天平のみ世に光明皇后の請願によって興福寺金堂の諸像が造立され、今日まで伝蔵されて来ていることは本当に有難いことです。
これらの天平の諸像が乾漆造りという手法によるよりリアリテイックであり、心の内奥までの表現が限界まで近寄っているように感じられます。
東博、九博とこれからこの様な興福寺金堂の仏像や諸像が興福寺意外での展覧はもうないだろうと云うことを聞きました。
いろいろな方が類稀な「阿修羅像」の表情と表現についてご専門からのコメントが新聞などに掲載されていて成程と思います。
阿修羅像の奇異に思える3面6肢の立像は何を表現しようとしているのかを直接像にお会いしてみて私なりに教えていただいたように思えます。それは阿修羅像の周りは拝観者で近寄れないものですから双眼鏡でお顔を拝見いたしておりました。それで気づいたのですが正面のお顔は眉間に苦渋の皺が彫り込まれていますが決して忿怒を我慢したり押さえたりしている表情とは思えません。むしろ宗教的な心象の表現、柔軟な心に一瞬転換する相貌と感じることが出来ました。左右の顔の表現は阿修羅が仏教に帰依しても尚かつ「忿」と「怒」の心がもたげてくる心の相を表現したものであろうと感じました。
それでは正面の相貌表現の原点は何処にあるかと考えますとそれは「慚愧心」ではなかろうかと味わいました。
阿修羅の慚愧、 仏智の光に照らし出された自己の忿怒心を恥ずかしく深く呵責すると云う宗教的至上の境地を表現しているように感じました。だから6肢の2肢が正面で合掌の姿をしているのでしょう。眉間の苦悶の皺は自己の本性として抱えている闘争性をかたくなに慚愧する心の痛みを表現した苦悶の表情と感じたのです。
往復10時間を超える運転、阿修羅展の館内の時間は40分足らずでしたが、疲労感は全くありません。有難い拝観であったように思っています。1300年前の天平人の尊いメッセージをこの眼で聞かしていただいたような心地が今しております。 住職
これらの天平の諸像が乾漆造りという手法によるよりリアリテイックであり、心の内奥までの表現が限界まで近寄っているように感じられます。
東博、九博とこれからこの様な興福寺金堂の仏像や諸像が興福寺意外での展覧はもうないだろうと云うことを聞きました。
いろいろな方が類稀な「阿修羅像」の表情と表現についてご専門からのコメントが新聞などに掲載されていて成程と思います。
阿修羅像の奇異に思える3面6肢の立像は何を表現しようとしているのかを直接像にお会いしてみて私なりに教えていただいたように思えます。それは阿修羅像の周りは拝観者で近寄れないものですから双眼鏡でお顔を拝見いたしておりました。それで気づいたのですが正面のお顔は眉間に苦渋の皺が彫り込まれていますが決して忿怒を我慢したり押さえたりしている表情とは思えません。むしろ宗教的な心象の表現、柔軟な心に一瞬転換する相貌と感じることが出来ました。左右の顔の表現は阿修羅が仏教に帰依しても尚かつ「忿」と「怒」の心がもたげてくる心の相を表現したものであろうと感じました。
それでは正面の相貌表現の原点は何処にあるかと考えますとそれは「慚愧心」ではなかろうかと味わいました。
阿修羅の慚愧、 仏智の光に照らし出された自己の忿怒心を恥ずかしく深く呵責すると云う宗教的至上の境地を表現しているように感じました。だから6肢の2肢が正面で合掌の姿をしているのでしょう。眉間の苦悶の皺は自己の本性として抱えている闘争性をかたくなに慚愧する心の痛みを表現した苦悶の表情と感じたのです。
往復10時間を超える運転、阿修羅展の館内の時間は40分足らずでしたが、疲労感は全くありません。有難い拝観であったように思っています。1300年前の天平人の尊いメッセージをこの眼で聞かしていただいたような心地が今しております。 住職