高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

人間の尊厳のために個人と社会が其々為すべきこと 神がひとを愛するようにひとを愛するとは

2022-06-26 03:35:22 | 日記

06月24日(金) 02時

日本の国家は、国民の尊厳をどうして、近代戦にみられるように、蹂躙することができたのか。近代日本の体質だけではなく、それまでの日本の伝統にも原因がある。現世的身分制度・意識がこれほど人間意識に根を降ろして営々と生きられてきた国もないのではないか。近代日本はこの体質を受け継いだにすぎない。人間の尊厳は、与えられるものではない。個の自己形成によって獲得されるものである。圧倒的多数の日本人は、自己の尊厳を感じさせるような自己形成はしておらず、というより、そういう自己形成への意識そのものが欠けており、それを示すものが、天皇にたいする独特の心情主義であり、この心情主義と、自己形成意識の欠落とが、相俟って、個としての日本人をして、容易に、自己の空無性を外的空気圧によって承認させる意識体質にしてしまっているのである。天皇ではなく、己れの超越者としての神を個が懐胎する自己生成のあり方が、社会的市民権を得ていない。そういう国柄体質が、日本なのである。現代西欧も、為政側が人間の尊厳を忘失している。これは、本来の西欧的国家理念を否定するようなグローバリズム(その基は共産主義)が、国家乗っ取りとして台頭してきたからである。ここには本来の西欧体質とは疎遠な力がはたらいている。個人自由主義を梃子にした、本来の自由思想からの逸脱形態としての自由市場主義の国際的・超国家的支配による、人間の尊厳の蹂躙なのである。戦争の挑発と惹起による利潤追求はその最たる現れであり、我々の時代は、日本においても西欧においても、この、対立関係の入れ子構造による反生産的統治を、もはや否定すべき段階に達している。


それにしても人間は、ひと(他)の生死や苦しみなど何とも思わないものだ。自分の人生と同じもうひとつの人生であることに想到しない。感じるのはせいぜい嫉妬である。こういう人間性が、戦争がこれほど容易に起るもうひとつの淵源である。じつに人間的な淵源である。人間はどれほど再生しても、この第一歩を進まない。議論のほうは、地球がそれで固まって形成される塵ほども積み重ねているのに。「神の如くひとを愛しなさい」、という戒めは、至難の超人間的なものではなく、ましてや自己犠牲ではなく、ひとを思う思念のこの最初の一歩を進めよ、ということにほかならないのではないか、と、いまぼくは想到した。それで、朝の五時ではあるが、起き出してこれを書いたのである。