今の子どもは読書離れが進んでいるので,
もっと読書すべきだと言われている。
一方,講義形式の授業は好まれず,
体験的な活動的な授業を工夫すべきだとされる。
この主張は互いに矛盾するように思われる。
本を読むことと講義を聴くことは,
視覚と聴覚の差はあれ,とても似通ったものである。
すなわち,両者共に,
きわめて受身的なものであるということである。
とかく,生徒の主体性や意見表明を重視しがちな昨今であるが,
生徒の主体性を発揮させるよりも前に,
受身に徹して,己を空しうして,
読み,かつ,聴く経験が必要なのではないか。
自分がどう思うかやどう考えるかはしばらく措き,
著者が何を言いたいのか,講師が何を語りたいのかを,
虚心坦懐に受け入れる,その訓練なくして,
本当に実質のある主体性など生まれてこないのではなかろうか。
もっと読書すべきだと言われている。
一方,講義形式の授業は好まれず,
体験的な活動的な授業を工夫すべきだとされる。
この主張は互いに矛盾するように思われる。
本を読むことと講義を聴くことは,
視覚と聴覚の差はあれ,とても似通ったものである。
すなわち,両者共に,
きわめて受身的なものであるということである。
とかく,生徒の主体性や意見表明を重視しがちな昨今であるが,
生徒の主体性を発揮させるよりも前に,
受身に徹して,己を空しうして,
読み,かつ,聴く経験が必要なのではないか。
自分がどう思うかやどう考えるかはしばらく措き,
著者が何を言いたいのか,講師が何を語りたいのかを,
虚心坦懐に受け入れる,その訓練なくして,
本当に実質のある主体性など生まれてこないのではなかろうか。
講義形式を否定する言説が多い中、以前からどうしても腑に落ちないと感じていた理由が、わかりました。
ありがとうございました。
>本当に実質のある主体性
私が自分でこれを感じたのは30を優に過ぎてからです。若い頃は、回りの世界が複雑怪奇すぎるようで、どのように捉えて良いのかも何も分からなかったというのが正直なところだったように思います。また、自分が直観的に捉え、考えていることなどを表現できる論理と言葉も持たなかったように思います。何にせよ、受身という「仕込み」の時期だったのかな?
わが子のことですが、
ある時、ラジオを聴けないことがわかり、
危機感を抱きました。
漠然と、これじゃ、大人になると苦労する…と思い、
テレビを消してラジオを聞く機会を増やしました。
大人のコミュニケーションは耳ベースなのに、
子どものコミュニケーションが目に頼るようになっていると感じています。
わかりやすさを追求するのが先生の仕事かもしれませんが、
「わからない」からと他人に頼らず、
わかろうとする努力が自然とできるように、
ちょっとわかりにくいことも必要な気がします。
テレビゲームも、簡単にクリアできるだけでは、
だれも遊ばなくなります。