教師は,人間相手の仕事であるから,
明らかに経験豊かな方がよいはずである。
教職にとって経験に勝る財産はない。
ただ,自分だけの経験では,
ひとりよがりになることもある。
だから,
それを修正するために研修が必要なのである。
しかし,やはり経験豊かな教師は優れた教師である。
ところが,
昨今,一般企業等の傾向と異なり,
年配の教師ほどやる気を失うという趣旨の
分析結果が出てきた。
その原因を,若い教師に比べて
年配の教師の生徒教師関係が
うまくいかないことに求める考察が
識者によってなされている。
なぜ,そのような考察がなされるのか,
はなはだ疑問である。
普通に考えてみればわかりそうなものだが,
人と付き合うときに,年齢と性格と,
どちらを重視しているだろうか?
年配でも好かれる教師はたくさんいるし,
若い教師でも生徒から
総スカンをくっている教師もたくさんいる。
年配の教師がやる気を失うのは,
自身の経験が教育現場で軽視されるからである。
いや,年配の教師の蓄積を無にするような
わけのわからない「新しい」教育が,
改革の名のもとに導入されてきたからである。
実は,その改革こそ,学校崩壊の元凶なのだが,
改革の旗振り役は一時期脚光をあびればそれでよいのであって,
ゆっくりとあらわれてくる改革の結果までは責任を持ちはしない。
年配の者がその職業生活の中で築き上げてきた
さまざまな経験の蓄積を,
若い世代が敬意をもって遇するという,
一般社会ではごく当たり前であって,
かつての学校でも当たり前であったことを,
今の学校でも行うようになれば,
確実に学校はよくなっていくのである。
明らかに経験豊かな方がよいはずである。
教職にとって経験に勝る財産はない。
ただ,自分だけの経験では,
ひとりよがりになることもある。
だから,
それを修正するために研修が必要なのである。
しかし,やはり経験豊かな教師は優れた教師である。
ところが,
昨今,一般企業等の傾向と異なり,
年配の教師ほどやる気を失うという趣旨の
分析結果が出てきた。
その原因を,若い教師に比べて
年配の教師の生徒教師関係が
うまくいかないことに求める考察が
識者によってなされている。
なぜ,そのような考察がなされるのか,
はなはだ疑問である。
普通に考えてみればわかりそうなものだが,
人と付き合うときに,年齢と性格と,
どちらを重視しているだろうか?
年配でも好かれる教師はたくさんいるし,
若い教師でも生徒から
総スカンをくっている教師もたくさんいる。
年配の教師がやる気を失うのは,
自身の経験が教育現場で軽視されるからである。
いや,年配の教師の蓄積を無にするような
わけのわからない「新しい」教育が,
改革の名のもとに導入されてきたからである。
実は,その改革こそ,学校崩壊の元凶なのだが,
改革の旗振り役は一時期脚光をあびればそれでよいのであって,
ゆっくりとあらわれてくる改革の結果までは責任を持ちはしない。
年配の者がその職業生活の中で築き上げてきた
さまざまな経験の蓄積を,
若い世代が敬意をもって遇するという,
一般社会ではごく当たり前であって,
かつての学校でも当たり前であったことを,
今の学校でも行うようになれば,
確実に学校はよくなっていくのである。
若手より長期間多数の生徒と接してきたベテラン教員の経験が、現場において本質的に価値あるものならば、若手から敬意をもって遇されるはずです。
若手が生徒との接し方について悩んでいる時、ベテランが豊富な経験に基づく有効なアドバイスを与えられれば、文科省による改革や「新しい教育」の影響に関わりなく、若手はベテランに敬意を抱き、ベテランの士気は下がらないはずです。
しかし学級崩壊がベテラン教員の担任クラスでも頻発している現状において、若手が感心し追従したくなるような指導のできるベテラン教員は少ないのではないでしょうか?
価値観が激変する中、ベテラン教員が若い頃から身につけたスキルは、かつて有効だったかもしれないが、今や現場では通用しないことも多い。
果たしてそれは改革によると言えるのか?
私は人間相手の仕事こそ、経験が生きないような気がします。
飛行機の操縦や仏像の彫刻など、むしろ精密な物体相手の仕事の方が、経験が重要なのではないでしょうか?
生徒から総スカンを喰らっているベテラン教員もいれば、生徒の心をうまく掴む新人教員もいます。その意味ではまさに経験より性格が重要な要因でしょう。
一時的例示の検証はあまり意味を持たず、長いスパンで教員のプロとしての成長に着目する必要がありそうです。
教員は、もともと経験や研修によって現場での自信を高めていくことが難しいのではないか?
若さにのみ価値があるという世間の風潮の下で、ベテラン教員が若手と対等に生徒たちと交流してゆくのはなかなか困難ではないか?
そしておそらく昔から、ベテラン教員は若い頃にはできていたはずのコミュニケーションがままならなくなり、次第にやる気を無くしていく存在ではなかったのか?
昔ならばそうしたやる気を失ったベテラン教員も、その存在を社会から問題視されることはなかった。
今はそうした無気力な教員の存在自体が問題視される時代。
そんな風潮の下で、たまたまクローズアップされただけのような気もします。
長くなり失礼いたしました。
教員と生徒の人間関係に、世間の価値観や風潮に左右されない本質があり、ベテラン教員は生徒との人間関係に特に以前と変わらず問題がないと考えているとします。
それなのに、ベテラン教員たちは、なぜこんなにやる気を無くしてしまうのでしょう?
改革により教育現場が翻弄されているから、ベテラン教員はやりたいこともやれず、やる気を無くしてしまうのでしょうか?
もしそうならとんでもない傲りだと思いますが、現場のベテラン教員の方々はそんな傲慢不遜ではないように思います。
青臭い言い方ですが、教員は生徒が命、教員は何を差し置いても、生徒とのコミュニケーションが最優先の課題でしょう。
目の前にいる生徒たちと特に深刻なコミュニケーション障害があるわけでもないのに、やる気を無くしてしまうなんて、そんな無責任な話はありません。
現場のベテラン教員の方々はそんな無責任な人ばかりとは思えません。
私の見方は第三者的で的外れかもしれませんが、ご指摘の2点を差し引いても、ベテラン教員の士気低下が改革や新しい教育のせいだと断じることには未だ抵抗があります。
現場でのご経験からいつもの鋭い洞察を拝見できたら幸いです。
生意気な反論ご容赦ください。
士気の低下についてですが,教員の士気の低下を云々なさる前に,ご自身がどのようなときに士気が低下するのかを深くお考えいただければ,また違った見方ができるのではないかと推察いたします。
「一般社会でも最近あまり見られないが,だからこそ、かつての学校でも当たり前であったことを, 今の学校でこそ行うようになれば,確実に学校はよくなり、一般社会も良くなっていくのである。」
当たり前だったことが当たり前でなくなった理由を考えることが大事なのでしょう。経験より現物のお金が大事。心の美しさより、化粧した顔の美しさが大事、整形だろうと美人になりたいのが今のこの国の住民なのでしょう。
その理由を掘り下げると実は怖い結論になりかねない。だから管理人様の言う通り、皆さん考えて欲しいのです。
やはり情報リタラシー教育を抜本的に改善し改革するのが近道だと考えています。情報教育は改革が必須。でも改革の方向性は360度の自由度があり、まずど素人の教育陣では誤るのは必須。
私に依頼してこない、仲の良い、また敵対心だけの懇意な学校人がいるのがアホな私には信じられない、不思議なのです。
考えると、要するに自分が定年まで食べて行けたら後は野となれ山となれなのでしょう。
結局、血潮は流れて川を成す。南無阿弥陀仏。