先日、父が94歳の誕生日を迎えました。母は93歳です。二人とも終戦時に17歳、16歳と言う年齢でした。耳が遠く今は会話もなかなか難しいのですが、頭はしっかりしているので、ゆっくり話せばなんとか対話もできます。
父の兄は1945年にニューギニアで戦死し、母の兄は1945年8月13日に沖縄で戦死しています。以前沖縄に行った時に、沖縄戦で戦死した母の兄の名前が碑に刻まれているのを確認しました。母親は、あと二日で終戦だったのにと、この時期にいつも言っていたことを思い出します。
私の先祖では、日清戦争で一人戦死していて、日露戦争では同じ村内の方が二人戦死しています。それも兄弟で。それで、その家は跡取りがいなくなるってことで、私の祖父の姉が幼女で、その家に行き、更に養子を迎えてその家は断絶を免れていて、我が家とその家は今も強い親戚関係にあります。その養女で行かれた方の息子さんが、実は私の仲人でもありました。そして、その日清、日露の戦死者の碑が村の石碑が立ち並ぶ一角に建っています。その隣には、第2次大戦で亡くなった方の慰霊碑も建っています。下の写真で、一番右が日清戦争、中2つが日露戦争、そして、左の大きな石碑に連連名で書かれているのが、第2次大戦での戦死者名です。第2次大戦での戦死者はあまりにも多いので、大きな石碑に名前のみが書かれているというわけです。
私の住んでいる所は、今は戸数50軒ほどの村ですが、第2次大戦で戦死者の数は、30名ほどになります。その年代のほとんどが戦死しているという状況です。あまりにも戦死者が多くて、初盆供養も数が多すぎる関係で、村の自治会で行なったということでした。その関係で、今も初盆送りは自治会が主催で行うということになっています。
父は、終戦近くに、特攻隊の試験を受けに広島の呉に向かったらしいです。祖父は父に向かって、父の兄も戦死したので、お前まで死なすわけにはいかないので、試験では○ばかり書いて落ちてこいと言ったそうです。しかし、純粋な父はどうせ死ぬのだから(これが当時の青年たちの思い)という気持ちだったようです。大阪から広島に向かう列車の中は満員で疲れもあって、父は列車の通路で床に腰を下ろしていました。そしてそこに通りかかったた憲兵が親父の胸元を捕まえて、「貴様それでも日本男子か!」と言って殴ったそうです。親父は唇から血を流し、黙って首を垂れているだけだったそうです。そしてそのとき思ったそうです、こんな輩に殴られるなんてたまったものではない、自分は将校になってこいつらを殴り返してやると。そして父は呉での特攻隊の試験では○ばかり書いてきて、試験に落ちることになり、旧制中学を卒業して専門学校に入学することになりました。いまの電気通信大学の前身である電波講習所で大阪の校舎でした。父は、1945年の3月に旧制中学を繰り上げ卒業して、4月から大阪の上記の専門学校に入学したのです。大阪では空襲にもあい、食べ物もなく、苦労したそうです。8月に終戦、9月には福井の駐屯地へ行く予定になっていたそうですが。 勝った負けたより、終わってホッとしたと。そして、翌日、それまでその学校たくさんいた憲兵達はいつの間にか、誰一人いなくなっていたそうです。
昨今の評論家の中でも、日本が攻められて、侵略されてきて、守るのはどうすればいいかということを耳にします。しかし、守るとはどうすることかな。迎え撃つということで戦闘状態になることです。いまのウクライナを見ればわかります。しかし、ロシアにしても、第2次大戦時のナチスにしろ始めた方は侵略とは言いません。かつての日本もそうです。終戦の日、父や母は負けて悔しとかそういう気持ちはなかったと、ただ戦争が終わってホッとしたと。死ななくて済んだと。
いま右翼系の評論家の中には、負けたことがその後の東京裁判等での判決を見てもその影響があるといますが、仮に、日本があの時、奇跡的にその後、勝ったとして、終戦時に日本人は勝って良かったと思うのか?父や母の言葉を聞いてもそうは思えない。戦争が終わって良かったと思うでしょう。勝ち負けではなく、戦争そのものをなくすことが大事で、当時のアメリカでも戦死者の家族は戦争で家族を亡くした悲しみの方が大きいと思われる。戦争を人ごとと考える発想をやめるべきですね。自分が戦死する、家族は戦死するという前提で考えるべきです。
父は、その後専門学校を卒業して、今のNTTの前身に就職も決まっていましたが、兄が戦死して、田舎では跡取りがいないということで、泣く泣く、実家に戻り、農業につきました。実家に帰って来た頃には、悔しくて、専門を生かしたしいことに未練もあり、ラジオを組み立てたりしていたそうです。また、大阪での苦学の時期に同じ学校でよく一緒に勉強していた友人のDさんの話をします。数学のD、電気のM(父)と言われて将来を嘱望されていたそうでした。父達は、ある時期、当時の数学者である掛谷宗一から数学を教えてもらったと聞きました。そんなことが私自身が数学と関わるきっかけの一つにもなっていると思います。そんな父の数少ない友人のDさんも7月に亡くなられたという手紙を受け取りました。父に渡すのも辛いものでした。
また、父の旧制中学の同級生の親友でその後東大の第二工学部から、日本電装に就職し、その後社長、会長を勤められたIさんとも、同窓会や年賀状で交流を努めて来ましたが、数年前に亡くなられて、だんだんと父の知り合いも少なくなって来ています。そのIさんが卒業された東大第二工学部は今は東大の生産技術研究所になっています。
ここには、そんな戦争に振り回された第二工学部のことが詳しく書かれています。編者の一人は、私が学生時代、その方の著書も少し読んだ記憶がある方です。時代が進んで、私の娘が大学院で所属した研究室が、その生産技術研究所の中にあって、機械系ということもあって、父は、上記のIさんにあって、孫娘がIさんの後輩にあたると言って、楽しそうに語っていたそうです。そんな父も、だんだんと弱って来て、来年の終戦時までは無理かなとも思われます。
戦争というものが日本では風化されていきつつある中で、戦争のイメージすら勝手な解釈されて行く中で、実態すらはっきりしなくなって行く中で、折に触れて考えることで、きちんと記憶していきたいものです。そんな思いは、私だけではないと思います。