memory of caprice

浮世離れしたTOKYO女子の浮世の覚書。
気まぐれ更新。

小津安二郎と横浜中華街

2015-11-08 04:53:40 | 映画
朝日新聞で連載していた「小津安二郎がいた時代」
2015年2月8日の記事を転載します。

小津映画好きとしては、巡礼地が増えたと言いますか・・・^^
サンマ―メンを頂いてみたいと思います。


 1933年(昭和8)年2月12日。小津安二郎の日記には「支那町安楽」に立ち寄ったことが記されている。同じ月の27日には、母や兄ら7人で「浜の安楽に行く」。横浜中華街にあった料理店「安楽園」のことだ。37年ごろまでの日記を見ると、横浜でロケなどがあると、安楽園で食事をしていたことがわかる。
 戦後の55年ごろから店に出て、2011年に閉店するまで切り盛りしていた安楽富美(ふみ)(84)は、小津が来店した時代を知らない。けれど小津が田中絹代ら俳優と店を訪れると、「大人たちが、今日は小津さんたちがいらしたねと少し華やいで話していた記憶があります」。
 昭和初期の横浜中華街は、関東大震災の被害から立ち直り、大きな料理店が次々と開店し、独特な雰囲気を醸し出す横浜名所として再興しつつあった。中華街の歴史にくわしい横浜開港資料館の伊藤泉美就任調査研究員(52)によると、当時は、政財界人らが多く訪れたと言う。「大通りに面した『庵楽園』は屈指の高級店でした」
 戦後も小津の中華街通いは続く。ひいきにしたのは、庶民的な「海員閣」。2代目店主の張燦けん(金へんに堅)(73)は小津と面識はないが、先代からサンマ―メンとシューマイを好んでいたようだと聞いた。サンマ―メンは横浜発祥といわれる。この店では豚肉とたっぷりの野菜をあんかけにして麺にのせる。
 「秋刀魚の味」(62年)で、加東大介がチャーシューメンを頼んだ後に取り消す場面があるが、最初の脚本ではサンマ―メンになっていた。「小津安二郎の食卓」(ちくま文庫)などの著書がある貴田庄(きだしょう)(67)は、サンマ―メンを海員閣で知った。「サンマ―メンでは、全国的にはわからないので変えたのでしょうが、よほどお気に入りだったのでしょう」
 小津は、松竹関係者や俳優ばかりでなく、共同で脚本を書いていた野田高梧(こうご)や、野田が可愛がっていた若者たちとこの店をよく利用した。「ハイキングの帰りなどによく大勢で行きました」と、井上和子(79)は話す。気のおけない店で、若者に囲まれて小津が楽しそうに酒を飲んでいた姿を覚えているという。小津映画のプロデューサーだった山内静夫(89)は「とにかく大勢で食事をするのが好きな人だった。だから中華料理を好んだのかもしれません」と振り返る。
 戦前、戦後と中華街の味を愛した小津。足跡をたどって海員閣には今も、「小津ファン」が時折訪ねるという。


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