学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

授業を受ける姿勢

2009-02-25 | 教育
授業を受けるには
作法というものがあってしかるべきである。

授業の最初と最後には,
きちんと起立してお辞儀をする。

話を聴くときは,
きちんと先生の目を見て,
背筋を伸ばし,手を膝の上に置く。

話を聴くときとノートをとるとき,
作業をするとき,などなど,
動作にけじめをつける。

居眠り,私語,立ち歩き厳禁。

このような授業作法を早いうちから
叩き込んでおけば,
それだけで教室は崩れないし,学力は伸びる。

何も奇をてらうことはないのである。
昔から学校では当たり前とされていたことを
当たり前にやり続ければよいのである。

教師には,その教師の能力を超えた授業はできない。
教師の能力には限界がある。
優れた教師がいつも存在するわけではない。
だとすれば,学習者の側の学ぶ姿勢の有無,
それも外面的にはっきりわかる学ぶ姿勢の有無が,
授業の価値を大きく左右するのである。

つまり,大したことのない授業でも,
真剣に熱心に聴けば,学力は伸びる,
ということである。



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21 Comments

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Unknown (madographos)
2009-02-26 21:56:38
>kurazoh様。勉強が出来ないのは自分のせいだと思っている子どものほうが伸びますよ。「しかし・・・」以下の文章は,私のブログに書き込まれる内容としては不適切ですね。
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子どもの責任? (kurazoh)
2009-02-26 21:50:12
>「学力不足を子どものせいにする」,あたりまえです。学力不足はその本人の責任です。

自己責任は、たとえば学校選択が自由でかつ、優秀な教師を担任として選べる環境にあったとしたら、問うことが可能になるかもしれません。
塾はその通りの状況でしょう。

しかし、行政からここの学校に行け、と言われ、たとえば「虐待が原因で男の人が苦手だ」と相談しても、「あなた個人の都合には合わせられない」として無視され、しかもそれが指導力不足の教師で、勉強はわからない、いじめの相談にはのってもらえない、担任とはコミュニケーションがとれない、結果として不登校になる、・・・それでもやはり「子どもの責任」ですか?
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Unknown (madographos)
2009-02-26 21:33:16
>kurazoh様。「自己責任」論とは何ですか? あなたがおっしゃっている教師の役割と,私が言っていることでは論点がかみ合っていません。
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「自己責任」は責任転嫁の常套手段 (kurazoh)
2009-02-26 21:00:24
内田樹はmadographosさんのおっしゃる「自己責任」論への危惧を表明していませんでしたか?

さて、個人内評価はもちろん大切です。
特に、ゼロサムベースで評価されていた時代=相対評価の時代には。
自分の成績を一つ上げるためには、他の人の成績を下げなければなりませんから。

しかし、今は、目標に準拠した評価=絶対評価の時代ですから、この評価は一人一人の子どもが目標に照らしてどこまで達成できたのかが示されているわけです。
ですから、どの子も「十分満足」まで引き上げられる教師も出てくれば、たくさんの子どもが「おおむね満足」に達しないまま放置され、「子どもの授業態度が悪い」と「自己責任」にされてしまう子どもも出てきます。
ゼロサムベースでは表面化しなかった教師の指導力格差が、はっきり現れる時代になったのです。

新しいことを学んで知識が増えていることでいちいち喜んでいるのもいいのですが、その「知識の増え方」「技能の定着の在り方」に格差が生じている場合、指導法に何か問題はないか、工夫できる点はないのか、「おおむね満足」まで達成できない子どもにはどのように指導しようか、発展的な課題は何を用意しておこうか、そういうことを考えるのが教師の役割でしょう。
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Unknown (madographos)
2009-02-26 07:31:42
>kurazoh様。「子どもの既習事項が増えることも「学力向上」という」,全く当然です。「すべての子どもの学力は向上する」,それこそ教師の喜びです。「学力」の定義を無責任にこねくりまわして右往左往するよりは,子どもの成長を素朴に認めていくことが,教師の姿勢としては大切ですよ。PISA型読解力などに翻弄されてあたふたしているのがよい例です。生徒の美質をあるがままに認めることができないのならば,教師である資格はありません。「学力」の責任を生徒に帰することが,その生徒を人として認めているということになるということにお気づきになりませんか? 
ところで,kurazoh様は,「親としては」という表現を多用されますが,それは過度の一般化であってあまり効果的なレトリックではありませんよ。
kurazoh様はお見受けするところ,内田樹の忌避する「他のやつの足を引っぱった方が得する」という市場原理的な価値観を十分に身につけた世代でいらっしゃるようですね。彼の言う「昭和のエートス」を皮膚感覚として感じることのできない世代の方には,その過ちが理解できないのでしょうね。
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子どもが悪者ですか・・・。 (kurazoh)
2009-02-26 01:55:31
子どもの既習事項が増えることも「学力向上」という・・・ですか・・・。
すべての子どもの学力は向上しますね・・・。
親としてはがっかりする他ない学力観ですね・・・。
なお、内田樹はゼロサムベースで教育を語ってしまっていますから、「他のやつの足を引っぱった方が得する」という生徒観を平気で書けるようになってしまっています。
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Unknown (madographos)
2009-02-26 01:33:49
>kurazoh様。「私語や居眠り,内容への無理解がある授業を優れた授業とは言わない」,その考え方が,学校教育を堕落させています。内容への無理解はその子どもの資質にもかかわるでしょうからよしあしは言えませんが,私語は,私語をする者が悪い,居眠りは居眠りをする者が悪いのは当然です。授業が悪いから,私語や居眠りが起こるなどとねじくれて考えるから,わけがわからなくなるのです。
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Unknown (madographos)
2009-02-26 01:26:43
>kurazoh様。エントリーに記載されていないことを要求するのは,コメントの範囲を逸脱していますね。
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Unknown (madographos)
2009-02-26 01:25:04
>kurazoh様。「授業を受ける姿勢がよい子どもの学力が上がっていない実態」,
残念ながら,私はそのような実態を経験したことはありません。授業を受ける姿勢がよければ,学力は上がります。ただし,この場合の学力の向上とは,以前のその子どもの学力からの向上を指していますが。そもそも学力の他人や集団との比較は無意味ですから。

「学力不足を子どものせいにする」,あたりまえです。学力不足はその本人の責任です。そう言い切ることが,その子どもにとっての最大限の敬意の表明です。教師ならば,その構えをあいまいにしてはなりません。学力不足は教師の責任などと言っているのは,他人の尻を自分の尻だと言っているのと同じことです。はなはだ失礼な話です。
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優れた授業とは、子どもがそれを語っているもの (kurazoh)
2009-02-26 01:22:54
学校改善より前に、まず、授業改善です。
問題の解決のために、まず、madographosさんが「評価を下げようとした」授業評価の項目を公開していただけますか。また、評価を上げようとして上がらなかった評価項目は何でしょうか。
教師としてはまず、私語や居眠り,内容への無理解がある授業を優れた授業とは言わないということを確認する必要がありそうですね。
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追加 (madographos)
2009-02-26 01:16:41
>kurazoh様。「なぜ子どもが居眠りするのか、なぜ立ち歩くのか、なぜ私語ばかりしてしまうのか、なぜ内容が理解できないのか、そこに正対しない限り、学校への信頼は決して回復することはないでしょう。」

あたかも正論であるかのように見えますが,その論理展開こそが,教育論の陥穽です。どんなに優れた授業でも,私語や居眠り,内容への無理解は生じます。それは,授業者の問題ではなく,学習者の側の問題だからです。教育は万能ではありません。「教育可能性」ということを厳しく吟味すべきだろうと思いますよ。
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Unknown (madographos)
2009-02-26 01:11:28
>kurazoh様。以前にも申し上げたことがあるかと思いますが,私が表明している以上のことを,ご自身の経験からあれこれ付け加えて解釈される傾向がおありのようで,閉口しております。ところで,kurazoh様は,学校改善の実効ある処方箋をお持ちなのでしょうか? 私は,内田樹氏の『街場の教育論』の考え方が,最も現実的で現場に即した処方箋だと思っております。
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問題の根っこ (kurazoh)
2009-02-26 01:01:08
問題がないことにしようとする教師がいる以上は、解決する以前に、問題があることを明らかにしておかなければなりません。
指導力不足の原因は、まれに改善不可能な資質の問題もありますが、何が問題かが把握できていないことにあるわけです。
なぜ子どもが居眠りするのか、なぜ立ち歩くのか、なぜ私語ばかりしてしまうのか、なぜ内容が理解できないのか、そこに正対しない限り、学校への信頼は決して回復することはないでしょう。
「授業を受ける姿勢」がよくなれば、学力は上がります・・・授業を受ける姿勢がよい子どもの学力が上がっていない実態を無視して、学力不足を子どものせいにする、そういうふうに教育を語る教師の姿勢に問題の根がある・・・というのが私の考えです。
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Unknown (madographos)
2009-02-26 00:19:33
>kurazoh様。教師の能力には限界があるからこそ,教師の力量不足は問題ではないのです。というか,教師の力量不足に問題を帰結させては,教育問題は解決しないというべきでしょうか。kurazoh様は,教師の力量不足を指弾なさいますが,それが問題解決に少しでも役立つことがあるのでしょうか?
「教師の精神状態」以下の文章は,理解不能です。
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学習者としての資質がない教師が最大の問題では? (kurazoh)
2009-02-26 00:06:28
「教師の能力には限界がある」としながらも、なぜ「教師の力量不足が問題である」と教師が言えないのか。それが教師不信の最大の原因なのではないでしょうか。
「教師の精神状態」で逃げる姿勢を、子どもは辟易として反抗する、それを力で押さえつけることができる教師が「優れた教師」であるように表現する、そこに問題性を感じませんか?
文月さんのようにやさしい語りかけができないほど、この「根っこ」の問題の解決には困難さを感じています。
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Unknown (madographos)
2009-02-25 23:24:22
>taketyann様。コメントありがとうございます。「先生の言うことは聞くものだ」とする家庭の価値観に支えられていたということは,まったくおっしゃるとおりです。
今の教師の精神状態には,一種のねじれが起こっているように感じます。教室できちんと座って授業を聞くようしつける必要があると一方で思っていながら,一方で子供の個性や気持ちを尊重してやらなければならないと思っている。その両方の思いが同時に起こって,今ここで起こっている状況に対して,対処することに一瞬のためらいが生じる。その積み重ねが,秩序の崩壊を生んでいるような気がします。教師が普通に考えて普通に判断できることを,普通に行えることが大事だと思います。騒がしいときは叱り,秩序を乱す行為は制止し,不正は罰する。そこに子供の心の問題などを持ち込んで話をややこしくしないことがまずは大切なことなのではないかと思います。
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教師の力ではなく (taketyann)
2009-02-25 23:06:03
私も入学して最初のころは、姿勢だのお辞儀だの細かく指導された覚えがあります。

小学1年の担任はまだ若い女性の先生でしたが、今のように話を聞かなかったり、走り回るような子がいなかったのは、やはり家でしつけられていたからでしょう。「先生の言うことは聞くものだ」という常識が存在していたおかげで、経験の浅い教師も子どもの前に立てたのだと思います。

そういった有形無形のサポートを抜きに、個人の力量だけで子どもを指導するのは、多くの教師にとって骨の折れることだと思います。だからこそ精神を病んで休職する先生が、毎年数千人も出てくるのではないでしょうか。
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Unknown (madographos)
2009-02-25 22:05:32
>kurazoh様。決定的に異なるのは,私はこのような作法を徹底できる教師が少ないというような言及はしていないということです。
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Unknown (madographos)
2009-02-25 22:03:43
>ほり様。コメントありがとうございます。私も同じような子供時代を過ごしました。やはり昔から当たり前とされていることを当たり前にやっていくべきだと思っています。
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教師の姿を見れば・・・ (kurazoh)
2009-02-25 01:02:55
授業力うんぬんよりも、そもそもそういう「作法」が徹底できる教師が少ないという点では、同じご意見のようですが・・・。
職員会議の教師の姿を見れば一目瞭然でしょう。
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全く同感です (ほり)
2009-02-25 00:59:15
こんにちは。
自分の思い出話ですが、私は小学生のとき、ことに低学年の頃は特に、登校前、毎朝、ほんとうに、もう毎朝、祖母(両親共稼ぎでしたので)から「学校の先生の話はちゃんとききなさい」と言われ続けました。思えば、それが学ぶ姿勢、授業を受ける態度の基礎作りの一部になったと思います。もちろん、学校でも、先生の話を聞く重要性を教えられましたよ。はずかしながら、私語で叱られたことだって何度もありますし。(傍迷惑な児童でした。)
私は、小学校で、実に実り豊かな教育を受けたと思っています。田舎のごくごくふつーの公立の学校ですが。
持って生まれた能力の割に勉強ができるようになったのは、その頃に培われた基本的な心構えのお陰だと思っています。
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