高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」3(第二部)

2024-12-24 17:50:00 | 翻訳

ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」第二部 古川正樹訳 2024.9.5~

 

(168頁)

第二部

諸々の暗号の世界

 

概観

 1.諸々の暗号の普汎性。— 暗号であり得ないものは存在しない。あらゆる現存在は漠然とではあるが振動し話し掛け、何かを表現しているように見える。だが何処へ向かって何処からであるかは定かではない。世界は、自然であれ人間であれ、星々の空間であれ歴史であれ、意識一般であれ、ただ現存在しているのではない。すべての現存在するものは、言わば人相学的に直観されるものなのである。
  世界定位的な知のいかなる専門領域にも納まらず、その時々の形像の関連〈内部脈絡〉として捉えられるようなひとつの全体を、記述する試み、この試みは、自然、植物、動物、風景の、人相学へと通じるものであったろう。さらに、歴史上の諸時代、諸文化、諸々の身分や職業の、そして、人間の諸々の人格性の人相学へと、通じるものであったろう。
 科学的に規定された諸目的のための叙述にとっては、方法というものがある。だが、人相学的な現存在把握にとっては、方法というものはない。人相学という名の許で行なわれていることは、むしろそれ相互の内で異質的である: 例えば、知の直観的な先取りであり、この知はその後、徹底的に非人相学的に、合理的かつ経験的に検証される。(169頁)そのほか、他の途の上でも接近可能な心的現存在の表現を了解すること。人類の歴史上の諸時代と諸集団の、史実的自然造形物と精神との性格を把握すること。人が諸事物を自分の心的生を立ち入って担うものとして理解する限りで、感情移入して名づける諸事物の諸々の気分。
 これらのすべてが既に表現であった場合でも、未だ暗号ではない。それはあたかも、表現の下には表現が、階層系列のなかに立っているようなものであり、この階層系列は、暗号が解釈し難く自己現前することで初めて止むのである。この場合、この暗号の自己現前とっては、人相学の曖昧な諸可能性とは区別されて、つぎのことが妥当する。第一に、暗号の自己現前においては、後になって知られるであろうような何ものも先取りされない、ということ。暗号の生は、それ自体はこの生とならないところの知に接して点火させられるので、すべての知はむしろ暗号をただ益々決定的にするのみなのである。第二に、暗号の自己現前は人間の心の現実の表現ではない、ということ。この現実は、その表現もろとも、むしろ全体として初めて暗号となるのである。第三に、暗号の自己現前は自然の諸形態の性格ではなく、人間の諸構築物の精神でもない、ということ。これら諸形態や諸構築物はむしろ初めて暗号となることがあるものなのである。第四に、暗号の自己現前は、感情移入による心的生ではない、ということ。暗号の自己現前は実存にとってはひとつの客観性であり、この客観性は、他の何ものによっても表現されず、ただそれ自身とのみ比較され得るのである。この客観性において語るのは超越者であり、単に高められ拡張された人間の心ではないのである。したがって、表現において理解可能となるものは、暗号ではない。理解可能にすることは、暗号文を破棄することを意味するのである。理解不可能なものをまさに理解不可能なものとして、了解可能なものを了解しながら、意味深長に形成されているままに見ることは、この理解不可能なものが透明となるとき、暗号を通して超越者に触れることを許すのである。
 2.諸暗号の世界の秩序。— 人相学は、現存在のその都度の具体性から〈に基づいて〉解読しようと努める。それは、一般的な諸命題を成果として得るためではなく、一般的なものを途として利用することによって性格描写へ至るためである。それゆえ人相学が真であるに留まり得るのは、その内容を秩序づける体系としてではない。諸形像の体系性は、ただそれらの外面的な現存在諸形式に関わるだけであろう。人は、現存在の人相学を論理化(logisieren)し、知へと格上げすることを試みたが無駄であった。その場合、人は見かけ上、科学的な洞察の諸客観のように、つぎのものを規則と計画の下にもたらすことができる。そのものは、しかしやはり、科学的研究の対象としては、即座に解消されるものであり、現存在全体としては消滅するものである。語ることによる了解行為という具体的な成果があり、その他、この了解行為の諸可能性に関する単に形式的な諸検討というものがあるのである。
(170頁)
 しかし、人相学的なものが暗号となる処では、この人相学的なものは、秩序づけられた知に変える行為にとっては、接近不可能である。この接近不可能性は、無規定的な多義性と具体的な全体性とのための人相学が単に接近不可能な〈近寄り難い〉ようにではない。この人相学的なものは、実存の根源から瞥見される故に、ただ現存在が在るのではなく実存が一役を演じるような処ではむしろ何処でもそうであるように、ここでも、いかなる路も知へ通じるものではないのである。
 意図された「暗号世界の秩序」は、したがって、いかなる概観によっても、暗号世界を支配はしない。暗号世界の秩序はむしろそれ自体、諸暗号として止揚するものであろう。諸暗号は、歴史的な充実性において、概観出来ない深さとしてあるものであり、一般的な現存在諸形式としては、諸々のカプセルとなるのである。
 にも拘らず、人が暗号世界の秩序を、哲学しながらの手探りで考察しようと欲するならば、それはひとつの自然な相互継起として現われる。世界定位のあらゆる現存在が暗号となる。自然と歴史の豪華さがそれである。それから、はっきりと開明された意識一般であり、これは、存在を分節化する諸範疇と共にあるものである。最後に、人間であり、人間は可能性として一なるものにおけるすべてであるが、けっして汲み尽くされないものである。
 a) 世界定位は、それ自体のためには、いかなる暗号解読も必要としない。暗号解読によっては、世界定位は世界定位としては拡張されることはなく、むしろ、それ自体において不明瞭となるという危険に陥る。というのも、世界定位は、現存在の暗号本性を批判的に分離することによってこそ、自らを展開してきたからである。暗号解読は、世界定位において妥当性を有し得るような最も僅かな知をも創りはしないが、世界定位で捉えられる諸事実は可能的諸暗号なのである。しかし何が暗号であり、いかにして暗号であるかを決めるのは、どんな科学でもなく、実存なのである。
 世界定位である科学が無ければ、形而上学は空想となる。形而上学はただ科学を通してのみ、諸々の立脚点と知識内容とを得るのであり、これら立脚点と知識内容とは、自らの歴史的状態のなかにある形而上学にとって、現実的な超越行為の表現として役立ち得るのである。形而上学的探求のほうからは逆に、私が現実の内で暗号を観ることによって世界定位が私にとって本質的に重要となる場合には、世界定位に弾みを与えるのである。したがって、超越者の探求は同時に、現実的なものを仮借なく知る意欲としてあるのであり、この意欲は、世界の内では決して満足に達しない〔科学的〕研究として自らを遂行するのである。暗号解読において観ぜられた超越者は、形而上学として直接に言表されると、気の抜けたものとなる。超越者によって私が充実させられるのは、私〔自身〕の現実的な世界定位においてであって、私に他の者がその世界定位に基づいて伝達するような、憶測的な形而上学的知によってではないのである。
 全方面的な世界定位が真の暗号解読の前提であり、真の解読は現実の内で起こり、この現実は(171頁)世界定位を通して判明となったものであるとしても、それでも、暗号解読は、私が自分の言うに任せる諸科学の諸成果に即して遂行されるのではない。そうではなく、私は現実自体において解読するのであり、この現実へと私は方法的知に基づいて還帰するのである。この方法的知は現実を私にとってそもそも初めて接近可能にするものなのである — 他方で私は現実の内では、前もっては盲目で運動しておらず、誤って彷徨していたのである。私が方法的に世界定位の知を具体的なものに即して遂行する場合にのみ、私は諸々の暗号を解読し得るのである。世界知と、超越することである解読は、そもそもの最初から関連し合っていたように、この二つの批判的な分離によって、真の連結が可能なのであるが、この連結は、諸々の効果や固定された諸事実や諸理論に即するものではなく、ただ、諸々の根元にのみ即するものなのである。
 科学的な世界定位は、規定的な諸観点の下に、自らの諸対象を孤立化する、つまりそれらを分割し、構成と仮定とによって、また還元によって、変化させる。諸々の測定可能性に即してであれ、撮影可能な諸々の直観性に即してであれ、諸々の特性指標の有限な数を伴った諸概念に即してであれ。
 実存が行なう世界定位に最初から随行しており、長きに亘って不明瞭な諸混同のなかで世界定位の代わりをする暗号解読は、その時々に全体であるものを拠り処とし、直接的な現在を、還元されない充実を、拠り処としているのである。
 このような全体を形像的に客観化することは、第二言語の意味での象徴であり得るのであるが、この客観化は像としては、知の可能性としての諸事象から欺瞞的に遠ざかることとなるのである。というのも、この形像的なものは、憶測的に知られた対象となると、世界と自我との間に押し入り、世界を世界定位にたいして霧で覆い、空想的となった諸像を直観することで自我を破滅するに任せるからである。
 世界定位の批判的な浄化を以て、暗号解読も初めて自己意識的となり、純粋となるのである。今や暗号解読が自らを支えるのは、諸々の事実によってであり、諸事実と諸方法の鋭利さを通して可視的となる、世界定位の諸限界によってである。すなわち、決して消えることのない、現実的なものの残余によってなのである。だが、暗号解読が再び直接的全体性を創るなら、それは世界定位における客観的な意義のいかなる要請も無しにであり、むしろただ、象徴的性格を有する形像的直観行為としてのみ、そうするのである。
 暗号解読は根源的に、個々の現実性に即している。とはいえ、世界知が可知的なものの百科全書的な統一へと押し迫るならば、暗号解読はあらゆる現実的なものの直接性の全体へと押し迫るのである。暗号解読は、特殊な(172頁)諸現実性の孤立存続を得ようとするのではなく、あらゆる現実性に開かれてありつつ、直接的な超越行為の意識を、歴史的に接近可能となった世界の全体において得ようとするのである。暗号解読は、諸事実性としてのいかなる対抗審議をも疎かにしようとはせず、諸現実性の単に偶然な系列を、盲目的なまま、他の系列に抗して、ひとつの欺瞞的な像のために選び出そうともしない。
 それゆえ、暗号解読の諸原則は、つぎのようなものである: あらゆる現実的なものを知ろうと欲すること。そして: 具体的現実性におけるこの知を、現前的に、自ら方法的に遂行しようと欲すること。あるいは他の言い方では: 全的に居合わせること、そして、一般的な諸可知性として挿入された諸成果によっても、以前の暗号解読の硬直化した諸象徴として挿入された諸像によっても、自らを諸事物から遠ざけておかないこと。
 暗号としての現存在は、全く現前的なものであり、絶対的に歴史的なもの、そのような歴史的なものとして「奇蹟」であるところのものである。奇蹟は、外面化され合理化されると、自然諸法則に抗して生じるか、自然諸法則無しで生じるものである。しかし、生じるすべてのものは、現存在としては諸々の法則性に従って尋問されねばならないのであり、これらの法則性の結果として必然的にそのように生じなければならなかったものなのである。自然法則に反してあるいは自然法則無しで生じるであろうようなものは、強制的に固定化され得る事実としては、決して現われないであろう。このようなことは、そこにおいてのみ私にあらゆる現存在が現われるところの、意識一般の開明可能な本質に従うなら、あり得ないことである。これに対して、直接に歴史的に現実的なものは、知られているものではなく、単に事実であるのでもない。この現実的なものは、自らの無際限性のおかげで残り無く一般的に知られるものに解消可能なのではない。たとえ私がつぎのことを疑わないとしても。すなわち、私が研究による認識に努める限りにおいて、すべては的確な諸事物を以て、即ち洞察可能な諸規則と諸法則に従って生起する、ということを疑わないにしても。それでもこのことは、貫通し得ない現前を持つ現実性が暗号として解読可能となるということと、矛盾しないのである。暗号として、現実性は奇蹟、即ち、「此処と今とにおいて起るもの」であり、このものは、一般的なものに解消可能ではないけれども決定的に重要である限りにおいてそうなのである。なぜなら、このものは、超越する実存にとって、存在を現存在において開示するからである。したがって、あらゆる現存在は、私にとって暗号となる限りでは、奇蹟なのである。 
 暗号においては、実存的行為の無制約性におけると同様、問うことが止む。〔これとは反対に〕無際限なものに陥る問いというものがあり、このような問いは実存的な衝動を欠いている故に、空虚な知性性なのである。問うことは我々にとって真正な空間を有し、世界定位においては限界が無い。しかし問うことは暗号を前にしては消え去る。というのも、尋問されるようなものは、即座にもはや暗号ではなく、暗号の鞘(さや)であろうし、(173頁)単なる現存在として没落であろうから。ただし問いと答えがそれ自体として、そこにおいて超越する暗号解読の材料となるなら別であるが。問うことが端的に最後のことであるなら、いかなる暗号ももはや見られない。問うことは、自らは解離されて客観化作用となる行為としての思惟において、最終のもとなるのである。しかしこのような思惟は、意識一般にのみ由来するのであるから、それ自体は最終のものではない。問うことは、暗号に面する実存の「此処と今」に現前するものを回避することのようであり得るのである。
 b) 意識一般は、ひとつの既に超越する行為となった存在形態であり、この存在形態を私は世界定位を通して探究するのではなく、自分自身の行為において私にたいして確証するのである。自分自身を思惟する、思惟のこのような行為は、その能動性とその論理的構築物において、暗号となるのであるが、この暗号は、世界定位において現存在として接近可能なすべての存在とは、異質であるような種類のものである。
 c)人間は、世界定位にとって現存在であるが、同時に意識一般かつ可能的実存である。人間とは何であるかは、存在知のどんな地平においても問われ、答えられるのであり、究極的には人間の個別的存在という暗号において、その人間の超越者のなかで顕らかとなるのである。
 
 

自然

 
 自然は、内的には接近不可能でありながら私に接近してくる現存在として、空間・時間において〔諸要素間で〕外的に引き合いつつ自らの内では概観し難く関係づけられている現実性である。しかし自然は同時に、圧倒的な力で自らの内に私を閉じ込め、自らを私にたいして、私の現存在の特定のこの点へと集中し、可能的実存としての私にとって超越者の暗号となるものなのである。
 1.他者としての、私の世界としての、私自身としての、自然。— 自然は一たびは私にとって端的に他なるものであり、私ではなく、私無しでも存在するものである。自然はそれから、その内に私が存在する私の世界として存在する。自然は、終わりに、私に与えられているものとしての私が私の暗い根拠である限りにおいて、私自身である。
 端的に他なるものとしての自然は、それ自身の根に基づく現存在を有する。恐竜類が熱帯の湿原で跳ね回っており、まだいかなる人間も存在していなかったような、何百万年も前に存在していたものは、やはりひとつの世界だったのである。我々にとってその世界は単に過去であるが、しかし、その残滓を、人間の世界現存在の創造と共に同時に、嘗てそれ自体が現在であったこと無しに、永遠に過去のものとして生み出された何かとして見做すことは、馬鹿げたことだろう。(174頁)人間存在のために自然を一度全滅させることは、自然の至る処から語りかける自然自体の存在を奪うことである。この他者存在は我々に、ただ自らの諸局面を与えるのみであって、自らの自己存在を与えはしない。だが、それ自体は理解不可能でありながら、自然は我々にとって、それでも依然として我々の世界なのである。
 自然は、自然の内での私の行為を通して、私の世界となる。この行為が努めるのは、一方では、自分の現存在目的のために自然を奪取することであり、領域を設定した単純な手仕事と手工業から技術的な支配に至るまでの手段を用いて自然を加工することである。あるいは他方では、活動的労働は、自然を我が家とする手段であり、それは私が自然を利用しようとする場合ではなく、観照しようとする場合なのである。私は彷徨い、旅行し、自然と特別に親近な私の場所を探し、あらゆる限界を越えて進み、自然を完全に知りたいと思う。自然においては、端的に他のものと、私の世界として自然であるものとの緊張は、止むことはない。どんなに支配しても私は自然に依存したままである。自然は私へと方向づけられている観があり、私を担い、私に仕えている観がある。しかし私は自然にとって明白に全くどうでもよいものでもあるのである。敬意を懐くことなく自然は破壊する。
 私は自らが自然である。しかしただ自然なのではない。というのも私は、自分を自然に対峙させ得るからであり、私の内なる自然を、私の外なる自然と同様に制御し、変貌させ、自分のものとして引き受けることが出来、この自然において我が家に居るようであることが出来るからであり、あるいはこの自然に負けたり、この自然を隔離して排除したりすることがあるからである。自己存在と自然存在とは、互いに属し合うものとして対峙し合っているのである。 
 2.自然の暗号存在。— 自然への愛は、暗号を、測定可能で普遍妥当的ではないが、あらゆる現実において共に摑み取られ得るような存在の、真理として観ずる。路の水溜り、太陽の日の出、虫の幼虫の解剖、そして地中海の光景、こういったものにおいては、科学的研究の対象としての単なる現存在を以てしては汲み尽くされない何かがある。
 暗号として自然は常にひとつの全体である。差し当たり、風景として。大地現存在の規定的状況としての風景において、私はその都度存在しているのである。それから、〔自然は〕一なる世界全体として、私が思惟し表象する如き一つの測り知れない宇宙である。次いで、〔自然は〕特殊な諸存在者の自然諸領域であり、すなわち、諸々の鉱物、植物、動物の諸形態、そして光、音、重力といった基本的な諸現象なのである。最後に、〔自然は〕ある環境の内での現存在の諸様態としての諸々の生命現象の領域なのである。全体は常に、概念的に理解され説明され得るものより以上のものなのである。
 暗号としての自然は、歴史的に特殊な形態において、私の現存在が大地に結びついていることであり、そこにおいて私が生れ(175頁)自分を選択したところの自然の近さである。そういうものとして自然は、交わりを欠いた暗号である。なぜなら、この暗号において自然は、私にとって唯一的に、それゆえ最も強烈に、血縁的存在——私の魂の風景——として存在するからであり、かつ、これとは別に、全く疎遠なものとして存在するからである。
 ここから円環は更に引っ張ってゆく。私は、諸々の場所の精神にたいして開放的であり、この精神は、私にたいして、交わりのなかで、過去と現在から私に近付いて来る他の実存たちの〔各自の場所への〕根づきを伴って立ち現れるものなのである。私は更に、見知らぬ風景に開かれている。未だ自然が人間によって触れられていない処では、私は自然のなかでの孤独の内実を当てにしているのである。地球は故郷となり、旅することへの衝動は大地の諸形態のなかに諸々の暗号を探すこととなるのである。
 自然の歴史性は、限界無きものの中へと拡大可能ではあるが、風景の絶えず新しい諸々の歴史的一回性において凝集される。しかし、〔自然の〕類型が一般的に観ぜられる程(北海の、低湿地と荒野と沼地を伴った海岸地帯。ホメロス風の海の光景。〔イタリア南部地方の〕カンパーニャ。ナイル川。山岳地帯と荒地。極地世界。ステップ地帯および熱帯地方…)、類型は暗号としては非現実的である。ただ、現前的なものの無限性に立ち合う場合にのみ、暗号は開顕可能なのであり、この暗号に諸々の類型の抽象はただ目醒めさせつつ導いて行き得るにすぎないのである。したがって、諸々の可能性のいかなる俯瞰も存せず、そういった俯瞰があるとすればそれ自体は諸暗号を自らにとって遮光されたものにしてしまうであろう。自らの場所で深化すること、自らの風景に忠実であること、疎遠なものが現前的なものとなることに準備すること、これらのことにおいて、自然の歴史的な言葉が聴かれるのである。
 私は自然から語り掛けられているが、自然は問われると押し黙ったままである。自然はひとつの言語を語るが、そのことによって自分の姿を現すことはなく、あたかも言い始めると言い淀むかのようである。不可解なものの言葉であるからといって、この言葉はその不可解なものの愚かしい事実性であるのではなく、暗号として、その不可解なものの深みなのである。
 暗号においては、客観的な作用無しの現前的現実性の意識がある。暗号において経験されるものは、継起系列において認識可能なものとして経験的に現存在するのではなく、諸原因に依存しているのでもなく、内在次元における超越者の純粋な自己現在なのである。
 3.自然哲学による暗号の解読。— 自然の暗号が何であるかを一般的に言うことを、古来、自然哲学は敢えて試みてきた。自然哲学は自然を人間に理解し得るように努めてきたし、それによって、この魂を吹き込まれた親近さとは反対に、自然の近寄り難いものを、他なるものとして感じさせることにもなったのである。この他なるものは人間の諸可能性を超えて崇高なものとされた。(176頁)自然があたかも人間にとってのみ存在するかのように、自然が人間にとって思念されることは不可能であること、〔そして〕自然が自ら自身の内で充足することもまた不可能であること——このような見極め難さへと、思弁的思想は突き進むものであった。これらの思弁的思想は自然を先ず——あたかも自然が自らの内に閉じられているかのように——「一なる全生」(das eine Alleben)として観じていた。これらの思想はその後、世界定位の知において自然の統一性が分解するに任せたのであり——その結果、自然は何か他のものを示すように見えることとなった——。終極的に、これらの思想は自然を、新しい統一性において、自らの内で分節化された階層系列として、そして自然自体を包越的な階層系列において、思惟するようになったのであり——、その結果、自然は他のものの中で止揚されることとなったのである——:
 a)全生とは、「自然は生成の陶酔である」、ということである。何処から何処へと問われることもなく、自然は終わり無き去来であるような存在なのである。この存在は永遠に自らの酩酊のなかに保たれるのである。人格も運命も知ること無く、自然は、自らの創造行為の大河への帰依であり、この大河の熱狂は、無意味なものの苦痛と一つに絡まり合っているのである。つまり、自然は苦痛の車輪なのである。この車輪は、何の成果も無く、自分を自分自身の回りに回転させているように見える。自然は、いかなる本来的時間でもない時間である。なぜなら、絶え間なき産出と貪食とにおいて、決断を欠いた無際限性が続いているからである。あらゆる個別的なものは、浪費の測り難さにおいて無のようである。自然は、自らの欲することを知らない渇望である。自然は生成の歓喜として、くすんだ拘束の嘆きとして、見遣る。それゆえ、自然の暗号は一義的ではなく、むしろ両義的である:
 自然は、諸力の均衡においては、存立することの安らぎへと自らを浄化する。私がこのような自然に従うとき、静かな調和が私を掬い上げるかのようである。自然は、様々な形態を充満させて汲み尽くせない意味深長さで生成しつつ、自らの現存在を分節化したのである。そして自然はあらゆる生成したものを、仮借なく盲目的に破滅させたのである。それにも拘らず、自然は限り無く慰める存在として現象すること能うものである。すなわち自然は偉大な創造する生命であり、破壊され得ず、現象において永遠に新しく、世界霊魂の常に同じ根源力なのである。全生は自らに私を引き寄せるように見え、私を魅惑するのであり、私をその勢いよく流れる全体性の中へと溶解するように見えるのである。動物および植物の領域における自然の諸形態は、私と血縁関係があるかのようである。だが自然は応答しない。それで私は苦しみ、反抗するのである。ただ、庇護されているという感じと、自然への憧憬が存続するのみである。
 自然の近づき難さは、別の可能性となる。すなわち、私を脅かすところの、束縛を解かれた諸要素であり、絶対的な疎遠性の勢いであり、動物の諸形態の深淵である。この諸形態は、私が自分をそれらとの類縁性において束の間同一視させる限りは、私の恐るべきあるいは笑うべき歪んだ形態となるのである。(177頁)全生は、ひとつの可能性に従えば、私が信頼する母親のように生成する。他の可能性に従えば、私にとって恐ろしい悪魔のように生成するのである。
 安らぎを欠いているというのが、全生の一面である。岩塊のような諸々の形の硬直性は、単に硬化した不安静なのである。微かに光ったり、きらきら光ったりすることの無際限さ。光の前での、あるいは太陽に照らされて微光を発する岩塊の小場所の前での、波打ち。雨の雫の跳躍と、露のなかでのそれらの輝き。無数に運動させられる水面上での色彩の循環と絡み合い。海岸に打ち寄せて砕ける波。立体性で形成されながら一瞬もじっとしていない自らの現存在を有する雲。広さと狭さ。光と運動。——これらの何処においても、自然存在のこのような表面は、魅惑するものであるとともに破滅させるものである。 
 b)自然の統一性の瓦解: 自然は全生としては一なる自然であると見えていたが、この統一性は知にとっては特殊な形態において私にたいして生成する: 自然の普遍的な法則性としての機械仕掛けの統一性があり、ここでは一切は数、基準、重さに従って把握可能である。形態学的諸形態の統一性があり、この諸形態は自らがその都度、可能な諸々の形の一全体なのである。各々個別に生きているものとしての生命の統一性があり、この個別的生命性は自らにおいては無限な全体なのである。ところで、自然の統一性は、まさに、何か或る規定的な統一性をこのように明確に捉えることによって、瓦解するのである。全生〈全き生〉という統一性は、思惟されたものとして存立もするのではなく、ただ、ひとつの統一性という暗号なのである。この統一性は、直接的な〈媒介されない〉意識にとっては、ひじょうに自明的に思われることがあるので、自然である一なるものというこの暗号に固執しないためには、この統一性が思惟されるのは不可能であることを洞察する必要があるのである。自然科学的に規定的となった知は、自然の裂散性(Naturzerrissenheit)という暗号が判明となるようにするのである。
 c)段階系列: 全生の統一性が瓦解していると、統一性は思弁的思想において再び探求される。思弁的思想は、自然の内で異質なものを、自然諸形態の歴史的生成の段階系列において束ねるのである。この自然諸形態は、無時間的な系列として(あたかもこの諸形態が相互の上に打ち建て合い、産出し合うかのように)、重量と光との、色彩と音との、水と大気との、結晶の諸形態の、植物と動物との、諸領域において、思惟されている。無時間的発達の思想は、自然現存在の段階系列において、結合された状態からの解離の増大を見、内面化と集中化の増大を、そして可能的な自由を見るのである。その生成はその場合、時間的で有目的的な発展として見られる。そしてそこにおいては、失敗した試みも、怪奇で(178頁)不条理な諸目標も見られ、これらを自然自体が持っているように観ぜられるのであり、そしてこれらが再び、自然がそれ自体において一なるものとして完結可能であることを不可能にするのである。
 ここから、ひとつの包摂的な段階系列が、存在の暗号として考案される。この暗号においては、自然は〔全体の〕一部分であり、この一部分は自分から後方へ、そして前方へと方向を示すのである。自然において、後ろ向きには、「自然の根拠」が、超越者の接近不可能な深みとして考え出され、この超越者から、現存在が自然として可能となり、その後に現実となるとされるのである。自然において、前方を望んでは、自然から「精神」として生成するであろうところのものの萌芽が見られる。自然において、既に「精神」が輝いている。この精神は、後になると、自然から出て、精神自体として突発出現するだろうが、自然においては〔まだ自然に〕結びつけられて無意識なものとして、暗号において〔のみ〕可視的なのである。精神は微動しているが、自らを見いだすことは未だ出来ない。したがって苦悩なのである。精神は自分の現実性の基盤を自らに準備する。だから歓びなのである。自然は精神の根拠であり、精神は既に自然の内に存在する。同様に、精神が現実的である処では常に、自然は尚も精神の内に存在しているのである。
 芽吹く精神としての自然という暗号においては、そのうえ、精神の媒介において後に実存の自由となるものが、既に無意識的現実性として現前しているように見える。意識を欠いた観想的創造が、計画的悟性無しの計画としての自らの道を行くのである。自然の内には、計画以上のものが、理性的な無意識性の深みを通して存在するのである。このものは、自然が途方に暮れてしまうように見える時、計画以下であり、その場合、自然は、例えば新たな現存在諸状況における生がそうであるが、突然に適応するはずなのである。自然という暗号においては、理性と魔性とがあり、理性とは機械仕掛けであり、魔性とは諸形態の創造と破壊なのである。


 
 
第二部:諸々の暗号の世界(168頁)

概観(168頁)
1. 諸々の暗号の普汎性 —(168頁) 2.諸暗号の世界の秩序 —(169頁)

自然(173頁)
1.他者としての、私の世界としての、私自身としての、自然 —(173頁) 2.自然の暗号存在 —(174頁)
 




(以降、隔週更新としたいと思います。訳者)