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念仏者とは
一切衆生を
「御同朋」(おんどうぼう)として
見出していく存在
宮城 (しずか)
1931年~2008年
宮城 (しずか)先生は昭和6年京都にお生まれで、大谷大学に学ばれ、大谷専修学院、九州大谷短期大などで教授を勤めら
れ多くの人の心に道心への目覚めを喚起せしめて行かれた有徳の先生であられたことが窺えます。
宮城先生が申される「念仏者」とは阿弥陀如来の「救わずにはおかない」の誓願が起こされたこの私、この私は邪見で驕慢な罪
を罪とも知らずのうのうとしているこの私。この私があれやこれやの御縁にうながされてお念仏を申している。この人も、あの人
も、人なるが故に深い悲しみと耐え難い苦悩を抱えて彷徨っている。その一人一人に如来さまの「救わずにはおれない」と云う誓
願がかかっている。そのことにひとたび気がついてみると、全ての人が如来さまの慈悲の子、兄弟、同朋であったのであります。
宮城先生のお言葉からこのように味合わせていただくことであります。
インターネットのホームページ「宮城先生」を検索いたしますと、「宮城“大無量寿経講義”」のページにヒットしました。
その講義録を少し紹介させていただきます。
“地獄と天上界というものが生きていることの意味を問う世界なのでしょう。地獄は悲惨さ、惨めさにおいてそれこそなんでこんな思いをしてまで生きなければならないのかと、何でこんなつらい思いをしてまで生きなければならないのかという、その悲惨さの故に意味を問うのでしょう。
天上界はいろいろの具体的な目標というものが全部満たされた世界ですね。満足したせかいです。人間の欲望が人間の思いのごとくに満たされた世界が天上界ですね。ところが、そこにあらわれてくるものが、退屈のもんだいです。所在なさですね。天人五衰(てんにんごすい)ということがあるわけです。「衰というのは、生命感の衰退ですね。身の置きどころがない。そこにおるおことが虚しいのです。そこでは何のためにここにこうしておるのだろうという思いが出て来るわけです。地獄は悲惨さの故に意味を問いますが、天上界は逆にすべてが満たされた後の虚しさの故に意味を問うのでしょう。何のためだったのかと。”
“曽我先生が、「浄土は西岸にあるけれども、浄土の門は東岸にある」とおっしゃいますように、門は我々の生活の上に開かれるのです。”
2013年(平成25)の法語カレンダーについてしどろもどろながら13回にわたって味わうところを述べさせいただきまし
た。来年の法語カレンダーももう届いていると思います。来年も13回にわたって味あわせていただきます。宜しくお願い申し上
げます。 合掌 ナモアミダブツ