「その1」の続きです。
その2は、文命堤西堤の先から山北駅~松田駅に向かいます。
今回も写真が多いのでお暇なときにご覧ください。
気がついたら足柄平野を通り抜け、ここから先は西丹沢の入口辺りをウロウロします。
事前に見ていた地図では地蔵堂の先に古墳群があるらしいと知っていました。
川の近くの古墳群といえば、多摩川も古墳群があるのでそのイメージで向かいました。
案内板はありましたが、ほとんどは消失しているとのことでした。残念。
私は普段平地で暮らしているので山北町に入ってからずっと坂道で汗が止まりません。
この看板がある場所も、登り坂の途中にあってすでに汗だくでした。
やっと坂上の平らな道に…と思ったら、意外と商店が多くて、道の様子から何らかの街道の役割を担った道だと感じました。
山北町から南足柄市の道了尊の参詣道?それとも箱根外輪山東側の麓を通って小田原市に至る通商上の脇街道?
なにしろこの雰囲気は脇街道そのものです。
ただし平らな道で安心と思っていたら再び登り坂でした。
八幡神社がありました。
ちょっと寄り道して参拝しました。
八幡神社の少し先に切り通しがありました。
私の生活圏には切り通しはあまり見られないので、これもちょっと珍しい風景です。
切り通しがあった場所から今度は下り坂になり、ふと横の脇道を見るとやたらと真っ直ぐな道を見かけました。
写真では分かりにくいですが、道幅に似合わない立派なガードレールがあり、ちょっと不思議に思いこの道を進むことにしました。
室生神社です。
あの立派なガードレールがある道の途中に神社があり、これは参道だったのか、と1人納得していたらそうでは無かった…。
神馬です。
神社の規模にしては…と言っては失礼ですが、旧郷社格では初めて見ました。
境内の端には奉納金の記念碑がたくさんありました。
かながわの名木50選の案内板。
私1人で来ることはないと思っていた場所にいることを思い出しました。
ここは流鏑馬神事がある神社だと思い出したのです。
参道だとばかり思っていた立派なガードレールがある真っ直ぐな道は、流鏑馬神事の馬が駆け抜ける馬道でした。
境内の端に三十七八年戦役紀念碑がありました。
日露戦争関連碑で、金具が巻き付いています。
これは西湘地区独特の姿です。
震源が西湘地区だったと伝わる関東大震災は大正12(1923)年で、日露戦争関連碑は倒壊して割れていることが多いのです。
室生神社の少し先に石碑群がありましたが、イマイチよく分かりません。
1番手前の石碑に「秋葉山之神」と書いてあるのかな?と思いつつよく分かりません。
さらにその先に民家の軒先にあった「水屋」です。
地域の水道組合の記念に残っているそうです。
水道組合があるのはそれなりに昔から集落があったことを意味するので、やはりこの地域は古くから脇街道があったのだろうと再確認しました。
ちょっと方向が分からなくなりつつありましたが、運良く国道246号線に出会いました。
左が国道、右がこれまで歩いてきた住宅街の中の生活道路。
この道をずっと東京都まで進むと、都内では青山通りと称する道路になります。
三角屋根が2つ並んだ建物がとても立派なので、町役場とか公共施設だろうと感じました。
三角屋根の少し上にある橋は、東名高速道路です。
JR御殿場線の沿線沿いに水路がありました。
御殿場線は元々東海道本線だったので、石積みもちょっと古くて歴史を感じました。
山北駅近くの道に出会いました。
山間の道なのに真っ直ぐな道で不思議に感じました。
山北駅に向かって歩いてもやはり真っ直ぐな道。
これは少なくとも江戸時代からの脇街道の宿場町の構造だと驚きが隠せません。
こんなにしっかり脇街道の面影を残す道があったのか、と。
私は来たことが無かったから知らなかったとしかいえません。
山北駅とレトロ風バス。
駅前の様子。初めて来ました。
昭和時代の建物がたくさんあって、少しタイムスリップしたような雰囲気です。
このような町並みが駅前に広がるのは、県内でこんなにしっかりと残っているのは山北町だけのように思いました。
江戸時代の東海道の正規ルートは箱根を通りますが、箱根の険しい道を避ける裏街道がこんなに整備されているとは思っていませんでした。
百聞は一見にしかず、やはり実際に歩くと資料を読むだけでは分からないと実感しました。
さて「その1」から続くあじさい農道から山北駅前に至るまで、歩いている人とは1人もすれ違うことがありませんでした。
ヘビが道を横切っている姿を3度も見かけたのに。
西湘地区は車の普及率が高く、車無しには生活が成り立ちにくいのでしょう。
それにしてもここに至るまでの山北町の道、地形、町並みは、足柄平野で見てきた風景とはちょっと違い、私には興味が尽きませんでした。
ここから山北鉄道公園を目指します。
近くの跨線橋(人道橋)を渡りました。山北駅方面を望みました。
同じ跨線橋から谷蛾駅(やがえき)方面を望みました。
ここは御殿場線沿線でも難所の始まりだったそうです。
今日はこのSLを見に来ました。
数年前にテレビニュースで、このSLを半世紀ぶりに動かしたことを知りました。
元国鉄時代の機関士さん達が協力したそうです。
しかしその中心人物がイベント直後にお亡くなりになって、再度動かすイベントは開催されていないそうです。
枕木で作られた公園の表示も面白いな、と思いました。
御殿場線は1時間に1本くらいしか電車が来ません。
山北駅周辺の商店は軒並みお休みでした。
唯一小さなコンビニが営業していましたが、駅周辺には20人くらいがウロウロしていました。
地元住民よりは私のように観光客が多く、その半分はロードバイク(自転車)で訪れた感じです。
私のように隣町から山越えして歩いてきたという風体の人もなく、登山者っぽい人もいなかったので、本当に「YOUは何しにヤマキタへ?」という感じの方が見受けられました。
もっとも私が「何しに?」と尋ねられたら、あじさいと用水路を見ながら、SLを見に来ました、と答えるだろうし、地元の人からは車で来ればいいのにと言われそうです。
さて国府津駅(こうづえき)行きの御殿場線に乗車して、松田駅に向かいました。
山北駅→東山北駅→松田駅なのですぐに到着しました。
しかし、西丹沢の入口にある山北駅から、一気に視界が広がる東山北駅までの車窓には、劇的な変化があってずっと外を眺めていました。
東山北駅からは、県立山北高校が見えました。
作家の夢枕獏さんの母校で、「聖楽堂醉夢譚(せいらくどうすいむたん)」という夢枕さんの小説(自叙伝のような創作)に出てきます。
ああ、ここなのかぁ…と思っていたのですが、そういえば山北高校は移転して現在地にある…とどこかで聞いたような…かなり曖昧な記憶をボンヤリと思い出しつつ気がついたら、もう松田駅に到着しました。
私が御殿場線自体、平成の初め頃に乗ったのが最初で最後。
思っていたよりも遥かに大人数が乗車していた電車から降りて、これまた思っていたよりも多い人の流れに身を任せて付いて行ったら、思わず乗り換え口に行こうとしていました。
乗り換え口からは、小田急線の新松田駅に向かってしまうのですが、今日は北口に向かいました。
松田駅の駅舎。
きれいに改修されていますが、山北駅みたいな雰囲気にはちょっと乏しいです。
この駅前の構造も似ているけれど山北駅のような昭和感はなく、なんとなく平成という雰囲気です。
だいたいここまでで、8.5キロ歩きました。
このあとおまけで1キロちょっと歩き回りました。
いつもの二宮金次郎像。
昨日ご紹介した田中丘隅につづき、こちらも地方功者(じかたこうしゃ)です。
田中丘隅が整備に関わった文命堤も、酒匂川下流に住んでいた二宮金次郎の子ども時代にはその効果が現れず、二宮金次郎は一家離散にまで追い込まれていました。
でもその後の二宮金次郎は報徳仕法を広めたり、修身の教科書にも載ったし、お札の肖像画にもなったことを思うと知名度は抜群です。
田中丘隅ももう少し知られて欲しいです。
ここでMIFさんを待っていたのですが、約束の時間よりちょっと早かったので、ご近所をフラフラ散歩していました。
商店のシャッターには「営業自主中です」とか「配達いたします」などの張り紙がありました。
また一方で
この町には県立足柄上病院があります。
町のあちこちに「足柄上病院がんばれ」のポスターがありました。
この病院は、横浜港に停泊していたダイヤモンドプリンセス号に乗船していたCOVID-19感染者をいち早く受け入れた病院でもあります。
そしてこの西湘地区の中核病院でもあります。
この地区出身のMIFさんによると、だいたい誰もが1度くらいはお世話になったり、自分がかかったことがなくても身内のお見舞い等で行ったことはあるような病院だそうです。
新規感染者は日々減りつつありますが、病院は最後の1人が退院するまでが感染予防が必要なので、足柄上病院のみなさまが気持ちよく業務ができるような環境であってほしいです。
1人で足柄平野各地を歩き回る楽しみを始めて今回が5回目。
だいたい5キロ~10キロくらいの散歩ですが、これまでほとんど車でしか通過したことがないところを歩いていろいろ見て回る楽しさがあります。
地元出身のMIFさんによれば「子どもの頃に近所の友達と自転車で行ったことはあるけれど、歩いて楽しいか?」とか「車で行くようなところだよ」らしいです。
私は骨折の影響でもう元通りには歩けないけれど、散歩で知らない土地を10キロ近く歩けるのなら、それはそれでいいと思っています。
最近は外出自粛であまり散歩にも行けませんでしたが、これだけ歩ければベンチマークはまずまずだと感じました。
この先、足柄平野のどこを巡るかは決めていませんが、これからも時々訪れたい場所です。