数学教師の書斎

自分が一番落ち着く時間、それは書斎の椅子に座って、机に向かう一時です。

読み返したくなる本

2021-11-22 15:46:51 | 数学 教育
 人によって読み返したくなる本があると思います。私の場合は、有名な数学者が書いた本、特に勉強方法等や読書案内等を書いた本です。例えば
 最近、東大を受験する高校生の数学を自宅で教えるようになって、東大の新入生向けのブックガイドともいうべき本書を読み返してみました。幅広い東大受験生向けの情報としての価値もあると考えます。以前読んだ内容も忘れていて、新たに新鮮に読み返すことできます。その中で、印象的であったことを紹介します。
 著者は基本的に東大の数学の先生で、前もってどんなジャンルの本かを4つの分類してその分野での本を角栓んせいに紹介してもらうというものです。数学の全般的な本、専門的な本、専門的な洋書、広く一般書というくくりです。それぞれの先生の個性が出ていて、成る程と思われる本が紹介されていて、個性が出ていて面白いと思います。
 特に印象残った本を紹介してみます。一般書という分類で紹介されていた本で、
 これは、東大紛争の当事者の自伝的かつ記録としての貴重な書籍として、私のここで紹介される以前に読んでいた本です。これを紹介された数学者は私と同年代の京大出身の先生で、入学時点ではすでに大学紛争はすでに終わっていたものの、京大はその名残がまだ残っているような時代でした。時計台には、白いペンキで「竹本処分粉砕」と書かれていて、その記憶は時計台とともに未だに脳裏に焼きついています。入学式は演壇が占拠されて中止になり、定期試験は前期も後期もストで中止なるような時代です。私も代議員大会に出席してスト可決を目の当たりにしました。今の大学生には想像もつかないでしょうが、背景にはあkぁデミズムに通う大学生として、真理に向かうものとして、不正や不条理に対して、純粋に立ち向かう気持ちがあったのですが、それは時代を超えて必要な姿勢だと思います。そんな当時の学生の一面や今もの頃不条理に対してどう向き合うのかを今一度考えてみる時に、参考になるのではないかという本です。
 もう1冊は、

これです。著者をみてください。かの、志村五郎の名があります。奥付には、当時大阪大学の教授となっています。確か大阪大学の教授を1年くらいでやめてプリンストンへ行ってしまったのだと思います。志村五郎の随筆にも数学教育特に、教養部での数学の講義に関しての記述もありますが、その際に使われたと思われるテキストです。貴重な本で、以前に苦労して手に入れた本です。この本の問題等を全て電子ファイルにして活用できればと、Texに書き直しているところです。他の先生も有名な先生で、東大等で使われていた問題集ですが、これを使って勉強したという人もいて、その人には懐かしいテキストだと思います。この際に解答集も作ってみたいと思います。

早すぎた男

2021-11-05 19:59:17 | 日記
 今年の文化勲章受章者では、野球の長嶋茂雄が脚光を浴びて、ニュースでもたびたび放送されていましたが、数学者の森重文の受賞は遅すぎたと思います。また、ノーベル賞を受賞した真鍋祝郎の受賞は、これまでもあったというに、ノーベル賞を受賞したのに、文化勲章の受賞が遅れたらまずいという国の姿勢が見て取れる。そうであるなら、フィールズ賞受賞の森重文は30年前に文化勲章を受章されるはずであるが。なぜ、今年まで遅れたのか?遅すぎた受賞である。
 遅すぎた受賞といえば、2008年のノーベル賞の物理学賞を受賞した南部陽一郎の場合も当時遅すぎた受賞といわれた記憶がある。同時に受賞した益川敏英が、南部の受賞を涙を流して喜んでいた光景が忘れられない。尤も、南部陽一郎は1978年には文化勲章を受章している。当時南部陽一郎はシカゴ大学の教授で、アメリカ国籍であった。今年の受賞者真鍋祝郎もアメリカ国籍であった。そしてなぜアメリカ国籍なのかというのが話題になった。
 その南部陽一郎の生誕100年が今年であり、ある意味それを記念すべき、南部陽一郎の物語が「早すぎた男 南部陽一郎物語」(中島 彰:講談社 ブルーバックス 2021)である。

 物理のことはわからないけれど、ひきつけられるように読んでしまうところは、著者の素晴らしい文章のおかげである。日本のジャーナリストはどうしても理系の分野でのこうしたノンフィクションの作品が苦手で、これまでも外国の翻訳本では感動したものも多くあったが、日本人をモデルにしたこうした作品は少なかった印象がある。
 作者の経歴がジャーナリストとしては珍しい、東大の工学部出身である。その意味からして理系のジャーナリストの作品として、確かに物理学者ではないが、ないが故に、きちんと取材して少しでも自分でも理解しようという姿勢での文章が、読み手に伝わってくる作品といえる。「早すぎた男」とは、南部陽一郎の理論が時代を超えて早すぎて、それが理解、認識されるのが追い付かなかったという意味である。
 この手の本は、高校生や中学生が読んで、物理にあこがれ、そして自分も物理を専攻したいと思うきっかけになる、そんな貴重な本であると思う。時代を超えて読んでほしい本である。読む人の年齢に応じて、読み取り方は違うと思う。違った読み方ができて、読む人によっていろいろな受け取り方ができる、貴重な本である。
 森重文についても、こんな本ができれば思う人は、私だけではないだろう。


嫌われた監督

2021-11-02 19:45:55 | 読書
 大学を卒業して,通信機メーカーへ就職したのですが,その後公務員,そして郷里三重で高校の数学教師になって,その後予備校の数学教師に.そんな自分ですが,最初に就職を考えたとき,スポーツ新聞社への就職を密かに頭に描いたことがありました.大学での専門に拘らなければ,自分が一番好きなのはスポーツでした.小学校ではソフトボール,水泳など.中学では団体競技ではなく個人競技をと,卓球を選びました.そして大学まで卓球を続け,周りはあまりスポーツと縁のない仲間が多く,本格的にスポーツを話題にすることもない環境でしたが,根っからのスポーツ好きの自分の中では,スポーツに関する仕事ができれば,趣味と実益そのものという思いがありました.
 結局転職して,高校の数学教師になったのも,部活の卓球部の監督として選手を指導したい,そんな素朴な思いがあったからです.そんな思いは時として,スポーツのノンフィクションに惹かれることがこれまでもありました.好きな作家には,山際淳司.私の本棚にも,何冊かその作品を見ることができます.
 久しぶりに,スポーツのノンフィクションを読みました.最近,硬いものばかり読んでいたので,気楽に一気に二日で読めました.それが表題にもある,

です.落合監督の数年間を何人かの選手を通して,垣間見ながら,人間落合博満に迫る作品です.私より一つ年上の落合を,若手のスポーツ新聞記者が取材しながら,自らの成長の歩みを監督落合を鏡にしながら,必死にその真相に迫ろうとする作品ともいえるでしょう.ときには,私自身が卓球部の監督としての自らの生き様や姿勢に監督落合をだぶらせながら,そして若手の記者の成長を監督落合の取材という過程で伝えられる内容に感動してしまう自分でした.忘れてしまっていた何かを思い出させてくれる,そんな作品です.
 読み手の生き様によって,この本の理解の仕方も変化すると思われます.ぜひ読みながら,自らの人生を照らしながら思い出してみると目に涙する,そんな時間を持てるかも.そんな本のように感じましたので,内容は各人の読み方,生きざまに依存して楽しんでほしいですね.

数学をつくった人々 第3巻

2021-11-02 05:03:19 | 数学 教育

 第2巻を読み始めた時には、アマゾンの書評にもあるように、日本語訳が直訳風で、もう少し滑らかな日本語にはならないかと思ったが、読み進めるうちに、特に第3巻を読み進める中で、そのような印象は払しょくされて、最後の方では、逆にその日本語訳の滑らかさを実感するようになった。

 第3巻の中で、分担して訳された感があるが、少なくとも第3巻ではその日本語訳は素晴らしいと感じました。もともと、あまり日本語訳に拘っては読んでいなかったので、自分としてはあまり気にならなかったのですが、要は内容が伝わればいいかなという気分で読んでいくと、逆により内容を理解できる気もします。
 第3巻の解説では、数学者の秋山仁が「完璧な邦訳で、最初から日本語で書いた本のように流暢であると」。内容的にも、秋山仁も書いているように、読者の数学のレベルに応じて読める工夫が行き届いている。それが、この本がこれまでも読み続けられている要因と考えられる。読むたびに新たな発見もあるような、ある意味数学書的な印象である。19世紀までの数学を数学者を中心に誰でも読める本書の価値は今も依然としてある。数学史に関する古典的な入門書であり教育的にも、高校数学教育で世界史的な視野で数学の授業でも語られることが大切である思われる。


タイトルが印象的

2021-11-02 04:45:54 | 読書
タイトルが印象的で、久しぶりの丸善で手に取って買いました。普段は田舎暮らしなので、本はアマゾンで買うので、必然的に目にすることがない本があります。大型書店では、何気なく目に入ってくる本があるので、それが楽しみの一つです。そして手に取ったら買うという、立花隆の言葉を思い出し、今回これを買いました。

著者の加藤典洋に関しては、今まで一冊も読んだことがなく、どういう人かも知らないくらいでしたが、今回この本を読みながら著者の人となりを理解できたように思います。私より6歳年上の全共闘世代です。私は安田講堂の攻防を床屋さんのテレビで見ていました。大人も子供も黙ってみているという感じでした。大学生のエネルギーが伝わってきました。多感な思春期の自分には大学生とは日本を変えていくエネルギーがあるのだと、連合赤軍のあさま山荘事件とは異質な何かを感じました。大人の方も、俺たちはできないけど、あいつら大学生はよくやるよなあみたいな、ある意味同情的な指示目線も感じました。また、せっかく東大生になったのに、こんなことしたら将来就職できへんやろとか、それが庶民感覚でした。それを覚悟に、こんな運動する背景には何か重要なことがあるのでは、という疑問もみな感じていたと思われる。それが田舎の中学2年生の素朴な印象だった。


 1969年の東大入試はこの影響で中止になりましたが、12月の時点でそのことは決定されたのですが、東大入試が中止になって、あの数学者森重文が京大に入学した。この秋、彼は文化勲章を受章します。確か広中平祐はフィールズ賞をもらってすぐに文化勲章をもらった記憶がある。親の紋付き袴で、ひとりだけ長髪の青年が文化勲章をもらったみたいな写真が目に浮かびます。森重文はフィールズ賞をもらってから30年後に文化勲章ですか。ノーベル賞とフィールズ賞は同同等のイメージがあったのですが、今回の真鍋祝郎のノーベル賞受賞と同時の文化勲章受章を目の当たりにして、森重文の30年後の文化勲章には違和感がある。ノーベル賞には数学賞はないが、それに匹敵するのがフィールズ賞であるというのは、当時広中平祐が文化勲章を受章した時に、我々の国民の共通認識があった。今回の森重文の文化勲章は、かつての技術大国の日本の退廃を感じざるを得ない。フィールズ賞の重みを国が認識できてないという証左である。国が森重文に文化勲章を渡す時機を失して今に至ったと考えたい。知への憧憬、認識を失ってしまった、情けない国になってしまった。