学校教育が破綻していくのは,実は,常識的によく考えれば,不可能であることやおかしいということが分かりきっているような空想上の摩訶不思議な理想を追求するからである。
例えば,教師が教えないで子どもに考えさせるのがよい教育だとか(教えなければ考えることなどできない),一人ひとりの個性を尊重する教育がよいとか(教師が子どもの個性を認めることはできても,学校はそれらに応じた教育ができるほど人的物的資源に恵まれていない),これからの教育は指導ではなく支援だとか(指導しなければ,どこに行くかわからない),教師の提示する課題や宿題をやってこなくても良い成績がつくだとか(そのような状況下で課題や宿題をきちんとやる子どもは聖人君子である),学級崩壊状態の教室で,子どもには何のおとがめもなく,逆に教師の責任が問われるだとか(たたかれるのは,たたいたほうではなく,たたかれたほうが悪いという理屈である)といったことである。
近代の学校,特に義務教育学校は,最もコストをかけずに多くの子どもに必要最低限の教育をほどこすように考えて作られている。そこでは,もっともシンプルで誰にでも分かりやすい論理が貫かれていないと崩壊してしまう。複雑で高度な思考操作をしなければ理解できないような,いや,理解しないほうがよいような,教育学的理論(?)を学校にあてはめても必ず破綻する。次から次へと不可思議なキーワードや理屈を学校現場に持ち込んでくる教育学者たちや,それに追随する教師たちは,一体何を意図しているのやら,心の底を覗いてみたいものである。
新学習指導要領のキーワードとされている「習得」「活用」「探究」にしても,とりあえず,学校は「習得」をめざすことぐらいで精一杯である。「活用」「探究」を追いかけつづければ「習得」もおぼつかなくなる場合が多いのが,多くの学校の実情だろう。「生きる力」をめざすなどというのも変な理屈である。学校ごときが「生きる」ことにどれほどの影響力を持ち得るというのか。そんな理想をいうよりも,「学校は勉強をするところです。学校に行ったら,先生のいうことをよく聞いてしっかり勉強しましょう」と言ってくれれば十分である。
最近はやりの「思考力」「判断力」や「表現力」,「言語能力」にしても,先生の言うとおりにしっかり勉強する子どもは,あれこれ言わなくても,きちんと身につけていくものである。先生や仲間と正しい言葉遣いで丁寧に話ができる子どもは,表現力や言語能力も身についていくのである。
要するに,何も新しいことなど必要ないのである。礼儀正しく,素直で,よく人の話を聞く子ども,受験などという矮小な目的のためではなく,自らがなすべきこととして,しっかり勉強をする子どもを育てようとすることが,いくら時代が変わろうとも,学校ができる最大限のことであろう。
例えば,教師が教えないで子どもに考えさせるのがよい教育だとか(教えなければ考えることなどできない),一人ひとりの個性を尊重する教育がよいとか(教師が子どもの個性を認めることはできても,学校はそれらに応じた教育ができるほど人的物的資源に恵まれていない),これからの教育は指導ではなく支援だとか(指導しなければ,どこに行くかわからない),教師の提示する課題や宿題をやってこなくても良い成績がつくだとか(そのような状況下で課題や宿題をきちんとやる子どもは聖人君子である),学級崩壊状態の教室で,子どもには何のおとがめもなく,逆に教師の責任が問われるだとか(たたかれるのは,たたいたほうではなく,たたかれたほうが悪いという理屈である)といったことである。
近代の学校,特に義務教育学校は,最もコストをかけずに多くの子どもに必要最低限の教育をほどこすように考えて作られている。そこでは,もっともシンプルで誰にでも分かりやすい論理が貫かれていないと崩壊してしまう。複雑で高度な思考操作をしなければ理解できないような,いや,理解しないほうがよいような,教育学的理論(?)を学校にあてはめても必ず破綻する。次から次へと不可思議なキーワードや理屈を学校現場に持ち込んでくる教育学者たちや,それに追随する教師たちは,一体何を意図しているのやら,心の底を覗いてみたいものである。
新学習指導要領のキーワードとされている「習得」「活用」「探究」にしても,とりあえず,学校は「習得」をめざすことぐらいで精一杯である。「活用」「探究」を追いかけつづければ「習得」もおぼつかなくなる場合が多いのが,多くの学校の実情だろう。「生きる力」をめざすなどというのも変な理屈である。学校ごときが「生きる」ことにどれほどの影響力を持ち得るというのか。そんな理想をいうよりも,「学校は勉強をするところです。学校に行ったら,先生のいうことをよく聞いてしっかり勉強しましょう」と言ってくれれば十分である。
最近はやりの「思考力」「判断力」や「表現力」,「言語能力」にしても,先生の言うとおりにしっかり勉強する子どもは,あれこれ言わなくても,きちんと身につけていくものである。先生や仲間と正しい言葉遣いで丁寧に話ができる子どもは,表現力や言語能力も身についていくのである。
要するに,何も新しいことなど必要ないのである。礼儀正しく,素直で,よく人の話を聞く子ども,受験などという矮小な目的のためではなく,自らがなすべきこととして,しっかり勉強をする子どもを育てようとすることが,いくら時代が変わろうとも,学校ができる最大限のことであろう。
とにかく、過激な暴力であふれている。
教師に反抗 =ヒーロー
キレる =存在感・勇気がある
サボる、酒、たばこ=自由な世界
どの漫画も暴力的な共通の価値観で溢れている。
そりゃ、子供もそうなる。
あと、両親を尊敬、社会を守る、国家への
愛国心は必ず必要なのに、国歌を歌わない
教師がいるなんて論外だ。国民が国を誇り
に思わない国家に、将来性があるとは思えない。
アメリカでも、中国でも、韓国でも、フランス
でも、どこの国でも、愛国心は義務教育で
教えることだ。
白人のアジア支配のために立ち上った日本を
どうしてそんな悲観的に教えるのだろうか?
アメリカと中国共産等の戦時中のプロパガンダをどうして、真に受けて未だに教科書に書く
のだろう。
過去に誇りを、未来に希望をもてない子供達
はどんなに豊かでも、心が貧しく育ってしまう。
今こそ、子供達の将来のために、教育を立て直したい。
歴史認識は難しいですね。失礼しました。
胸に高い理想と熱い志を抱き、両親・先輩を敬い、常に謙虚であり、私事は後にして世の中のために尽くし、貧しくとも誇り高く、真面目で実直である。
そんな日本人の姿を取り戻したいと感じる今日この頃です。
また拝見させていただきます。
なぜなら,あなたには,まだこのブログに書かれていることの適否を判断できるだけの経験がないからです。
爪の垢で思い出しましたが、昔ふけライスと言う言葉がビジネス界で流行語になっていました。
学校の責任者が店屋物を女子事務員に部屋まで配達させて、食べているのを見て私は驚いたのです。
会社は女子事務員にお茶やコーヒーを入れさせたらアウトです。接客時もその場の責任者が出席者の一人にお願いしなければいけません。
だから昔は無料のお茶サーバーやコーヒーサバーも各所にあったのです。日本全体が貧乏になったのか、多くの会社で100円の自動販売機が応接室の近くに設置されました。社長さんでも自分でお金を入れます。
ふんぞり返っている社長は一部の古い伝統企業だけなのでは。学校もそうなのでしょうね。