授業を受けるには
作法というものがあってしかるべきである。
授業の最初と最後には,
きちんと起立してお辞儀をする。
話を聴くときは,
きちんと先生の目を見て,
背筋を伸ばし,手を膝の上に置く。
話を聴くときとノートをとるとき,
作業をするとき,などなど,
動作にけじめをつける。
居眠り,私語,立ち歩き厳禁。
このような授業作法を早いうちから
叩き込んでおけば,
それだけで教室は崩れないし,学力は伸びる。
何も奇をてらうことはないのである。
昔から学校では当たり前とされていたことを
当たり前にやり続ければよいのである。
教師には,その教師の能力を超えた授業はできない。
教師の能力には限界がある。
優れた教師がいつも存在するわけではない。
だとすれば,学習者の側の学ぶ姿勢の有無,
それも外面的にはっきりわかる学ぶ姿勢の有無が,
授業の価値を大きく左右するのである。
つまり,大したことのない授業でも,
真剣に熱心に聴けば,学力は伸びる,
ということである。
作法というものがあってしかるべきである。
授業の最初と最後には,
きちんと起立してお辞儀をする。
話を聴くときは,
きちんと先生の目を見て,
背筋を伸ばし,手を膝の上に置く。
話を聴くときとノートをとるとき,
作業をするとき,などなど,
動作にけじめをつける。
居眠り,私語,立ち歩き厳禁。
このような授業作法を早いうちから
叩き込んでおけば,
それだけで教室は崩れないし,学力は伸びる。
何も奇をてらうことはないのである。
昔から学校では当たり前とされていたことを
当たり前にやり続ければよいのである。
教師には,その教師の能力を超えた授業はできない。
教師の能力には限界がある。
優れた教師がいつも存在するわけではない。
だとすれば,学習者の側の学ぶ姿勢の有無,
それも外面的にはっきりわかる学ぶ姿勢の有無が,
授業の価値を大きく左右するのである。
つまり,大したことのない授業でも,
真剣に熱心に聴けば,学力は伸びる,
ということである。
自己責任は、たとえば学校選択が自由でかつ、優秀な教師を担任として選べる環境にあったとしたら、問うことが可能になるかもしれません。
塾はその通りの状況でしょう。
しかし、行政からここの学校に行け、と言われ、たとえば「虐待が原因で男の人が苦手だ」と相談しても、「あなた個人の都合には合わせられない」として無視され、しかもそれが指導力不足の教師で、勉強はわからない、いじめの相談にはのってもらえない、担任とはコミュニケーションがとれない、結果として不登校になる、・・・それでもやはり「子どもの責任」ですか?
さて、個人内評価はもちろん大切です。
特に、ゼロサムベースで評価されていた時代=相対評価の時代には。
自分の成績を一つ上げるためには、他の人の成績を下げなければなりませんから。
しかし、今は、目標に準拠した評価=絶対評価の時代ですから、この評価は一人一人の子どもが目標に照らしてどこまで達成できたのかが示されているわけです。
ですから、どの子も「十分満足」まで引き上げられる教師も出てくれば、たくさんの子どもが「おおむね満足」に達しないまま放置され、「子どもの授業態度が悪い」と「自己責任」にされてしまう子どもも出てきます。
ゼロサムベースでは表面化しなかった教師の指導力格差が、はっきり現れる時代になったのです。
新しいことを学んで知識が増えていることでいちいち喜んでいるのもいいのですが、その「知識の増え方」「技能の定着の在り方」に格差が生じている場合、指導法に何か問題はないか、工夫できる点はないのか、「おおむね満足」まで達成できない子どもにはどのように指導しようか、発展的な課題は何を用意しておこうか、そういうことを考えるのが教師の役割でしょう。
ところで,kurazoh様は,「親としては」という表現を多用されますが,それは過度の一般化であってあまり効果的なレトリックではありませんよ。
kurazoh様はお見受けするところ,内田樹の忌避する「他のやつの足を引っぱった方が得する」という市場原理的な価値観を十分に身につけた世代でいらっしゃるようですね。彼の言う「昭和のエートス」を皮膚感覚として感じることのできない世代の方には,その過ちが理解できないのでしょうね。
すべての子どもの学力は向上しますね・・・。
親としてはがっかりする他ない学力観ですね・・・。
なお、内田樹はゼロサムベースで教育を語ってしまっていますから、「他のやつの足を引っぱった方が得する」という生徒観を平気で書けるようになってしまっています。
残念ながら,私はそのような実態を経験したことはありません。授業を受ける姿勢がよければ,学力は上がります。ただし,この場合の学力の向上とは,以前のその子どもの学力からの向上を指していますが。そもそも学力の他人や集団との比較は無意味ですから。
「学力不足を子どものせいにする」,あたりまえです。学力不足はその本人の責任です。そう言い切ることが,その子どもにとっての最大限の敬意の表明です。教師ならば,その構えをあいまいにしてはなりません。学力不足は教師の責任などと言っているのは,他人の尻を自分の尻だと言っているのと同じことです。はなはだ失礼な話です。
問題の解決のために、まず、madographosさんが「評価を下げようとした」授業評価の項目を公開していただけますか。また、評価を上げようとして上がらなかった評価項目は何でしょうか。
教師としてはまず、私語や居眠り,内容への無理解がある授業を優れた授業とは言わないということを確認する必要がありそうですね。
あたかも正論であるかのように見えますが,その論理展開こそが,教育論の陥穽です。どんなに優れた授業でも,私語や居眠り,内容への無理解は生じます。それは,授業者の問題ではなく,学習者の側の問題だからです。教育は万能ではありません。「教育可能性」ということを厳しく吟味すべきだろうと思いますよ。
指導力不足の原因は、まれに改善不可能な資質の問題もありますが、何が問題かが把握できていないことにあるわけです。
なぜ子どもが居眠りするのか、なぜ立ち歩くのか、なぜ私語ばかりしてしまうのか、なぜ内容が理解できないのか、そこに正対しない限り、学校への信頼は決して回復することはないでしょう。
「授業を受ける姿勢」がよくなれば、学力は上がります・・・授業を受ける姿勢がよい子どもの学力が上がっていない実態を無視して、学力不足を子どものせいにする、そういうふうに教育を語る教師の姿勢に問題の根がある・・・というのが私の考えです。
「教師の精神状態」以下の文章は,理解不能です。
「教師の精神状態」で逃げる姿勢を、子どもは辟易として反抗する、それを力で押さえつけることができる教師が「優れた教師」であるように表現する、そこに問題性を感じませんか?
文月さんのようにやさしい語りかけができないほど、この「根っこ」の問題の解決には困難さを感じています。
今の教師の精神状態には,一種のねじれが起こっているように感じます。教室できちんと座って授業を聞くようしつける必要があると一方で思っていながら,一方で子供の個性や気持ちを尊重してやらなければならないと思っている。その両方の思いが同時に起こって,今ここで起こっている状況に対して,対処することに一瞬のためらいが生じる。その積み重ねが,秩序の崩壊を生んでいるような気がします。教師が普通に考えて普通に判断できることを,普通に行えることが大事だと思います。騒がしいときは叱り,秩序を乱す行為は制止し,不正は罰する。そこに子供の心の問題などを持ち込んで話をややこしくしないことがまずは大切なことなのではないかと思います。
小学1年の担任はまだ若い女性の先生でしたが、今のように話を聞かなかったり、走り回るような子がいなかったのは、やはり家でしつけられていたからでしょう。「先生の言うことは聞くものだ」という常識が存在していたおかげで、経験の浅い教師も子どもの前に立てたのだと思います。
そういった有形無形のサポートを抜きに、個人の力量だけで子どもを指導するのは、多くの教師にとって骨の折れることだと思います。だからこそ精神を病んで休職する先生が、毎年数千人も出てくるのではないでしょうか。
職員会議の教師の姿を見れば一目瞭然でしょう。
自分の思い出話ですが、私は小学生のとき、ことに低学年の頃は特に、登校前、毎朝、ほんとうに、もう毎朝、祖母(両親共稼ぎでしたので)から「学校の先生の話はちゃんとききなさい」と言われ続けました。思えば、それが学ぶ姿勢、授業を受ける態度の基礎作りの一部になったと思います。もちろん、学校でも、先生の話を聞く重要性を教えられましたよ。はずかしながら、私語で叱られたことだって何度もありますし。(傍迷惑な児童でした。)
私は、小学校で、実に実り豊かな教育を受けたと思っています。田舎のごくごくふつーの公立の学校ですが。
持って生まれた能力の割に勉強ができるようになったのは、その頃に培われた基本的な心構えのお陰だと思っています。