今月は愛媛FCの試合観戦予定がありません
なので必然的に神社を訪ねる事がなくなります
(一応サッカー観戦の予定はありますが、何回も行っているスタなので、一緒に神社探訪の予定は…)
そんな訳でそんな時は気まぐれ的に近所の神社を探訪する時があります
そこで今回は横浜線の古淵~淵野辺間の神社探訪と相模線沿線に鎮座する亀ヶ池八幡宮に行ってきました
古淵駅に来るのは何年ぶりでしょう
ちょっとした縁のあった女性と別れて以降訪れていない駅ですが、
別れた時は二度と来ないと思っていた場所ですが、まさかこういう形で訪れる事になるとは(笑)
最初に向かった神社は古淵駅を出て左手に曲がって、ひたすら真っ直ぐに進んだところに鎮座しております鹿嶋神社です
創建は不明ですが、新田義貞が鎌倉攻めの際に戦勝祈願として建立したという言い伝えがあるそうです
(という事は1333年頃なんでしょうかね)
また、他に当地の地頭であった淵辺伊賀守義博の子義喬が建立したとも言われてます
だとすれば、南北朝時代になりそうですが、いずれにせよ鎌倉後期から南北朝時代なんで、歴史はありますねー
境内
社務所を探してみたんですが、見当たらなかったです…
そして境川沿いに移動する事数分、小さな緑地がありました
いたのは鳩です
今日は日差しが強く暑かった事もあり暫くここで鳩を眺めながら涼んでました
再び歩き出し、途中小規模な神社にちょこちょこ立ち寄りつつ着いたのが、皇武神社
ここも創建は定かでは無いらしいですが、元和年間(1615~1624)再建と言われているそうです
また、養蚕にまつわる『おきぬさま信仰』が伝わっているそうです
ですが、そのおきぬさま信仰がどういうものなのかはさっぱり解りません(;´・ω・)
境内では子供たちが木陰で携帯ゲームで遊んでおりました
次に訪れたのが箭幹八幡宮
御祭神は応神天皇で、創建は616年
後北条氏配下小山田氏の氏神だったそうです
ここで淵野辺駅に向かっていましたら、途中で日枝神社の看板が見えたのでちょっと立ち寄ってみました
創建は徳治2年(1307年)
昔、当地で大蛇が暴れた時に地頭である淵辺伊賀守義博がここで祈願したのち、大蛇を退治したそうです
それにしてもちょくちょく現れるこの淵辺伊賀守義博とは何者なのでしょう
調べてみますとなんでも足利尊氏の弟である足利直義の部将で、護良親王殺害実行者の一人らしいです
(そもそも護良親王は誰ぞって話になりますが、そこまで行くと大分脇道の話にそれるので止めます 笑)
ただ、その死に際はなんとも言えないもので、
中先代の乱を鎮圧した後、物別れした後醍醐天皇が足利尊氏に討伐軍を差し向け、
迎え撃った足利直義が手越河原の戦い(静岡県)で敗北し、相手方の細川禅定から討ち死にを勧められました
そこで長年仕えた淵辺義博が『まず御前で討ち死に仕ろう』と言って単騎敵陣に討ち入り討ち死にします
そこまでは良いのですが、その後足利直義以下の部将は誰も続かずにそのまま撤退したそうです
もしこれが本当だとすると、一体彼の死はなんだったのでしょう(´;ω;`)
そしてそんな彼の居館跡が箭幹八幡宮に向かう途中にあったので写真に収めてきました
背後は水道局の施設で、その辺りにあったのではないかと推測されます
話を元に戻しまして再度淵野辺駅まで歩みを進め、今度は相模原駅で下車します
相模原駅には初めて降り立ちましたね
そのまま目的地である相模原氷川神社へ向かいます
到着
今日はこどもの日という事で、境内には立派な鯉のぼりが泳いでおり、良い眺めでした
御朱印
可愛くてほっこりする朱印ですね
そこから今度は相模線の南橋本駅に向かいます
ここは昔仕事で何度か利用した駅です
下車したのは上溝駅
ここから亀ヶ池八幡宮まで歩きます
到着
亀八七福神なるものがあったので参拝しました
どれもこれも可愛い造りです
御朱印
参拝を済ませたのち、同じく相模線の番田駅に向かいました
で、ここで列車を待つ間これからどうしようか考えましたが、結局帰る事にしました
気が向けば相武台下で下車して、久々に座間神社行こうかとも思ったんですけどね
以上です
なので必然的に神社を訪ねる事がなくなります
(一応サッカー観戦の予定はありますが、何回も行っているスタなので、一緒に神社探訪の予定は…)
そんな訳でそんな時は気まぐれ的に近所の神社を探訪する時があります
そこで今回は横浜線の古淵~淵野辺間の神社探訪と相模線沿線に鎮座する亀ヶ池八幡宮に行ってきました
古淵駅に来るのは何年ぶりでしょう
ちょっとした縁のあった女性と別れて以降訪れていない駅ですが、
別れた時は二度と来ないと思っていた場所ですが、まさかこういう形で訪れる事になるとは(笑)
最初に向かった神社は古淵駅を出て左手に曲がって、ひたすら真っ直ぐに進んだところに鎮座しております鹿嶋神社です
創建は不明ですが、新田義貞が鎌倉攻めの際に戦勝祈願として建立したという言い伝えがあるそうです
(という事は1333年頃なんでしょうかね)
また、他に当地の地頭であった淵辺伊賀守義博の子義喬が建立したとも言われてます
だとすれば、南北朝時代になりそうですが、いずれにせよ鎌倉後期から南北朝時代なんで、歴史はありますねー
境内
社務所を探してみたんですが、見当たらなかったです…
そして境川沿いに移動する事数分、小さな緑地がありました
いたのは鳩です
今日は日差しが強く暑かった事もあり暫くここで鳩を眺めながら涼んでました
再び歩き出し、途中小規模な神社にちょこちょこ立ち寄りつつ着いたのが、皇武神社
ここも創建は定かでは無いらしいですが、元和年間(1615~1624)再建と言われているそうです
また、養蚕にまつわる『おきぬさま信仰』が伝わっているそうです
ですが、そのおきぬさま信仰がどういうものなのかはさっぱり解りません(;´・ω・)
境内では子供たちが木陰で携帯ゲームで遊んでおりました
次に訪れたのが箭幹八幡宮
御祭神は応神天皇で、創建は616年
後北条氏配下小山田氏の氏神だったそうです
ここで淵野辺駅に向かっていましたら、途中で日枝神社の看板が見えたのでちょっと立ち寄ってみました
創建は徳治2年(1307年)
昔、当地で大蛇が暴れた時に地頭である淵辺伊賀守義博がここで祈願したのち、大蛇を退治したそうです
それにしてもちょくちょく現れるこの淵辺伊賀守義博とは何者なのでしょう
調べてみますとなんでも足利尊氏の弟である足利直義の部将で、護良親王殺害実行者の一人らしいです
(そもそも護良親王は誰ぞって話になりますが、そこまで行くと大分脇道の話にそれるので止めます 笑)
ただ、その死に際はなんとも言えないもので、
中先代の乱を鎮圧した後、物別れした後醍醐天皇が足利尊氏に討伐軍を差し向け、
迎え撃った足利直義が手越河原の戦い(静岡県)で敗北し、相手方の細川禅定から討ち死にを勧められました
そこで長年仕えた淵辺義博が『まず御前で討ち死に仕ろう』と言って単騎敵陣に討ち入り討ち死にします
そこまでは良いのですが、その後足利直義以下の部将は誰も続かずにそのまま撤退したそうです
もしこれが本当だとすると、一体彼の死はなんだったのでしょう(´;ω;`)
そしてそんな彼の居館跡が箭幹八幡宮に向かう途中にあったので写真に収めてきました
背後は水道局の施設で、その辺りにあったのではないかと推測されます
話を元に戻しまして再度淵野辺駅まで歩みを進め、今度は相模原駅で下車します
相模原駅には初めて降り立ちましたね
そのまま目的地である相模原氷川神社へ向かいます
到着
今日はこどもの日という事で、境内には立派な鯉のぼりが泳いでおり、良い眺めでした
御朱印
可愛くてほっこりする朱印ですね
そこから今度は相模線の南橋本駅に向かいます
ここは昔仕事で何度か利用した駅です
下車したのは上溝駅
ここから亀ヶ池八幡宮まで歩きます
到着
亀八七福神なるものがあったので参拝しました
どれもこれも可愛い造りです
御朱印
参拝を済ませたのち、同じく相模線の番田駅に向かいました
で、ここで列車を待つ間これからどうしようか考えましたが、結局帰る事にしました
気が向けば相武台下で下車して、久々に座間神社行こうかとも思ったんですけどね
以上です