昨夜から,今朝にかけてパリオリンピック卓球競技の女子シングルスで早田ひな選手が銅メダルを獲得したニュースが流れています.その前には,男子シングルスで張本選手がシングルスの準々決勝で世界チャンピオンの樊振東と激戦の結果惜敗したことも話題になっています.
ところで,早田ひな選手のコーチの石田大輔氏は,筑波大学出身の卓球選手でしたが,今から25年ほど前,私が筑波大学で数学研究のため2年間ほど佐々木研究室でお世話になっていましたが,当時は現職の高校教員であって,内地留学の制度を利用しての数学教育研修でありました.
高校現場では部活動の顧問として,教員になって以来一貫して卓球部の顧問をしていて,その立場から筑波大学の卓球部の練習を見学していました.その時の筑波大学のトップ選手がこの石田選手でした.石田選手は京都の東山高校の出身でインターハイでも上位に入り,筑波大学に進学した選手でした.
当時の筑波大学の卓球部は,インターハイ等で全国のベスト8以上で,特別推薦で入学する選手,体育学群での推薦選手,一般の体育学群の選手,そして一般の他学類の選手という具合にいろんな選手がいました.練習は当然,そのレベルの選手ごとにグループ分けされていましたが,専用の広い体育館で効率よく行われていました.
そのシステムを高校に帰ってから津西高校の卓球部の練習に取り入れ,狭い練習場,短い練習時間で男女が一緒に練習するという環境で効率を上げることができました.その一つは,ホワイトボードに各卓球台に入る選手の名前を書いた札を張り付けることで,その台での練習相手を決め,バスケットなどで使う数字の大きく表示されるタイマーを使って,15分おきにメンバーを入れ替えて行う課題練習でした.選手が練習を行っている15分間で,顧問の私が,次の練習メンバーの組み合わせを選手の戦型やレベルに応じて考えて名札をホワイトボードに張り付けていくというものです.タイマーが鳴ると選手はホワイトボードの各台のメンバーを確認して,次の練習に入ります.課題練習であるので,各人が自分の課題を練習しますが,課題も理解できにくい選手とは顧問と話しながらそれを見つけていくというものでした.
公立の進学高校でもあって,なかなか選手も卓球に打ち込めない環境でもあり,そこは,卓球だけを好きなだけできる環境のある高校にはない難しさがあり,その環境の選手を指導する難しさは,あまり一般には知られていませんが,文武両道の本来の難しさであり,昔も今も変わらない難しさでもあります.
選手の立場から考えると,日ごろの大学入試を意識した,していなくても学校の授業そのものが意識されたもので,部活で疲れている中で,帰宅してから復習や予習をする難しさは,両方ともしっかりやった生徒・選手しか分からない難しさがあります.両方とも中途半端や,片方だけ一生懸命やってきた生徒や先生にはどうしても理解できない難しさです.
高校で言えば,ある程度の練習環境やレベルを上げるためには,3年はかかります.しかし,顧問がサボれば,1年で崩壊することになります.部員だけでやっていれば,準備体操もろくにできない状態です,そこから準備体操やストレッチのやり方を教えて習慣化していく過程では,顧問が我慢して付き合っていかないとできません.しかし相手が人間ですから,きちんとしたルーチンワークだと息が詰まります.選手の自主性や工夫の余地を残しながら,楽しさも加味した環境を作ることは並大抵ではありません.
一方,数学の教員としては,夏休みは特別課外授業が3週間ほどあり,日々の授業の他にも,特別補習や課外授業が週1コマは放課後にあります.担任をしていれば,週1回の放課後の学年会議があり,そのほかに2週間に1度の職員会議や,教科会議もあり,進路指導部なら予備校での進路説明会,大学入試センターの共通試験の説明会,出願指導,出願,出願後(10月)の共通試験対策,共通試験後の個別対策指導などもあります.卓球ばかりやっていればどんなに楽か,数学だけやっていればどんなに楽か.結局そんな思いを抱き続けていた私の教員人生でした.
しかし,両方やっているから,2倍の楽しみもあることに気が付くのは,両方やってる本人しか分かりません.そんな楽しみを感じられる生き方は,お勧めしたいものですね.そう思う歳に自分もなったのでしょうね.
苦しい勉強や卓球の練習の中にも生徒は楽しみを見つけていければ,最高ですね.毎月ある公式戦,具体的には,インターハイ個人地区予選(4月),インターハイ個人予選(5月),インターハイダブルス県予選(5月),インターハイ個人県予選(5月),インターハイ団体県予選(5月),中部日本卓球選手権個人地区予選(6月),*中部日本卓球選手権個人(7月),県高校個人選手権地区予選予選(8月),県高校個人選手権(8月),*インターハイ個人団体(8月),全日本選手権個人予選(9月),東海選手権個人県予選(9月),*東海選手権個人戦(11月),高校選抜団体県予選(11月),選抜個人県予選(12月),*全日本選手権(1月),県選手権個人地区予選(1月),県選手権個人戦(1月),県高校学年別個人地区予選(2月),県高校学年別個人戦(2月).*全国高校選抜大会個人団体(3月).*印は予選を勝ち上がった場合ですが,他にも大阪選手権や招待試合が行われます.公式戦がないのは10月くらいですね.その訳は昔から修学旅行と中間考査が10月にあるからでした.普通の学校では定期考査があり,部活動は試験1週間前は練習禁止です.5月の中間考査,7月の期末考査,9月から10月の中間考査,12月の期末考査,3月の学年末考査の1週間前です.そんな中で,時間のやりくりをしながら,土日に,練習試合です.選手の楽しみでもあるので,なるべく,県外に遠征していました.宿泊しないで済む距離を考え,愛知,岐阜,静岡西部,奈良,滋賀でした.しかも同じような進学高校で,同じくらいのレベルの高校を選んで,顧問の先生にお願いしていました.
県内では公式戦で戦うので,新鮮味がないので,基本的に,練習試合は県外の高校でした.当時,インターハイにも出場していた静岡県の浜松北高校や滋賀県の膳所高校などは,本当に数少ない卓球に関しての文武両道の高校でしたが,選手も顧問もお互いが広い交友関係のチャンスになりました.さらに,県代表で他県への選手権へ行く際には,選手も旅行気分も楽しめ,各地の美味しい食べ物なども思い出に残っているようです.選手は顧問にラーメンおごってくださいとか言うものの,一杯500円のラーメンでも10人の選手なら顧問の出費は5000円になり,とてもそれは賄いきれません.そこで,焼き肉の喰い放題などのお店を探したりして,その打開策を考えたりしました.普通の生徒と違って,選手はとにかくよく食べます.修学旅行の際の生徒の食欲とは次元が異なります.ホテルで宿泊の際の朝食はたいていバイキングなので,選手は和食と洋食の両方を食べます.男子も女子も.ホテルは確実に赤字になりますね.昼食は,試合会場では試合がタイムテーブルで進んでいきますので,昼食タイムは各自がそのタイムテーブルに合わせて採る感じで,行く前に,コンビニで買って試合会場に向かいます.夜は,大抵,宿泊ホテルの近所で食べることになりますが,たくさんの選手が入れる店を探すのも難しく,選手もグループにして各グループで好きなところに行くのが通例でした.顧問もそのうちのどれかに参加したり,たまに,知り合いの顧問と一緒に食事することも有ります.忙しい,選手や顧問も一時のリラックスできる時間でもあります.
しかし,選手によっては最悪の時間になる場合があります.それは一般の人には想像できないことですが,模擬テストです.模擬テスト?と思われるでしょうが,県代表で他県での大会に遠征する場合は,当然その試合は基本的に土日や祝祭日です.一方進学高校では,土日や祝祭日に高校1,2年生でも業者の模擬テストがあります.普通の進学高校では,ベネッセの進研模試が年3,4回,河合塾の全統模試が同様に年3,4回あります.それが公式戦の県代表の試合とぶつかる場合,前もってその模試を学校で受けると問題の漏洩の危険もあるので,顧問がその模試の問題を預かって,ホテルの夜の時間にそれを行うというものでした.試合前の夜,試合中の夜等選手は顧問の監督の下で行うのでした.学校によっては事前に放課後,受験する場合もありましたが,現実にホテルでの受験も経験しましたが,これはきついです.
裏話ではありますが,バレーばかりやってきた体育教師の顧問が遠征先のホテルで,明日の試合に備えて,早く休むように伝達したのち,いつまでも部屋に明かりがついているので,早く寝るようにと注意しようと部屋に行くと,選手がみな一心に勉強していたとか.はたまた帰りのバスの中で,口を開けて寝ている顧問以外の選手は,静かに本を読んで勉強していたとか.これも進学高校あるあるかも?.
今でこそ,教師のブラック残業等,はたまた部活動指導の闇,等話題になっていますが,試合会場への引率にしても教諭でしか引率権がないので,工業高校や商業高校で多い,実習教員が顧問の場合は,引率権がないため,教諭が引率しないといけません.国体の開催県で優勝するため,そのための選手を実習教員として採用していたりしています.その実習教員が実技指導ができるため顧問になるも,引率権がないため,必ず教諭が一緒に引率することになり,教諭に負担がかかる場合があります.
これだけ試合数が多いと,引率だけでもかなりの負担になります.私が教員であった時期には,手当や交通費等も少しは出ましたが,必ず赤字になり,自分の研修だと割り切ってやっていましたが,今思い返すと当時はそれが当たり前となっていたので,あまり疑問にも感じなかったのが現実でした.
その後管理職になって,部活の顧問を決める際に教員に打診をする中で,顧問をしたくない教員は半数はいるので,その教員をどう配置するかは難しい校内人事の一つでした.今もそれは変わらないと思います.やりたい人はすぐにその部活の顧問で収まるのですが,やりたくない教員をどうするかは難しく,背景もいろいろで,やりたくない顧問の半数は,活発で顧問がしっかりしている部活動を希望します.なぜかというと,自分は素人なので,本当にサブでお願いしますとして,殆ど部活にはいかなくて済むし,試合の遠征も主顧問が行うので,殆ど何もしなくて済みます.更には,遠征した際には,その顧問への手土産も買って来てもらうなどの実情はあまり知られていません.そして毎年,それを繰り返して,希望通りになります.
しかし,そうはいってもやりたくない先生で活発な部活で絶対に避けたいのが,野球部です.私が経験した高校では,甲子園に出場させた監督がやって来て,野球の場合は監督以外に部長という顧問が必要です.野球部の場合,公式戦以外の土日は基本的に練習試合で,全部の選手(私の経験した高校で90名)を一か所に連れていくわけにはいかなく,A戦,B戦といって,1軍2軍に分けて別々の球場で練習試合を行いますので,引率教員が必ず必要になりますが,野球の場合は毎週ですので,これはたまらんということで,誰もなり手がなく,管理職である私がB戦の選手を引率していました.更には,その高校にはない競技,例えば水泳の場合,地元のスイミングクラブで練習をしていて(たいてい小学校のころからやっていて),在籍高校の生徒として出場するのが試合で,顧問がいないので,管理職が引率することになり,私は県大会から,東海大会,そしてインターハイまで引率した経験があります.
卓球と違って50mの競技なら30秒で終わってしまいます.それをある顧問に話したら,私の競技は2秒で終わりましたよと,相撲部の顧問が教えてくれました.
生徒も場合でもそうですが,教員の場合も教える教科(私の場合は数学)や,部活の顧問として,その競技に面白さを見出すことで,向き合い方も違って来るし,自分の資質向上を図れると思います.資質が向上すれば,教科や競技に取り組む姿勢も変わってきます.
私が25年前に筑波大学へ内地留学した時も,私自身に数学や数学教育への情熱や部活(卓球)への情熱も中だるみ状態であったように思います.筑波での2年間の後,数学的には,計算機代数という分野でその後も自分で研究できるようになり,数学教育では,恥ずかしながら,やっとチョーク一本で授業ができるようになりました.
その背景には,筑波大学で指導していただいた佐々木建昭先生の講義が,チョーク一本で,ノートなども持参しなくて,すべて黒板に書いていくというもので,それは佐々木先生が学生の頃,有名な物理学者の内山龍雄先生がチョーク一本で講義されていたのに感銘を受けられ,引き継いで自らの講義もチョーク一本で講義されたのでした.
その佐々木先生の講義を受けていたら,試験も学生と一緒に受けるようにと言われて,まじめに聞いていたので,かなりいい成績をとれて,確か110点くらいでした.100点満点だったのですが,それ以上の点数も付けていただいて,自分が採点する際にもこれもありかなとヒントを頂いた気持ちでした.先生も学生に向かって,現職の先生でも頑張っているので諸君も頑張るようにと話されたのも忘れ得ない思い出です.
また,佐々木先生はマラソンを本格的にやっておられ,当時50歳前後でしたが,フルマラソンで2時間40分を切られたとか,一緒に参加した筑波大の陸上部の選手と競い,選手と先生が競って負けたほうが坊主になるという約束で,結果として,学生全員が坊主になるという,なんとも微笑ましい状況を目の当たりにしました.
更に,当時の佐々木研では,春の研究室合宿では,各人が10km,20km,30kmのコースから選択して,研究室の宿舎に入る前にその距離を完走するというのが全員の共通課題でした.私もその合宿には参加して,10kmを完走した思い出は今でも鮮明に覚えています.その後,筑波から帰って,佐々木先生が京大の数理研に来られた際に,津西高校に来ていただいて,講演をお願いした際も,気さくに応じていただき,生徒ともども忘れ得ない思い出です.
佐々木先生には,筑波に行く前に,
の中の記事で,で佐々木先生のことは知っていたのですが,
先生の著書のうちの一つの
で,計算代数を読んでいて,特に1980年代から90年代にかけて注目されてきた計算機代数の分野でのグレブナ基底に興味を持っていたので,計算機代数の日本での開拓者であり,第1人者の佐々木先生の下で研究したいと思いました.この岩波の応用数学講座はその後再出版されましたが,佐々木先生はその第2回配本では本文の練習問題の解答例を新たに付けくわえられていて,先生の真摯な姿勢が伺い知れます.中には30分ほど計算しないとたどり着けないグレブナ基底計算もあります。
筑波大学は数学教育に関して,内地留学の対象でもあり,数学教育と計算機代数の関連でも初等幾何の自動証明等,密接な関係もあり,さらには教育全般に関してもじっくり学べる環境があり,職場には無理を言って受験をお願いしました.組合の関係で管理職を目指すのは基本的に組合は認めておらず,管理職を目指すのでなくてもその疑いがもたれて,純粋に研究をしたいという希望であっても,職員会議でその旨を表明して,それから試験を受け,落ちたら恥ずかしい,そんな状況でしたが,試験も受かり,ほっとした気持ちで,筑波に向かった記憶があります.
今はそんな制度もなくなったとか聞いていますが,現職の教員がもっと学べる環境を整備する必要性を感じています.先生も予備校の講師の講義を受けるのが教科の研修のようになっているというか,教育委員会も含めて数学の研修の中身のとらえ方を今一度見直す必要性を感じます.それはひいては,生徒が数学を学ぶ姿勢につながるを感じます.大学受験の講義を,予備校や塾で受講することが,数学の勉強と勘違いしている生徒がいたら,それはひいては指導する教員の姿勢に由来しているとも言えます.現職の数学の教員は,自ら研究する環境は自分自身の数学的な素養も含めて難しいのが現状で,生徒と一緒に受験参考書や予備校での受験講座に関して講師から講義を受けること以上に,大学で数学の学び直しが必要であり,その環境整備も急がれると感じていますが,それにはそう感じる教員や教育委員会の資質そのものが,問われていると思います.小学校の先生は小学校の教科の内容,中学校の先生は中学の教科の内容,高校の先生は高校の教科の内容を知っていればといいという意識を捨てて,算数,中学の数学,高校の数学等を教えるにも,きちんと数学を学び続ける必要性を持ち続けることが現場の先生や教育委員会の先生にとっても絶対に忘れてはいけないことだと思います.
卓球に話を戻すと,日本選手が敗退するとその後の試合は報道されることは少なく,女子の場合は決勝の孫穎莎と陳夢 の戦いは東京オリンピックに続いての決勝戦で,今度こそは優勝候補で,現世界ランキング1位の孫穎莎の優勝かと思われましたが,ベテランの陳夢 選手のテクニックが上回ってのオリンピック2連覇となりました.一方男子の場合は,張本選手が敗退して,準決勝には中国の第1シードの樊振東と,第2シードの中国選手は2回戦で破ったスウェーデンのモーレゴート選手,地元フランスのF.ルグラン選手,ブラジルのカルデラノ選手が勝ち残り,準決勝で,樊振東選手が地元のF.ルグラン選手を破り,モーレゴート選手がカルデラノ選手を破り,決勝は結局,樊振東選手が勝ち優勝しましたが,樊振東から3セットをとったのは張本選手だけで,張本選手の健闘をたたえたいです.
少し深読みすると,地元のF.ルグラン選手はまだ17歳でこれからの選手で,しかもラケットは中国式ペンホルダーでヨーロッパでは珍しく,中国,日本でも珍しいラケットを使うなど,オリジナルな発想を持つ選手として,中国も最も警戒する選手かも知れません.この選手にはA.ルグランという24歳の兄がいて,彼も世界ランキング10位台の選手で,弟のF.ルグランが世界ランキング5位で今後の団体戦でも中国に次いでの強豪国です.このようにヨーロッパでは,個性のある選手がそれこそ一匹狼のように出て来て活躍することは,これまでのスポーツの歴史でもよくありました.実は上で名前を挙げたスウェーデンのモーレゴート選手もその一人で,彼が使っているラケットは
スウェーデンのSTIGA社の六角形(八角形ではないかという声もありますが,卓球界では六角形と言っています)ラケット使っています.数年前にこのモーレゴート選手が初めて使って,世界選手権で一躍準優勝して,注目を集めています.実は私も2年ほど前から週1回卓球を始めて,今このラケットを使っています.打った感じは丸いラケットと違和感はほとんどなく,スィートスポットが丸いラケットに比べて広い感じです.もともとスウェーデンは北欧の家具の生産地でもあり,木材の合板技術は進んでいて,その中で,STIGA社は卓球のヨーロッパでの屈指のメーカーです.女子で優勝した孫穎莎選手もSTIGA社のラケットを使っています.スウェーデンは,テニスで言えば昔はボルグ選手であったり,スキーではステンマルク選手であったり,卓球ではワルドナー選手のように天才的な一匹狼のような選手が現れては世界にその名を響かせてきています.スウェーデンの卓球は,1960年代に日本の元世界チャンピオンでその後世界の卓球協会の会長まで務めた荻村伊知郎が自ら指導して,その礎を築いたのです.それまでのヨーロッパの卓球スタイルはシェイクハンドラケットでカット主戦でしたが,日本式の攻撃戦法をシェークハンドラケットで行う戦型を初めて取り入れたのがスウェーデンでした.その後,世界チャンピオンになった,S.ベンクソン選手,Y.パーソン選手,Y.O.ワルドナー選手は中国も苦戦を強いられた世界チャンピオンでしたが,モーレゴート選手もその仲間に入りそうな選手です.私の高校時代までは卓球のラケットはペンホルダーが主体でしたが,今は90%以上がシェイクハンドで,私の年代以上はペンホルダーが多いのが特徴です.大学時代に私もSTIGA社のシェイクハンドのラケットを手にして,そこからシェイクハンドラケットでの攻撃の戦型になりました.当時のラケットが下のラケットです.
クリッパーモデルという製品ですが,弾みが良く,現在も根強い人気があるラケットです.40年以上発売されているロングセラーのラケットです.少し前まで,日本の女子の平野選手も使っていました.ちなみに,早田選手の使っているラケットは日本製でNittaku(日本卓球株式会社)製の早田ひなモデルになります.張本選手のラケットははやり日本製でバタフライ社の張本モデルというラケットで,特に日本のメーカーは有名選手と契約してその選手の名前のラケット作ることが多いです.他にも中国選手の男子の有名な選手のモデルもたくさんあります.日本のメーカー独特の特徴でもあります.語り出したら,卓球もきりがありませんが,次回はまた違った視点で紹介できればと思います.そういえば,先の荻村伊知郎氏の著書に「卓球・勉強・卓球」(岩波書店)があり,ジュニア新書であることからも教育的な視点が伺われます.他には
があります.この本の表紙の女子選手はやはり中国選手で鄧亞萍という選手です.彼女はオリンピックシングルス2連覇を最初に成し遂げた女子選手で,その後,張怡寧(中国)選手が続き,今回の陳夢 選手が3人目の偉業達成になります.ワルドナーに関しては,
こんな本があります.
オリンピックのシングルスの出場は各国,地域から2名という制限があり,世界ランキングの4位までが中国の選手である女子に関して言えば,実力的には日本の早田選手に近い選手は中国には10人以上はいると思われます.世界ランキングは各種のトーナメントに出場して,そのポイントで決まりますが,中国ではそのトーナメントに出場できる選手も限られる中で,ポイントが少なく,ランキングが低くても実力のある選手はたくさんいる状況で,団体で4チーム作れば中国がベスト4独占もあり得るくらいです.それだけ実力差があるのですが,団体戦は何とか奇跡を起こして日本が勝って,1971年の世界選手権以来の団体優勝を期待したいです.そのときの相手は中国でした.