前にそれまでドラマーだったピート・ベストに替わって加わった一番新しいビートルでした。4人の中では一番楽曲的には地味な存在のリンゴですが、70年代は結構目立っていたんです。
解散直前の79年3月にスタンダードを集めたアルバム、同12月にはカントリーを集めたアルバムを発表。
バングラディッシュのコンサートではジョージのバックを務めるなどセッションでも活躍しました。
そして73年にアルバム「リンゴ」を発表。
この時はビートルズの4人が解散後初めてアルバムに名を連ね、ジョン、ポール、ジョージがリンゴに曲を提供するということで、大々的な宣伝があり興味をそそられました。当然のごとく、再結成の話も出ていたと思います。
このアルバムからジョージとの共作「想い出のフォトグラフ」、ジョンの曲「アイム・ザ・グレイティスト」などが大ヒット。
その後も「Goodnight Vienna(邦題:グッドナイト・ウイーン)」を発表。ジョン・レノンやエルトン・ジョン、ニルソンなど豪華なメンバーがリンゴに曲を提供しています。何故かリンゴの周りには豪華なメンバーが集まります。
私はこのアルバムで、ウィーンのことをヴィエナというのだと知りました。


ロック編:ジョージ・ハリスン(クラプトンとの友情)

2006年06月14日 | 洋楽のルーツ
1991年12月エリック・クラプトンとのジョイントツアーが東京ドームで行われました。
私も、是非ジョージに会いたくて(といっても米粒ほどのジョージを見るだけですが)後輩と見に行きました。
このコンサートは、当時息子を事故で亡くした直後だったクラプトンがジョージに申し入れ実現したもので、1989年のリンゴ・スター、1990年のポール・マッカートニーに次いで、元ビートルズが3年連続で来日したことが話題となりました。結局これが、ジョージの最後のライヴツアーとなりましたが、コンサートはすばらしく、感動の連続でした。私はジョージに会えたというだけで満足でしたが、クラプトンのギターもすばらしくジョージとの友情の深さを感じる暖かみのあるコンサートだったと思います。もちろんこのツアーはクラプトンのバンドにより全面的にバックアップ。正直言ってギターの音色はクラプトンとジョージではかなり違いますが、ジョージは一生懸命さが伝わってくるアーティストなのです。
これは、昔から感じていたことですがジョージの堅実で真面目な人間性が聴く物に好感を与えるのだと思います。
ジョージも我々にすばらしい夢と希望を与えてくれましたが、2001年11月29日永遠の眠りにつきました。

さて、次回はビートルズの中の人格者?リンゴです。

ロック編:ジョージ・ハリスン2(トラベリング・ウィルベリーズ)

2006年06月12日 | 洋楽のルーツ
1987年に発表された「クラウド・ナイン」は同名のタイトル曲がヘビーな感じのブルースっぽいロックで久々に私好みでした。
この裏にはエレクトリックライトオーケストラのジェフ・リンの存在があったことを後に知ることになります。
ジェフ・リンを共同プロデューサーとして迎えた「クラウド・ナイン」のヒットによりジョージは第一線に復活。その勢いに乗って翌88年にはリン、ボブ・ディラン、ロイ・オービソン、トム・ペティらと覆面バンド「トラベリング・ウィルベリーズ」を結成します。これが良かった!フォークとブルースとロックンロールが融合されたようなちょっと泥臭さの残る音楽で、すっかり気に入ってしまいました。覆面バンドというのがまたいい。ボブ・ディランはじめ凄いメンバーなのにジャケットの写真は全員サングラスをしてメンバーの名前も○○ウィルベリーとされていて笑えました。1枚目の次が3枚目というのも不思議で、確かなにか理由(こじつけ?)があり、サウンドだけでなくこのいかがわしさになんともいえない魅力を感じました(苦笑)

ロック編:ジョージ・ハリスン1(マイ・スウィート・ロード)

2006年06月10日 | 洋楽のルーツ
ジョンの次はジョージでいきましょう。

ジョージはアビー・ロードの勢いをそのまま継続するかのような名曲「マイ・スウィート・ロード」を擁したなんと3枚組みのアルバム「オール・シングス・マストパス」を70年に発表。
ただこの曲は盗作問題で裁判沙汰になり結局敗訴したのですが。そんなに似ていないと思いましたが(苦笑)
翌年8月には、シタールの師であるラヴィ・シャンカールの要請でロック界初の大規模なチャリティー・コンサートであるバングラデシュ・コンサートを開催。エリック・クラプトン、ボブ・ディラン、レオン・ラッセル等が参加したイベントは大成功を収めました。このコンサートは映画にもなり私が見た時は「レット・イット・ビー」、ストーンズの「ギミー・シェルター」と3本立てだったと思います。
白いスーツで歌うジョージがかっこよかった。
タイトルの「バングラディッシュ」も大好きな曲です。
73年には「リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」を発表。
このアルバムからは「ギブ・ミー・ラヴ」が大ヒット。
この頃のジョージは精悍さが増し最高にかっこよかった。
ある雑誌に最近のジョージはキリストのような風貌だというような記事が書かれていて、まさにぴったりのイメージだとにんまりした覚えがあります。
しかしジョージはその後「ダーク・ホース」「ジョージ・ハリスン帝国」「ゴーン・トロッポ」などのアルバムを発表するも曲はいまいちで、1987年の「クラウド・ナイン」の発表までは低迷期といえる時代をさまようことになります。

ロック編:ジョン・レノン(スターティング・オーバー)

2006年06月09日 | 洋楽のルーツ
さて、ジョンのお話も最終回です。写真は「ロックン・ロール」のジャケット、若き日のジョンがカッコいい!!
「ロックンロール」大ヒットのあと、ジョンは息子ショーンの子育てのために、5年間活動を停止しますが、1980年活動を再開。11月に「ダブル・ファンタジー」を発表します。このアルバムには「スターティング・オーバー」「ウーマン」などポップでカッコいい曲が入っています。アルバムジャケットは篠山紀信が撮影。しかし。。。
永遠のロックンローラー、ジョン・レノンは1980年12月8日凶弾に倒れ、永遠に帰らぬ人となってしまいます。
ジョンの復活にはかつての盟友ポールの存在が刺激になっていたといわれています。不仲が伝えられていた2人ですが、ポールはジョンが活動を休止している間にも何度か訪ね、ポールの「カミング・アップ」のヒットがジョンの音楽活動を再開させるきっかけになるなど、常にいい意味で刺激しあう仲であったということです。さらに、ジョンは他人がポールの悪口を言うのは許さなかった。ジョンにとってポールは「兄弟」であり、彼との確執は「兄弟ゲンカ」みたいなもので他人が干渉してくる筋合いの物ではないと常に言っていたといわれています。
確かに、よくケンカする相手ほど、お互いのことを一番よくわかっていたりします。
ポールは日本公演でもジョンのために「ヒア・トゥデイ」をジョージには「サムシング」をウクレレで、そしてリンダには「マイ・ラヴ」を歌いました。時が全てを洗い流してくれたかのように。。。熱い物が胸にこみ上げてきました。
ジョンにはもう会うことは出来ませんが、その歌声は我々の心の中に永遠に生き続けていくことでしょう。

ロック編:ジョン・レノン2(心の壁・愛の橋)

2006年06月08日 | 洋楽のルーツ
73年に発表された「マインド・ゲームス」はまさにリアルタイムで経験。
タイトル曲は結構好きでしたが、アルバムジャケットは不気味。ヨーコの影響がモロにでているとか。このオノヨーコという人は、最近少し落ち着いたかと思えば、ジョンのトリビュートライブではまた呪文のような絶叫をしている姿をテレビで見てしまいました。やはり変わっていないな~と(苦笑)
このアルバムには「あいすみません」なんて日本語が使われた曲もありました(苦笑)
わたしはこのMINDという言葉が気に入っていて、しばしば引用しています。
このブログのタイトルにも、そのルーツはこのアルバムタイトルにあります。
次に出たのが「心の壁・愛の橋」です。これは、買いました!
エルトン・ジョンとの共演「真夜中を突っ走れ」、不思議なバラード「夢の夢」などがヒット。ジャケットの写真もかっこよく、メガネをいくつかけてるかなんて数えたりして(笑)
このジャケットのイラストはジョンが子供の頃描いたものと知りまたビックリ。
あの頃はジョンも波に乗っていて、このアルバムは好セールスを記録したと思います。
そして翌年、「ロックン・ロール」を発表。スタンダードナンバーのカバーでしたが、全ての曲がかっこよく、「スタンド・バイ・ミー」が大ヒット。
このアルバムジャケットの革ジャンの若いジョンがまた最高にカッコよかった。
いまだに大好きな1枚です。