子どもの気持ちに寄り添い,
子どもの考えることを理解して
共感し,同調してあげるということも
ほどほどにしないといけない。
大人がそのような態度で子どもに接していると,
子どもはいつまでも大人になれない。
大人は,大人の考えをもち,
子どもの考えることに理解は示すとしても,
それを修正する義務を負っているのではないか。
教育とは,子どもを大人にすることである。
したがって,子どもの気持ちや考えは,
否定され,修正され,超克されなければならない。
その意味では,教育とは,
子どもに,成長のための負荷をかける営みに他ならない。
教育とは,本質的には,
子どもにとって心地のよいものではあり得ないし,
学校は,子どもにとって,
快適なところというわけではない。
「学校に行ったら,つらいことや苦しいことがたくさんある」
そのことを,大人は,はっきりと
子どもに言い聞かせておくべきではないのだろうか。
つらいことや苦しいことのなかから,
成長への糧を各自がつかみ取っていくことこそ,
子どもが学校に通う意味なのである。
子どもの考えることを理解して
共感し,同調してあげるということも
ほどほどにしないといけない。
大人がそのような態度で子どもに接していると,
子どもはいつまでも大人になれない。
大人は,大人の考えをもち,
子どもの考えることに理解は示すとしても,
それを修正する義務を負っているのではないか。
教育とは,子どもを大人にすることである。
したがって,子どもの気持ちや考えは,
否定され,修正され,超克されなければならない。
その意味では,教育とは,
子どもに,成長のための負荷をかける営みに他ならない。
教育とは,本質的には,
子どもにとって心地のよいものではあり得ないし,
学校は,子どもにとって,
快適なところというわけではない。
「学校に行ったら,つらいことや苦しいことがたくさんある」
そのことを,大人は,はっきりと
子どもに言い聞かせておくべきではないのだろうか。
つらいことや苦しいことのなかから,
成長への糧を各自がつかみ取っていくことこそ,
子どもが学校に通う意味なのである。
生徒が不登校になってしまったら先生が必死にならなければならないのも大変でしょう?
上手にバランスを取れる先生ならいいんだけれど、私の出会う先生はどうもそうじゃなくて、とても苦しいんですけれど・・・
>そのことを,大人は,はっきりと
>子どもに言い聞かせておくべきではないのだろうか。
うーん。ちょっと、考えさせられてしまいますね。
私は、基本的に学校は楽しくて、安心できるところであって欲しいと思っています。
理想論なのですが、子ども達が安心して、自分の本音を出せたり、失敗も許されるという場所であるべきだと思っています。
もちろん、教師が子ども達にこれだけは、絶対許さないとか、こういう子どもになって欲しいというものは、あるべきです。
しかし、そのことを、どうやってメッセージとして伝えていくのか?
厳しく言い聞かせると言うよりも、子どもと教師との生の人間的なやりとりから、自然と学び取って欲しいと思っています。
またご意見をお聞かせください。
その場にいると死んじゃうんじゃないかと思う・・・
それも自分の力で乗り越えなければいけないのですか?
それに耐えられなくなったから不登校になったわけで・・・
私は、子供と大人の最大の違いは、「大きく成長するか否か。社会化しているか否か」だと思います。学校は、そのための場ではないでしょうか。それで、真に成長したり社会化するのは、けっこう緊張感を伴う骨の折れる仕事です。
>教育とは,子どもを大人にすることである。
>したがって,子どもの気持ちや考えは,
>否定され,修正され,超克されなければならない。
全く同感です。
しかし、今の日本の社会は、きっと、内田樹先生のおっしゃるような「六歳児にもわかるモチベーション」で動いているのです。社会が大人になっていないのです。
私は、学校とは、子供が「安心して」(言葉を換えれば、「前向きに」と言うことになるでしょうか。場合によっては、「いざというときには必ず逃げることが出来る場をどこかに見つけながら」でもあります。今の社会の弱点は、子供の居場所が学校と家庭に限定されていることでしょう。)辛いことや苦しいことに出会い、自分の力を信じて大きく成長できる場であるのが理想だろうと考えます。(私は、「楽しい」はまた別の価値尺度だと考えます。)
「楽しい」が前提で苦しい思いをするのと、「苦しい」が前提で苦しんだり楽しんだりするのとでは「苦しみの意味」も「楽しみの意味」も、それらが与える心理的影響も大きく異なります。
今は学校に期待される「前提」が大きくずれていると思います。
>それを修正する義務を負っているのではないか。
大人に欠けているのはこの姿勢だと思います。
大抵の子供は叱られるのが根っから嫌なのではありません。多くの子どもは自分が未熟だと言うことを知っています。だから、内心ではいけないときには「いけない」と叱って貰いたいと思っています。でも、今の大人は「叱って子供を傷つけてはいけない」と、或いは自分の「保身」のために叱らないことが増えました。
結果、子供は幼いときから叱られる経験に乏しく、上手な「叱られ方」を体得しないまま大きくなり、誰にでもちょっと叱られただけで自己を全否定されたと思う子供が増え、大人が叱りにくい(=修正しにくい)状況になるというジレンマ、或いは悪循環です。
横レスですみません。(はじめまして、香里太郎さん。)
>理想論なのですが、子ども達が安心して、自分の本音を出せたり、失敗も許されるという場所であるべきだと思っています。
当然そうであると思います。私は
>「学校に行ったら,つらいことや苦しいことがたくさんある」
と何の矛盾もないと思います。本音を出して、是と言われるか否と言われるかわかりません。それで、子供は学びます。失敗をして、二度と同じ失敗を繰り返さないと学びます。
子供にとって大切なのは、「本音を出すことそのものや失敗することそのもの」ではなく、「その後どうするか」だと思います。
教師が理想として,学校とは,そうであるべきだと考えるというのはわかりますが,それを子どもに言うことには賛成しかねます。現実に学校は,子どもたちにとって「楽しくて,安心できる」場所にはなり得ない部分をもっています。楽しいこともあれば,苦しいこともある,ほっとすることもあれば,不安にかられることもある,それが学校であり,人間の集団のなかで生活するということです。子どもたちには,はっきりとそのことを伝えるべきだと思います。そして,「苦しみ」を支えあい,分かち合っていくというのが本質であり,そのことが楽しいかどうかは,かなり時間がたたないとわからないことでしょう。即時的に学校が「楽しい」場所だと思い込んでいる子どもが,楽しくないことに出会ったときのショックは,とても大きいものだと思います。
学校でとても苦しい思いをして,学校に行くと息がつまるような気持ちになるのですね。だから,学校に行けないのですね。そして,そのことでまたつらくなるのではないですか。
まじめな人ほど,心の奥のほうで,学校には行かなければならないと思っているので,つらくなるのです。でも,考えてみれば,学校などというものは,大昔からあったわけではありません。昔の人は,学校でないところでいろいろな方法で学んでいたわけですから,学校がそんなに大切なところというわけでもありません。
ですから,学校は,行ったほうがいいところかもしれませんが,行かなければいけないというほどのところではありません。学校に行って苦しすぎるというときは,休んだってかまいません。休んで,エネルギーを蓄えるのもまた必要なことです。休むことについて,いろいろな人からいろいろ言われるかもしれませんが,休むことが必要なことだってあるのです。大人だって,有給休暇といって,給料をもらいながら30日ぐらいは休めるわけですから,子どもだって,そのぐらい,いやそれ以上休んだって別にどうってことありません。休む時間は,次へのステップのための重要な充電期間だと思ってください。
さて,大事なのはその次です。大人になるためには,いろいろなことを学ばなければなりません。今の学校が,つらくていやで戻りたくない学校なら,ほかにも学ぶ場所は探せば,いくらでもあるでしょう。それほどでもなくなって,まあ,今の学校に通ってやってもいいかなと思えば,それもいいでしょう。選ぶのはあなた自身です。あなたのまえには,たくさんの道が開けています。でも,どんなところも,あなたの理想を完全に満たしてくれるわけではありません。どんなところも少しずつ不足や不十分なところがあることはしかたがありません。
「学校は苦しいところ」,でも,耐え難いほどの苦痛を与える学校であれば,それは学校が悪いということにしましょう。
でも,苦しみを乗り越えるのは,あなた自身です。苦しみの乗り越え方を考えましょう。真正面から壁にぶつかるだけではなくて,まわりを見渡す余裕さえあれば,いろいろな道があるものです。壁を避けて通るのもまた大人の知恵というものです。
このように,ある意味いいかげんに,ある意味,視野を広く持って考えていれば,将来への道がすっと見えてくるときがあります。
ある朝,起きたら,とてもいい気分だった。私のまえには,無限の可能性がある。すべてはこれから始まる。そんな朝が必ず訪れます。
さて、お二人の言わんとするところは、分からないわけではないのですが、それでも何となく違和感が残ります。
子ども達の言いなりになり、教えるべきメッセージを持たず、ただ甘えさせておけばいいと言うわけではありません。
当然、子ども達は成長の中で、自分の意見を持ち、集団の中で、葛藤し、否定されたり、修正したりしながら、本当の意味での自己を確立していくのでしょう。人間というのは、集団の中での存在ですので、そのこと自体は否定するところではありません。そういう意味で、大きく違うことを言っているのではないかも知れません。
違和感が残るのはどこかと考えますと、人間は否定や修正ばかりを受けていると、自分に対する自信を失ってしまうのではないだろうかという点です。共感しすぎるのは良くないと書かれていましたが、教師との共感、信頼関係というものが、人間形成において、非常に重要であるような気がします。
子どもは受け身の存在ではなくて、自分から成長する存在だと学んできました。教師は、子ども達に成長の材料を与えてあげるようなもののような気がします。背中を見て育つという言葉がありますが、子ども達は知らず知らずのうちに、教師にあこがれたり、反発したりしながら、何らかの影響を受けて、育っていくのでしょう。その際に、否定的な感情だけが全面にでることが、心配なのです。
最近は、自己肯定感の持てない子ども達が多いとよく言われます。この自己肯定感を持てるかどうかが、生きていく上でのエネルギーの高さにつながっているように感じています。たとえ、現実の学校や社会では、大変なことがあるとしても、学校はそんんなもんさと、教師が言ってしまっては、身も蓋もないような気がします。まあ、一口に学校と言いましても、小学生と高校生に話すのとでは、違うかも知れませんが。
「人間は否定や修正ばかりを受けていると、自分に対する自信を失ってしまうのではないだろうか」
おっしゃるとおりです。しかし,否定され,修正されるべきことまで,肯定されたり,黙過されたりする傾向があることを私は危惧しています。
「共感しすぎるのは良くないと書かれていましたが、教師との共感、信頼関係というものが、人間形成において、非常に重要であるような気がします。」
教師との共感,信頼関係というものが,教師と子どもの間の対等の人間関係に基づくものではないということに注意すべきだと思います。教師は,本来的に,子どもを評価し,序列化する権能をもつ存在であって,純粋に子どもの存在をまるごと受容することは,教師である限り,その職業上の性格からできないのです。教師と子どもの間の共感や信頼関係とは,そのような条件付のものであることを,教師自らが理解していないといけないと思います。子どもが教師を裏切ることがあるのと同じぐらい,いやそれ以上に教師は子どもを裏切っています。教師は,子どもと一体にはなれないのだということを,悲しいですが認めざるを得ません。教師と子どもの間の信頼関係というものは,本当は,その子どもがその教師のもとを離れて振り返ったときにはじめて,「あの先生は信頼できる先生だった」となつかしく振り返るといった性質のもので,子どもの在学中に信頼関係を口にすることはあまり好ましくないと思っています。そういった意味で,自己肯定感についても,評価者でもある教師から子どもに与えることができるものかどうかはなかなか難しいものだと思います。もちろん,おっしゃるとおり,子どもの発達段階によっても,対応の仕方は異なってくるでしょう。
真摯なコメント,ありがとうございました。