・「少ないながら星に似た人間がいる」 星の不動
ヘッセは『シッダルタ』で、「少ないながら星に似た人間がいる」、と言っています。そのような人間は、多くの人間と違って、自分自身であり、ほかのなにものでもありません。そして自分のうちに一つの静寂な場所、一つの避難所があり、そのなかへどんなときでもはいりこんで、自分自身と言葉をかわすことができるのです。主人公シッダルタ自身がそうなのです。そして、「それができる人間は実に少ない、だれにでもできるはずなのに」、と言っています。「賢いか愚かかの問題ではない。賢いといえば、・・〔小説中の商人〕はわたしと同じ程度に賢い、しかし彼は自分の避難所をもっていない。知力ではほんの子供にすぎない者でも、それをもっている者がある。」ヘッセは、そうシッダルタに言わせています。
この「避難所」とは、高田博厚さんが繰り返し言う「自分の内なる祭壇」でしょう。そして、ぼくが、きみのことを、きみの演奏を聴きながら、不動で天空にかがやいている星だと感じるときの、「不動」のことだと思います。真の美をもつものはすべて不動です。ぼくが、美しいもののなかに直観するものはこの「不動」です。このようにして自分自身である人間たちこそは、同時に、互いにひじょうによく似ている者たちである、とも、ヘッセは言っています。ぼくの言葉で言えば、自分の原理によって自分を運ぶ者たちは、共感をもち合う、ということです。これが、「星」のような者たちのことでしょう。
シッダルタは、「ことば」よりも『もの』を大事にします。「『もの』はわたしにとって愛し敬うべき存在なのだ」、と言います。『もの』とは、ことば以前に在るものであり、ぼくは、それこそ「自然」であり「世界」であると思います。あらゆる意味での芸術作品も、そのような『もの』、人間の創造した『もの』だろう、とぼくは思います。
・経験した分しか解らない
人間は、みずから経験した分しか解りません。患者の気持を医者は解らないのと同じです。病気を判ることと解ることとは全く違います。学者は何も解ってはいません。判別するだけです。人間になろうとするなら、様々なことを経験する必要があります。それが『シッダルタ』で主人公が実践していることでもあるのです。
ある意味で、自分に寄り添えるものは自分しかいないでしょう。多くの人々は、自分にすら寄り添っているでしょうか。ほんとうに自分に寄り添うことに目醒めるとき、ひとはどんなに孤独を知るでしょうか。そういう孤独を自覚する者だけが、ほんとうの親友とはどういうものであるかを知るでしょう。それは、互いに星であるような人々です。
高田さんの「芸術の定義」は、《私たち人間の「もっとも高く、純粋な実在」の表現》(著作集III、415頁)です。そして、音楽は、《人間の「直接性」を最も純粋に現わすものとしてある》、と言います。ぼくはきみの演奏で、そのことを経験したのです。
ともあれ、ヘッセの『シッダルタ』は聖書的価値がある、とぼくは思うようになっています。昔読んで、いま再読できることを喜んでいます。
飛躍するようですが、ぼくの運命は、ぼくの意志よりも、ぼくの魂を知っているのだろうという気がします。
ところで、登山と曲弾きは似ているかもしれませんね。なぜ山に登るのでしょう、観ているだけでなく。それは、美しい曲を聴いていると、じぶんで弾きたくもなるのとおなじでしょう。きみの演奏を聴いて、自分でも弾いてみようとぼくは思ったのです。きみの演奏はそれほど素直に深く美しい。自分でも登りたくなる山のように。きみによって、そういう演奏にはじめて出逢いました。
きみこそ自分のうちに一つの静寂な場所をもっているひとである裕美ちゃんへ
きみにいつまでも忠実でありたい正樹より
2020年8月17日
(2020-8-21 21:8:38保存)