政府からのお金が入ったのを機会に,そのお金で本を買うと決めて,京都の丸善に向かう.昨年の12月以来かなと,この前の京都を思い出す.
教え子が卒業する前にと,年末の京都で昼飯を食べながら,懐かしい話をしたことを思い出しました.この教え子は,教え子としては唯一,私と同じ学部・学科に進学して,さらには所属した研究室も昔私が所属していた研究室の系譜の研究室で,当時大学院の先輩であった,N先生が今はその研究室を引き継いでいます.
その教え子は,高校時代は,確かに受験勉強もよくできましたが,それだけではない本質を突く質問をしたりするなど,それまでの優等生とは一味違った生徒でした.将来は日本を背負う学者として育って欲しいと密かに思っていましたが,結局大学院に進学するも一般企業に就職することになりました.それでも,企業でいい仕事をしてくれればと今は願っています.
そんな久しぶりの京都ですが,車で,新名神を飛ばし,昼頃に上洛.早速腹ごしらえとして,中華料理店の眠眠へ.餃子と酢豚を注文.
初めてこの眠眠へ入ったのは,高校2年の時に,友達に誘われて,京都の駿台予備学校で,冬期講習を受けたときでした.当時としては,高校生が予備校の冬期講習を受講するのは今と違って,珍しかったようです.12月の冬休みの2週間ほどの京都での生活は,初めての京都ということもあり,未だに脳裏にその印象が残っています.同じ宿舎には,兵庫県から来た一つ学年が上の受験生もいて,自然と話すようになりました.京大法学部を目指す高3生でしたが,我々二人はまだ高2でしたので,気分的にのんびりしていました.
受講した講座としては,高2生用ものと違い,受験生用のものを受講したので,必然的に高3生と知り合うようになったようです.まだ高2だったので,数学は文系用なら対応できるということで,その試験演習講座のような講座と,英語は受験生用の英文解釈を受講しましたが,数学の試験講座では,その先輩より点数が良くて,その先輩がショックを受けていた思い出がありました.英語の英文解釈講座では,奈良教育大学の教授で,当時,旺文社のラジオ講座の講師をされていた先生が担当講師でしたが,受験用というよりは,英文を読むという感覚の講座でした.
夜になると宿舎を出て,夕ご飯をいつもその眠眠で食べていました.特に餃子がおいしくて,毎日食べていました.しかし,今の眠眠の餃子と味とは違うようです.皮の薄さは当時と変わりないですが,具の味が薄くなった気がしています.
大学へ入って,京都へまた来た時には,中華料理では王将があり,眠眠より安く,学生にとってはありがたい存在でした.当時の王将は今と違って,女性が入れるような小ぎれいな雰囲気ではなく,学生野郎しか入れないような雰囲気でした.そんな学生時代の印象は今も強く私の心の奥底に残っていて,それを頼りに京都を訪れる動機になっているようです.
丸善も当時の丸善とは違って,一度閉店して,再度開店して,京都らしさもあり,以前とは格段のレベルアップだと思っています.時々東京へ行くときも,丸の内の丸善や日本橋の丸善にも立ち寄りますが,京都の丸善が後発ですが,洋書の数やその種類,喫茶店の内容,雰囲気も京都の丸善に軍配は上がります.
今回は少し多く買う予定だったので,気持ちも大きく,いろんなジャンルを渉猟しながら買い物籠にいれていきました.特設コーナーでは「青土社」の本が並べtられ手あり,その中で手に取って思わず購入したのが,物理学者の佐藤文隆の回想録でした.
高校時代に,相対論の内容のブルーバックスの著者の本を読んだ記憶があり,湯川秀樹の一番弟子という触れ込みに誘われて買った記憶がありましたが,回想録を読むと必ずしもそうではない感じですが,湯川秀樹のノーベル賞受賞は日本人に大きな印象として誰しも強く共感を覚えた時代でありました.私の弟の名前も秀樹とつけたのは,湯川秀樹からだと小さい頃,親父から聞いた覚えがあります.
この回想録を読むと実際の著者の物理学者としての生きざまと時代の変遷がきれいな流れの中で,印象的に心に響いてきます.記述の中に,私の大学時代の大学院の先輩のMさんの名前も出てきて,そういえば,Mさんは物理関係で他大学から来られたのですが,なるほどと頷きながら読める内容です.私の所属していた研究室は工学部の数学物理系の学科に所属していましたが,その中ででも特に純粋の数学物理に近い研究室だったので,教授も理学部出身者が多く,なかには,逆に理学部の教授になられて先輩もいました.工学博士で,理学部教授も珍しいのではないでしょうか.私も,数学では二人くらいしか知りません.
久しぶりに多くの本を買ったので,郵送で自宅に送ってもらうことにしました.丸善では,1万円以上だと送料無料で宅配してくれるようです.これは助かります.本屋で手に取って,これは読んでみたいと思う本は多いので,実際に手に取って,少し読んでみることは大切です.さらには,その本屋でどんな本が並んでいるかもそれと同時に大切なことです.多くの本が出版される現状では,すべての本を店頭に並べることはできないので,その中で,どんな本を店頭に並べるかは,その店の目利きの精度が試されるのではないでしょうか,もちろんその目利きと読者の自分との相性もあるとは思います.そんな目利きに引かれるのも京都の丸善ですが,東京では神田神保町の東京堂書店が私の好きな書店です.以前の東京堂書店は,数学関係の本は少なかったのですが,最近は少し多くなってきているのも助かります.
地方の本屋は,ほとんど雑誌や新書文庫程度しか置いてない状況で,活字文化の衰退としか思えない現状にむなしさを覚えます.私の住んでいる三重県の松阪でも,私が高校時代には今から思い出しても,いい本が並べたる本屋も存在していましたが,今では,京都や東京へ足を延ばしたときに購入するか,アマゾンでポチッとするのが殆どです.地方の本屋さんの衰退は目を覆いたくなるほどの現状です.このことに関しては,今の高校生より自分の高校時代の方が良かったと思えます.