数学教師の書斎

自分が一番落ち着く時間、それは書斎の椅子に座って、机に向かう一時です。

良い教師は・・・

2025-01-30 17:57:55 | 日記
 良い教師は、生徒の名前を覚えるのが早いとか。その意味では私はよい教師ではありませんでした。年を取るにしたがって、覚えるのが遅くなってきて、挙句の果てには、覚えなくてもいいかなと、開き直る始末でした。目立つ生徒は自然と覚えるのですが、そうではない生徒は覚えきれてなかったです。名簿は持っていたので、指名することはできましたが。尤も、大学1,2年では名前を憶えていて、授業をされた記憶はほとんどありませんが。
 教育論議では、例えば部活指導で教員が大変だという話題では、主に中学の話であり、モンスターペアレンツの話では、対象が小学校であるのに、対象を明確にしないで、小学校から高校までを十羽一絡げにした議論になりがちです。高校生を教えていて、小中学校からの議論の延長線上での議論の立て付けが多く、その結果、例えば高校3年生を教える中では、教育議論が当てはまらなく、却って大学1,2年生に視点での議論が参考になった記憶が強くあります。
 文科省の組織では、小中高(初等中等教育局)と大学(高等教育局)は別組織である点が情報や議論の対象も影響を受けていると考えられます。 
 いずれにせよ、いい授業をすることが大切で、ややもすると、小中学校では、今流行りの形式の授業をすることに重きを置かれ、授業内容に関する議論が薄められる傾向にあるように思われます。高校では、授業内容が問われることが多く、それが大学ではもっと顕著になると思われます。
 しかし、どの段階であっても、児童生徒や学生が教師の話に興味をもち、注目するための話術や話の展開に関して、もっと教員として意識を持つべきであると今更ながら感じます。もちろん作られた噺ではなく、リアルタイムの対話に近い側面も授業にはありますが。それら二つをミックスしながら作り上げられる授業は出来上がりの旨さが味わえれば最高ですね。
 私も時々、授業の導入や話の掴みなど、噺家を参考にできればと思っていましたが、残念ながら、その実践までには到達できませんでした。
 そんな思いもあってか、最近、新聞の書評欄に書いてあった本で、噺家の書いた
を読んでみましたが、なるほど、いたるところにその噺を彷彿させる文言に成程と思わせられる箇所も多く、一気に読んでしまいました。作者は私より少し年上ですが、ほぼ同世代であり、時代感覚も近いことから惹きつけられました。噺家の徒弟社会と学校という組織での指導教育という点でリンクできるところもありかなと感じます、部活動の指導なども含めて。
 興味深く読めて、しかも読後の印象もよかったので、更に著者の初期の作品

も一気に読んでしまいました。社会を風刺しながらも根底には意外と冷静な目が話術にも反映されているのかと、はままた、実社会の何気ない日常の一人の生き方を噺の様に語られる中に、我を思い出させてくれる、それを楽しみながら読めます。教育においても大いに参考になる視点かな、一人の教師として。

同窓会

2025-01-29 10:06:11 | 日記
 昨年出席した同窓会が2つあり、一つは高校の教え子に招待されて同窓会で、企画してくれたのは、今は弁護士として活躍してくれているA君でした。もう一つは大学の卓球同好会の同窓会で、これは初めての企画で、45年ぶりの再会になりました。後者の中で、今も卓球を趣味で続けているのは、私と私の結婚式の司会をしてくれた、元高裁の長官であるX氏でした。彼は刑事系の裁判官ではありませんでしたが、時期的に袴田死刑囚の無罪判決が出たころで、歴史を振り返りながら、あの大逆事件を思い出して、
を読んでみました。歴史を学ぶ上で、人物史を読むことも一つの楽しみ方であるので、読み始めましたが、人物史から観る当時の社会は、また違った歴史観を呼び起こしてくれます。裁判、司法がその歴史の中で、どう振舞っているかを見ることで、その当時の時代背景や司法判断の色合いが伺い知れて、今を見る目も洗浄される気分になります。友人の元裁判官は、朝の連続テレビドラマで昨年有名だった、「虎と翼」のモデルの三淵嘉子さん

と同じ所長も務めています。その彼や私と同世代の元裁判官の著書

も並行して面白く読めました。法曹界、特に裁判官の準公務員としての、キャリア感覚がリアルに、そしてその現場の人事の様子もその現場にいた人にしかわかりえないことを目の当たりにして、少し裁判や裁判官の現実を垣間見た気になりました。
 今週末はその同窓会をきっかけに、45年ぶりに、その元裁判官と卓球の試合をするべく、上京して、楽しいひと時を予定しています。折しも、今年度の全日本卓球選手権の興奮も冷めやらぬ時期に、懐かしい友人と試合できる今を大切にしたいものです。

昔は分かったことが・・・

2024-10-29 11:32:44 | 日記
今は少なくなりつつある,待ちの小さな本屋.そんな現状もあり,買い物の際に立ち寄ってみることが多くなりました.経営も厳しい中で,店主の本の選び方も観察できる,そんな気持ちで並んでいる本を手に取りながら,気になったら買うことにしています.
そんな状況で手にして買ったのが,
筆者の森永氏のこの本を書いた状況を鑑み,その気持ちの真剣さから中身に関しても引き付けられました.3つの項目がありましたが,どれも一般の国民にはどこかでフィルターがかかって,真実が届かない状況が今の時代かと.マスコミの質の低下というか,マスコミの本質が変わってきている,その背景にジャーナリズムの衰退とそれに反比例する権力への忖度気質が確実に今の日本には感じられます.
 私の学生時代は,アカデミズムの中では真実を知るという点で純粋に希求する意識が蔓延していて,そこには権力に臆することのない雰囲気が学生も教官も共通に持ち合わせていた.その時代に青春を送った自分達には,何をしているのだ!という怒りともいえるもどかしさをぶつける相手もいない状況でもある.
森永氏が死を意識した時の自分の遺書ともいえる内容の本書には,その覚悟と死んでも死にきれない気持ちの強さで執筆されたと思います.3つのテーマの中で,①ジャニーズ問題に関しては,ある程度の情報が一般に開示されてき来ていると思われるが,②ザイム真理教と③日航機墜落事件に関しては,国家的な背景もあり,未だに情報公開という視点では明らかに明らかではないし,歪曲された情報で一般国民が真実を知り得ていないと思われる.
その中で,印象的なことは,ザイム真理教では,不利になると伝家の宝刀ともいうべき国税の査察の偉力が印象的です.更に日航機墜落事件では,事故というより事件と表現すべきで,その原因が国家の都合により歪曲されている可能性が大である.
そこで,自分でももう少し調べてみようと
を読んでみました.時間と丁寧な取材をもとに,事故ではなく事件ともいえるその原因を追究する姿勢に,思わず昔の青春時代のアカデミズムに接した気持ちになったのです.続いて,
を読むに至って,自分もいつの間にか真実が捻じ曲げられて報道されて,それを信じていたことを実感して,今の日本の政治の劣化を再認識してしまった.果たして教育の現場で真実や真理への探究が果たしてなされているのか?長年教育に携わってきたわが身を振り返りつつ,少なからずもどかしさを感じざるを得ない.願わくは,今の若い世代が真実と真理への希求を絶やさず,持ち続けて欲しいと願うばかりです.
その時その現場で如何に立ち向かうかという意識の大切さを思い知らされる気持ちです.
以前教育基本法が改定されるとき,数学者で当時京大の教授であった上野健爾先生に松阪高校で講演をしていただきましたが,数学の話から高校生を意識して教育の話になり,教育基本法の改悪に断固と反対する内容を離され,一番びっくりしていたのは,県の教育委員会の面々ではなかったと思われたことを思い出します.先生は
を紹介しつつ生徒に語り掛けながら,実は先生や教育委員会のメンバーに語り掛けていたのではないか.先生の話すのを聞く教育委員会のメンバーのなんと無機質な表情が今も脳裏に残っている.あれから20年近く時間が過ぎていますが,時間という座標軸の中で,真実や真理の絶対値が小さくなっていくことに無意識でいてはいけないと実感しています.


数学の世界史

2024-09-14 14:15:06 | 日記
 著者の数学者の加藤先生の本は,啓蒙書もこれまでもたくさん執筆されていて,総じて,読みやすいというのが正直な感想です.今回の「数学の世界史」という表題からして,意識的な内容になっています.具体的には,「はじめに」にその意図が書かれておられますので,読んでもらえればと思います.古代の数学史的な内容に関しては,これまでにも,訳本ではありますが,
があり,そこでの内容と当然重複するところはありますが,今回は翻訳本ではないので,加藤先生の主張がはっきりしています.内容に関しては,数学的な部分では,自分でも確認しながら読んでいくと面白く感じられます.その分,読むスピードは遅くなりますが.
 上の翻訳本の著者は,世界的に有名な数学者ですが,私も学生時代に手に取った本,
は世界的に有名な代数の本ですが,今でも,推薦される本でもありますね.フィールズ賞を受賞された森重文先生も,大学の1回生の頃,ストで授業がない時に,この本を読破されたそうです.
 ファン・デル・ヴェルデンには,以前にも

という古代の数学史ともいえる著作がありますが,これは加藤先生の翻訳ではなく,上述の「古代文明の数学」よりも20年ほど前に翻訳本が出版されていますが,世界的に読まれている本として,目を通しておきたい本の一つです.どちらも加藤先生の今回の「数学の世界史」を読んでから,それらを読んでも面白いかとも思えます.
 高校生でも,公式の証明等,考えながら読めるところもあるので,高校の先生も生徒に紹介してあげて欲しいです.高校の先生からの,受験ではない数学の本の紹介は生徒が,特に意欲的な生徒にとっては,目を輝かせてくる瞬間でもあります.残念ながら,私の高校時代では,そんな数学書を紹介してもらった記憶は全くなく,そのことが私の教員生活で反面教師の役割をはたしていて,積極的に生徒には紹介していきました.こういうところに,本質的な教師の役割の一面があると思います.そのためには,教師も日頃から研鑽をしないとそれはできません.総じて,私の高校時代の数学教師や数学の授業は,私にとっては,反面教師でしかありませんでした.もっとも,担任で英語の先生にはその学問的な内容等は教科は違えども,尊敬に値するものでした.
 さて,「数学の世界史」の中で,「プラフマグプタ」の公式として,次の公式が紹介されています.
 円に内接する四角形の四つの辺長をa,b,c,dとし,その面積をSとするとき,次が成り立つ.
S=√(s-a)(s-b)(s-c)(s-d)
 (ただし,2s=a+b+c+d)
三角形の面積の公式のヘロンの公式は,以前は高校の教科書にも記述はありましたが,最近はなくなっていますが,それの四角形版ともいえる公式ですが,私もヘロンの公式を証明する場合のように,ノートに書いていきましたが,ヘロンの公式の証明よりは少し難しいのですが,生徒にはチャレンジして欲しい問題でもあります.計算力も必要ですが,こういう問題から計算力をつけるのも現実的な方法かとも思われます.ついでに,トレミーの公式などにも言及しておくことも意味があるかと思いました.


青春記

2024-02-23 09:34:28 | 日記
 前々回,久しぶりに小説を読んで,気軽に読める本もまた愉しいもんだと再認識して,今回読んでみたのが,「ワセダ三畳青春期」(高野秀幸著)です.
ワセダは地名であり,大学でもあり,作者は早稲田の探検部で,下宿の三畳アパートを舞台にした青春記.
 大学のワセダは私にも関係が少しあるかと思う.受験での印象が強く残っている.受験といっても一日で終わるにも拘らず,未だに脳裏にその記憶が刻まれているのは何故だろう.
 私の受験ではワセダ界隈の小さな下宿らしき,宿を紹介されて,何と相部屋で,九州から来た受験生と一緒になり,前夜,少し話しながら翌朝受験に向かうという,今では考えられない受験前日です.夜になって,その受験生が深刻な顔をして,私に相談を持ち掛けてきました.
「私,痔になったのです.便器に血がしたたり落ちて.どうしたらいいでしょうか?」
どうしたらと言われても.その場は,その受験生の気持ちを察して,こうして話していることでも,心配しなくていいのではと話して,お互いの眠りについたことをいまだに鮮明に覚えています.その後その受験生はどうなって,どのような人生を送ったのか,今となっては少し知ってみたい.
 受験が終わってから,高校の同級生の友人と待ち合わせて,高田馬場の赤い色のビルのBIgBox(今でもあるのでしょうか?)の2階で,試験が終わって校門で待ち構えていた予備校関係者が配ってくれて解答速報を,二人でコーヒーを飲みながら自分の解答と比べ,検討をしていました.受験したのは友人も私も当時の理工学部で,私は電気工学科,友人は応用物理学科でした.確か,英語,数学ⅠⅡⅢ,理科(物理,化学)で,各54点満点だったように記憶しています.英語は易しく,理科は標準的で,数学は難しかった記憶ですが,英語で点数を稼いで,二人とも結果的には合格したのですが,そのとき,物理の問題に電磁誘導の問題があり,それも検討していて,それが後日の京大の物理の3問あるうちの1問とほとんど同じで,図も同じなのでびっくりした記憶があります.見てすぐできてしまったことも有り,結局この問題で京大も合格したのかもしれません.当時,早稲田の理工学部は受験日が3月1日で,京大は国立一期校で受験日が3月3,4,5日の3日間でした.初日の3日が午前中9時から11時半まで国語,午後1時から3時半まで数学.2日目の4日は午前中は英語,午後は理科,そして最終日の5日は社会(私は日本史)でした.今と違って,基本的に数学以外はどの科目も文系理系の区別はなく,記述式でした.
 明後日から,国公立の前期試験が始まりますが,私の受験とは隔世の感があり,違わないのは入試問題そのものかも知れません.特に京大の数学や英語は.
 さて,私のワセダ受験前夜の出来事のようなハプニングが日常的に繰り返されるアパートの話を書いたのが,この本ですが,舞台はそうであっても実は作者の青春がそこに展開されていて,光景がビビットに浮かんでくる読書は久しぶりに感動しました.
 結局ワセダには私は入学することなく,そして記憶からも薄れていき,高校で進路指導をする中で思い出すのですが,私の娘も受験で理工学部を受験するも,結局国立大学の方に入学して,またしても縁が無くなることに.しかし,娘が結婚した相手が早稲田の理工の卒業生でそこでワセダと結ばれることに.
 この小説というか,青春記は,私自身の読書の中でもいろんな人の青春記と同じように,不思議に印象的です.自分の青春をそこに被せて読んでしまうのか,はたまた,登場人物や書き手にあこがれの念をもって,自分にはできないことへのある種の畏敬の念さえ覚えてしまいます.いろんな青春記を読んできたように思います.青春記と書かれてないものの,中身は青春記と言えるそんな本をと本棚を眺めてみると
①ドクトルマンボウ青春記(北杜夫)
②ムツゴロウの青春記(畑正憲)
③青春宿命論(富沢一誠)
④京都よ,わが情念のはるかな飛翔を支えよ(松原好之)
⑤8月の犬は二度吠える(鴻上尚史)
⑥ハイスクール1968(四方田犬彦)
⑦先生と私(四方田犬彦)
⑧先生と私(佐藤優)
⑨風来記(1)(2)(保坂正康)
⑩戦後が若かった頃(海老坂武)
⑪ある戦後精神の形成(和田春樹)
⑫とぼとぼ亭日記抄(高瀬正仁)
⑬オレの東大物語(加藤典洋)
等が目についた.
現実は小説よりも奇なりというように,ノンフィクションを読みながら小説よりも読みやすく感じるのは自分だけではない気がします.私より年下の作者の青春記を読めるようになって,自分の年をふと考えるこの頃.

 去年までは受験生を教えていたので,この時期になると大学受験を思い出しますが,ある意味,人生で一番公平ともいえる入試に向かう受験生の頑張れと言いたくなります.
 あの政治家も純粋な受験生の頃を思い出して欲しいものです.