われわれは,
生徒に迎合しすぎたのではないか。
丁寧にプリントを用意して負担を軽減し,
理解しやすいようにと心をくだき,
果ては,ITまで導入している。
その結果はどうであったか。
生徒は,教師のサービスにあぐらをかき,
サービスを受けるのがさも当然というように
口をただ空けて待っている。
学習意欲がないのは,
さも教師のサービスが悪いとでもいいたげである。
われわれは,
もっと不親切に徹するべきであったのではなかったか。
高校生以上なら,
プリントを配らず,板書をせず,
ただひらすら講義されたことを,
ノートすることを強いるべきではなかったか。
大量の宿題を課して,
それをやってこない場合や,
試験で意欲のない答案を提出した者は,
容赦なく単位不認定にするべきではなかったか。
学ぶということの峻厳さを
もっと知らしめるべきではなかったか。
今年もまた,サービスに徹し,
これ以上ないという親切をほどこし,
慈愛に満ちた成績をつけながら,
ぶちぶちと考えているのである。
生徒に迎合しすぎたのではないか。
丁寧にプリントを用意して負担を軽減し,
理解しやすいようにと心をくだき,
果ては,ITまで導入している。
その結果はどうであったか。
生徒は,教師のサービスにあぐらをかき,
サービスを受けるのがさも当然というように
口をただ空けて待っている。
学習意欲がないのは,
さも教師のサービスが悪いとでもいいたげである。
われわれは,
もっと不親切に徹するべきであったのではなかったか。
高校生以上なら,
プリントを配らず,板書をせず,
ただひらすら講義されたことを,
ノートすることを強いるべきではなかったか。
大量の宿題を課して,
それをやってこない場合や,
試験で意欲のない答案を提出した者は,
容赦なく単位不認定にするべきではなかったか。
学ぶということの峻厳さを
もっと知らしめるべきではなかったか。
今年もまた,サービスに徹し,
これ以上ないという親切をほどこし,
慈愛に満ちた成績をつけながら,
ぶちぶちと考えているのである。
気持ち的にはタイトルの通りです。
確かにそのようにしている現場が多いように感じる。
いまやどこの企業も公共団体もCSに関心が高い。
顧客満足のために考えているが、満足度は際限なく高くなる。
数年後の顧客は、さらに高いサービスを望むだろう。
まさにサービス過剰状態に陥り、我が儘な人間が増えてくるように感じる。学校現場もサービス過剰になっているのではなかろうか?
早速、「ごまかし勉強」上・下 藤沢伸介著 新曜社をざざざーっと読みました。まさに、この本の通りですね。(私のブログででしたがご紹介ありがとございました。)
「サービス」という観点で言うと、教育(産業)におけるサービスは、ことごとく「子供の真の成長を促進させる方向」に進ませるべきなのに、そうなってない、いや、それどころか「子供の成長を阻むサービス」に成り下がっていることだと思います。
「顧客」が望む高いサービスの実態は目先の利便、効率を求めるものでしかなく、長期的には子供の成長を阻害することに気が付いてないわけです。
視点が変わらない限り、教育の現状は決して改善されないでしょうね。
昨日、中一の娘が家庭科の調理実習で蒸しパンを作ったのです。授業は一時間だけなので、粉を混ぜて型にいれ、先生の準備した蒸し器に入れるだけ、それでも時間が足りず、完全に蒸しあがらないままで終わり。これでは消化不良起こします。いえ、蒸しパンでなく勉強のことです。
この調子でどの教科も時間数不足で未履修状態で学年があがっていくのです。とにかく、ノートが減らないんです。いったい学校で何やってるのって不思議なくらいです。
英語にはワークがあるのですが、書き込むところはわずかでカラフルな挿絵つき、サービス精神たっぷりのお子様向けになっております。
国語は3人の先生の交代授業で、どうやら、ワークシェアリングのようです。ほかの教科も講師身分の先生が多く、毎日、学校に来ません。
どう考えても、きちんとカリキュラムが組まれ学力を培う環境にある、とは言いがたいです。
教師の指導のあり方以前の問題のように思います。
学びの喜びも、学びの意欲も、学びの方法も、何一つ得られないまま大人というものに作られていく学校教育。
そのうえ受験に振り回される教育現場。
かわいそうなのは子供たちなのです。