数学教師の書斎

自分が一番落ち着く時間、それは書斎の椅子に座って、机に向かう一時です。

日本の歴史をよみなおす(全)

2021-06-17 08:03:45 | 日本史
 日本史の中でも、明治以降の近代史と中世史が好きで、これはおそらく大学入試での受験勉強の影響もあると思います。この分野をよく勉強した関係か、わかってくると面白くなるからかもしれません。
 日本史でも教科書では政治史と文化史が主な内容ですが、こうこの歴史では文化史にも視点が移行して、単なる政治だけでないものを歴史から学ぶ意義を感じ取った記憶があります。
 そんな中で、中世の室町文化は現在の日本文化の原点ともいうべき、家屋や部屋のつくりなど私の住んでいる古い家もその名残を残しているように感じています。母屋は200年以上も前の建物なので、柱などいわゆる大黒柱や曲がった大木の木が使われたり等々、ふと大事に使っていくことを意識する瞬間があります。
 最近読んだ本で、これも積読状態だったのですが、4月以降少し生活に時間的にゆとりができたので、読んでみた本です。
 政治史ではなく、文化史、社会史ともいうべき内容で、教科書という枠を取り外すと、日本史の中にもこんなに文化史や社会史に内容があるのかと愕然とした気持ちになります。さらに思い込みや誤解も歴史に持っていたことなども再認識させられました。
 職業に関して、差別の歴史にも目を向けながらの記述を読む中で再認識させられました。この本の後半部分では百姓は農民かという視点で、これまでの歴史に関しての歴史家自身にも固定観念や誤解があったことを資料を示しつつ証明していく内容に目からウロコが落ちる感じで、読んで良かったと感じる本です。農業以外の職業に関してのその多彩な歴史について読んでいくうちに新しい歴史認識を得た感じです。
 読みながら赤鉛筆で線を引きながらこれは大事だと思いながら読む、その昔高校時代に日本史の教科書を読むような感覚になっている自分がいました。
 裏表紙からの紹介を書いておきます。
 日本が農業中心社会だったというイメージはなぜ作られたのか。商工業者や芸能民はどうして蔑視されるようになっていったのか。現代社会の祖型を形作った、文明史的大転換・中世。そこに新しい光を当て農村を中心とした均質な日本社会に疑義を呈してきた著者が、貨幣経済、階級と差別、権力と信仰、女性の地位、多様な民族社会に対する文字・資料の有り様など、日本中世の真実とその多彩な横顔を生き生きと平明に語る。ロングセラーをごく編と合わせて文庫化。

落日燃ゆ

2021-03-25 20:17:59 | 日本史
 半藤一利さんの追悼コーナーで見つけて本があり、職場の近くのジュンク堂で購入しました。「ノモンハンの夏」も読んでないので、この機会に読んでみようかと思いながら、手に取って買ったのがこの記念雑誌でした。


 この機会でないと買えないかと思いながら買って中を読んでいくと色々俯瞰的な視点からの昭和史を説明してもらってる感じでスッキリ感があります。その中で、広田弘毅について、半藤さんはかなり厳しく書かれていて、また加藤陽子さんとの対談集ともいうべき下記の本でも、厳しい論評をされています。


そこで、城山三郎の「落日燃ゆ」を読んでみました。この本では広田弘毅をヒーローのように扱って、この本を政治家なども愛読書にあげている人も多いとか。その結果、東京裁判や広田弘毅に関して実際とは違ったイメージを持っている人が多いとの指摘をされていたので、私も遅ればせばがらこの本を読んでみました。


 確かに半藤さんの語られる広田弘毅と「落日燃ゆ」の広田弘毅は別人のような印象ですが、そこで、もう一冊、「広田弘毅」の以下の本を読んでみました。

やはり、「落日燃ゆ」の広田弘毅は少し実際とは違ってイメージが良すぎるようです。今まで、ここまで、評価が違う人物についての本を読んだこともないくらいの私自身の読後感です。

 私の世代だとリアルな印象として例えば、学生運動なども皮膚感覚でわかるのですが、書籍から読み取るしかない世代から見た場合の学生運動なども、評価が異なることに対して、忸怩たる思いがあります。


日本史・昭和史

2021-01-13 18:43:37 | 日本史
半藤一利さんが亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

 今、通勤の列車の中で読んでいるのが、「世界史から見た昭和史」という本です。
 実は、以前に単行本の同じ本を読んでいますが、忘れているので、読み返そうとこの文庫本を買いました。以前にも読んだのが、以下の写真の本です。


 半藤氏は、私の父の2歳年下で、私の父は今も一応元気にしていますが、私が小さい頃からこの父親から聞かされてきた太平洋戦争の話と半藤氏が書かれた書籍の戦争描写がよく似ていることが一つの理由で、その著作を読んできました。
 私の父は、兄がニューギニアで昭和20年の3月に戦死したにもかかわらず、特攻隊を志願すべく、広島の呉にその試験を受けに行きました。大阪から呉に向かう列車の中で通路に腰を下ろしていたら、憲兵らしい軍人が、「それでも日本人か!」と言って、張り倒されたと言っていました。それで、こんな奴らを懲らしめてやろうと心に決めて、将校になるんだと決意して、特攻隊の試験では不合格になるように全部バツを書いて帰ってきました。もっとも、その背景には、父の親父から兄も戦死しているので、お前だけは特攻隊に志願するなと、きつく言われていたこともあります。結局父は、専門学校の学生として終戦を迎えます。学生とはいえ、ほとんど三重県の四日市の軍需工場で働いていたそうですが。
 終戦間近の東南海地震ではその軍需工場の煙突が大きく揺れて、想像を絶する光景を目の当たりにしたそうです。そんな戦争体験を聞くたびに、私の脳裏にある種の戦争風景ができていました。
 後日、半藤氏の「昭和史」を読んだ時、父から話を聞いている感覚が蘇りました。歴史観という枠組みで歴史を見るのではなく、史実を実際に経験したり、聞いたりすることでの、このジャーナリストのペンから描き出された昭和史は、私には父の話と同じ雰囲気が感じられます。

 以前にも書いた、保坂正康氏の著作にも、父の話と同じような雰囲気を感じます。そんな父の話に耳を傾けることのできる時間も残り少ないですが大切にしたいと思います。
 実は、私の先祖は、日清戦争でも戦死しており、また濃い親戚の二人が日露戦争で戦死しています。その家が絶えるので、私の家から養子を出して、幼女を迎えてその家は存続することになりました。そんなこともあり、私は小さい頃に祖父から日清日露の戦争に関してもいろいろ話を聞いていました。もちろん祖父は日清戦争は記憶がなく、日露戦争は記憶があったようでしたが。そんなことから、半藤氏の以下の本も興味深く読むことができました。

 そんな私の幼心には、戦争の悲惨さというよりは、戦争時の日本の軍隊や警察や日本国内の政治の悲惨さを多く語られてきた記憶があります。そのことに関して半藤氏の文章と父親の話の雰囲気にもっとも共通点を感じられます。その戦時下の日本の政治の雰囲気が今の日本の政治の雰囲気に似ていると感じる半藤氏の思いには頷く自分がいます。

 自分が大学受験で日本史を勉強している時、対外的な「教科書問題」は存在していませんでしたが、所謂「教科書裁判」が行われていた時代で、三省堂から出版されていた、家永三郎氏の
も読んでいました。教科書だけでなく、岩波新書などの日本史関係の本も読むことで、幅広い視野ができると聞いていたりしたので、同じ時期に以下の本も読んでいます。
 もう、50年近く前の本ですが、読み返してみたくなりますね。当時とはまた違った感覚で読めるのではないでしょうか。
 純粋に戻りたくなるあの頃です。

日本史のミカタ 

2020-12-30 06:05:43 | 日本史
 日本史の中でも、中世や明治以降の歴史に興味があり、仕事の行き帰りの列車の中での読書タイムでよく読んでいますが、最近では、中世では、本郷和人さんの新書をよく読んでいます。本郷氏は中世が専門で、よくテレビでも拝見していて、親しみやすい歴史学者というイメージで、手軽に手に取ってその新書版を読むようになりました。

 親しみやすい、軽いタイトルに惹かれ、読み始めると、意外に専門用語も多く、高校時代に必死で勉強した山川の教科書の隅々までを思い起こさないといけないようなことになります。読まれた人はどうでしょうか、意外に専門的なこと多いですね。

 近代史では、大正ロマンから戦前の昭和史などに興味があり、保坂正康氏等の著作はジャーナリストの文章で読みやすく、気が付けば何冊か本棚を飾っています。

 本書は国際日本文化研究センター教授の井上章一氏との対談で、対談といっても、いろいろなテーマを設定しての対話形式というべきかもしれません。

 この本書を読むきっかけは、本郷氏のこれまでの著作も読んでいて、親しみがあることのほか、井上氏もこれまでに話題となる著作を執筆されている上に、井上氏の年齢からして、大学時代おそらく同じキャンパスですれ違っていたと思われるからです。更に、井上氏が、工学部出身であり、同じ工学部出身の自分との共通点を見出し、親近感を持ったからです。

 読んでみると、本郷氏の言質に関しては、これまでの著作にみられるものと共通点があり、親しみやすさがあります。更に井上氏の関西弁でのいかにも京大出身者と思える言質にほっとする親近感を感じます。

 本郷氏の言われるように、日本史を学ぶことは、日本人とは何かを考えることになると思います。いつの頃から、少なくとも昔はなかったフレースに「日本人が好き」とか、「日本の技術は素晴らしい」をよく耳にするようになります。私は、何か不安を覚えるようになりました。自ら自画自賛することへの不安。それは、日本、日本人自らへの不安の表れとも言える。自信がなくなってきた表れかと。ちょうどバブルがはじけてからの時期と一致します。

 これって、軍国主義時代の日本に似てきたのでは?軍国主義の時代最も恐れていたのは、軍の日本国民への姿勢であったのでは?防衛力とか、対外的な姿勢ではなく、自国民への姿勢ではなかったのか?今の政治家たちの知性の無さは、そのことに気がついていない言質や行動に表れているように思う。





学び方を考える.日本史:近現代史からの警告: 保坂 正康

2020-10-28 21:10:50 | 日本史
 受験勉強から学びのきっかけを掴むことは、だれしも経験があることですが、私の場合は、日本史に関しても特に強く感じています。小中学校とは違って、日本史の中で、特に明治以降の近代史に関して、殆どが高校の日本史で学んだとも言えます。
 しかし、学んだという背景には、授業で教えられたとかというのではなく、自ら教科書等を読みながら、史実を覚えながら次第に歴史の流れを自分なりに掴んでいくという経験を受験勉強の中で学んでいったと言えます。
 昨今、近代史の教科書の中における扱い等の議論の中で、歴史教育の見直し等も議論されたりしますが、議論をする当事者たちは高等学校の教科書を授業で教えられたことで、自らの歴史認識が構築されたとは思っていないにもかかわらず、歴史教育を見てしまう傾向があるとように思います。確かに受験勉強で多くの知識等は身についたと実感している人は、私自身を含めて多いとは思いますが、それが学校で教えられたと結び付けるには無理があることもわかるはずです。

 実際、私など理系の受験生は、今と違って、社会科として、地理、世界史、倫理、日本史、政治経済とすべての科目を履修しました。受験科目も日本史でしかも文系と同じ記述式問題でした。実際の授業は、日本史は江戸幕府の寛政の改革辺りで、授業は終わって、それ以降の歴史に関しては、自分で教科書を読み、資料集も参照しながら、自学自習でした。

 日本史に限らず、多くの科目に関しても、同じような状況でした。そんな自らの経験からすると、確かに今の受験生は、学校で、塾で、丁寧に説明を受けていますが、逆に自学自習という面での学び方に関して試行錯誤するという経験が少ないように感じます。自学自習は何をどう勉強するかという出発点から考える必要があり、また試行錯誤も伴います。しかし、この試行錯誤の経験は勉強をするうえで大切なことであると思います。効率だけの中からは,なかなか学問や学びへのモチベーションにつながらないように思います.

 教えてもらってなかったら、自分で勉強するということの大切さは忘れてはいけないと思います。教えてもらってないと愚痴をこぼす生徒は、殆どが教えてもらったことも忘れています。自分の胸に手を当てて考えれば、わかることです。自戒を込めて。

 丁寧に教えてくれる先生がいいとは必ずしも言えません。学ぶ意欲を喚起してくれた先生がいつまでも心に残っているのは、私の経験からも癒えます。
 私の高校1年生の時では、数学のN先生でした。非常勤講師の先生でした。週に3回、2時間都築の授業でした。特に黒板に書いて説明をしてくれるわけでもありません。2時間続きの授業で、50分の授業がおわっても、職員室へ戻らず、教室にいて、休憩していて、質問を受けたりしてくれました。そんな中で、ふと話してくれた話をいつまでも覚えているという経験は私だけではないと思います。時折話してくれた先生の高校時代の話など、今も脳裏に残っています。受験的なことを教えてくれるわけでもなく、自分で勉強したくなる気持ちにさせてくれた印象が強い先生でした。それに引き換え、高校2年生の時の数学の先生は、数学を教えるというより、数学の楽しさを教えるというより、ひたすら問題をやらせるという授業で、それをありがたく思っていた生徒もいたとは思いますが、私は押し付けられる感じで楽しくはなく、たまに先生に質問すると文句を言うという風に言われ、愕然としました。私は、その発想がどこから来るのですかと尋ねたのですが。総じて、今自分が数学の教師として、教えてきて思うことは、当時の私が教えてもらった高校の先生の中には、しっかりした数学的な素養がある先生はほとんどいなかったといえます。
 その意味からしても、自分で勉強するという自学自習の大切さは時代を超えても大切なことだと感じています。数学や物理等の科目では、自学自習は難しいですが、日本史などでは高校生段階でも自学自習は可能だと思います。教科書を読んで史実を覚えながら、覚えてくると歴史的な時間の流れがわかってきて、加速度的理解が進んでいくのが実感でき、それが楽しさにつながります。
 そんな自分が受験勉強で学んだ日本史でしたが、特に、興味があるのは、明治以降の近代史であり、それは自学自習の結果学んだものですが、折に触れていろいろな切り口からの話題を本から学んでいます。昭和史や、大正ロマン等は特にいろいろな切り口から学ぶ読む楽しさを今も持ち続けていられます。

 毎年夏休みには、特に昭和史に関しての本を読むことが多いのですが、読みやすいのは、保坂正康氏や、半藤一利さんの本ですが、最近読んだのが、「近代史からの警告」(保坂正康著:講談社現代新書)です。

コロナ禍という今年の危機に際して、歴史的な特に日本の現代史を顧みての「危機」を過去からもう一度考察する中で、今の「危機」に対して、国が政治が、社会がどうあるべきかを考えるヒントを与えてくれています。5・15事件やその他の歴史的な事件とその危機に際して、どうであったかをいろいろ考察することは今の危機に際しての指針を与えてくれます。こうした考えを政治家や政府の要人、そしてじゃーまリズムにかかわる人間、社会の一般人、そして教育に携わる人がそれぞれ意識しながら考えることの大切さを教示してくれます。とくに、政治家こそ歴史に学ぶことで、未来への大きな指針を正しく見通せることを心してほしいものです。学術問題をはじめとするいろいろな問題等も歴史的認識や学問的な素養の重要さを感じさせてくれます。