memory of caprice

浮世離れしたTOKYO女子の浮世の覚書。
気まぐれ更新。

安西水丸さんを悼む

2014-03-29 06:39:37 | 
イラストレーター、安西水丸さんのご逝去に対し、嵐山光三郎が2014年3月26日朝日新聞に寄せた弔文を引用します。

この方のイラストって大学生の頃の世間の雰囲気を思い出すのですよね・・・バブルの中、一歩進んだ洗練を探し求めていた層に向けて、洒脱な線と明快な色付けで都会的な雰囲気を醸し出していた・・・。
音楽ではやはりお亡くなりになったばかりの大滝詠一さん、小説は片岡義男、村上春樹、村上龍。
あの時代の文化ってひとつのムーブメントだったのだな、と改めて思います。


「酒飲みで人情家仕事一途」~安西水丸さんを悼む 嵐山光三郎 作家


 三月十四日夜、立川志らくの落語会で、安西水丸が隣席に坐っていた。「この歳になってなんでこんなに忙しいんだろう」と恨むような顔をしていうから、その話を今週の週刊朝日に「のんきなとーさんは悲しい」と題して書いた。水丸に同情しつつも、挑発してやろう、という気があった。落語会のあとは、タクシーで青山の水丸事務所まで送って、自宅へ帰った。水丸が鎌倉の家で倒れたのはその三日後の三月十七日で、十九日に亡くなった。脳出血だった。
 ああ水丸よ。酒飲みで、女好きで、人情家で、仕事一途で、せっかちで、好き嫌いがはげしい薄情の水丸よ。手品みたいに消えてしまったね。
 一九八八年二月、水丸と一緒にニューヨークへ行き、かつて水丸がマスミ夫人と暮らしていたアパートを訪ねた。古ぼけたアパートがあり、水丸が住んでいた部屋の窓に赤いバラの鉢があるのを見つけた。階段を上がると屋上のテラスにも冬バラが咲いていたが、葉は変色してしなびていた。そのとき水丸が作った句は、うろおぼえだが、

 冬バラに冬バラの虫生きており

というものだった。真紅のバラの花弁の奥を赤い小さな昆虫が這っていた。
 水丸とはじめて会ったのは一九七一年で、水丸も私も二十九歳だった。ニューヨークのデザイン会社をやめて帰国し、私が勤めていた東京都千代田区四番町の平凡社へ水丸が入ってきた。たちまち仲良くなり、水丸の娘用に『ピッキーとポッキー』という絵本を作った。水丸はその原本を福音館書店に売りこんで、一年後に刊行された。いまもロングセラーとなっている。昨年十一月に、その俳句絵本を刊行して、一月に原画展をした。これから夏祭りバージョンを仕上げる予定だったが、水丸は「夏祭りは登場動物が多いからなるべく出演者を少なくしてね」といってきた。
 水丸、南信坊、嵐山の三人で、小型の俳句カレンダーを作って、友人に配って十年余となるが、これも今年で終了となる。
 なにごとも始まりと終わりがある。あれも、これもと楽しかった日々の記憶が重なり、空漠の彼方へ消えていく。水丸の絵は一本の線が、水平線となってピンと張られている。その線を崩して、うまくなってしまった手をなだめ、自在に動かして、見えざる天然へ預けようとした。水丸、という人名を書くだけで、うろたえ、ただ喪失のなかを漂うばかりである。

*昨年十一月に刊行された絵本「ピッキーとポッキーのはいくえほん」。最後の共著となった。というオプションつきで
 絵本の表紙が紹介されています。
『ピッキーとポッキーのはいくえほん おしょうがつのまき』

買っておきたいと思います。

 






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