♦️851『自然と人間の歴史・世界篇』インド経済(2009~2017、多国籍企業下の労働運動)

2018-07-09 09:50:25 | Weblog

851『自然と人間の歴史・世界篇』インド経済(2009~2017、多国籍企業下の労働運動)

 2011年6月には、インドに進出している日本の多国籍企業ススギの子会社としてのマルチ・スズキで、大規模な労働争議が起こった。その現場はインドのハリヤナ州(北西部にあり、東縁をジャムナ川が流れる、西部はタール砂漠の北東端部にあたる)にあって、マルチ・スズキのマネサール工場という。6月3日、この日行動を起こしたのは、独立系の「マルチ・スズキ労働組合」(MSEU)の結成大会が行われた。
 こうなったのには、マルチ・スズキのドラゴン工場においては、既に「企業内組合」としてのMUKUがあった。会社側は、元々その労働組合なら万事に都合がよいと思っていた節がある。そもそも、インドにおいては、企業内に複数の労働組合があるのはめずらしいことではない。
 ついては、マネサール工場においても、会社側は「独立系組合や政党と関係する労働組合は、会社として認められない」と考えた。そこで、会社側は新組合の結成を認めず、組合との交渉を突っぱねた。組合のいう劣悪な労働条件の改善に、耳を傾ける気持ちになれなかったのだろう。
 翌6月4日には、マネサール工場で働く約3000人がストライキに突入した。その時の工場で働いているインド労働者の構成は、正規従業員が約900人、訓練生約1500人、契約労働者が約1100人であったという。したがって、多くの労働者がストライキに参加したことになろう。
 これに応じて、さっそく、ナショナル・センターのインド全国労働組合会議(INTUC)とインド労働者連盟(HMS)とが支援をMSEUに向ける。傘下の組合員を動員して、工場の正門で、デモを行ったりして気勢をあげた。
 これがハリヤナ州政府の知るところとなり、同政府は「ストライキ禁止令」発動し、地方裁判所に紛争解決を委ねる。だが、これにより紛争は解決に向かうどころか、紛糾の度合いを増していく。
 今度はグラゴン工場のMUKUが連帯を表明して、ストライキを構えるも、州政府が割って入って2時間のストライキは回避となる。
 その後のマネサール工場は、労働側(MSEU)と使用者側が互いに譲らず、泥沼化していく。会社側は、労働法に定める、登録労働組合に対しての「誠意ある交渉」に応じなかった。そのため、組合側は態度を一層硬化させ、13日間のストライキを行う。 
 そして迎えた6月17日、今度はハリヤナ州政府の労働大臣の立ち会いの下、労使の話し合いがもたれる。これが効を奏して、労使協定が結ばれる。この協約には、解雇者の撤回や、組合結成登録の承認も含まれていた。結局のところ、スズキの思惑に従っての、懐柔のたやすいと思われる「御用組合」はできずじまいであった。マネサール工場においては、インドの既存のナショナル・センターと連携した組合づくりを勧めるMSEUによる組織化が実現した。

 なお、アジアと、その中のインドの主な労働組合ナショナルセンターから、紹介しておこう。

インドの労働組合組織状況について
「国際労働組合総連合(ITUC)加盟組織一覧」より一部を引用させていただきました。
【オセアニア】 10カ国・地域、10組織(旧ICFTU:10、旧WCL:0、旧非加盟:0)、2,012,569人
【アジア】 17カ国・地域、40組織(旧ICFTU:23、旧WCL:6、旧ICFTU・旧WCL統合:1、旧非加盟:10)、30,751,521人
(2013年11月現在 161カ地域、325組織、175,826,032人)

(続く)

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インドインド労働者連盟(HMS) 5,788,822 ICFTU
〃インド全国労働組合会議(INTUC) 8,200,000 ICFTU
〃女性自営労働者連合(SEWA) 1,351,493 ICFTU
日本日本労働組合総連合会(JTUC-RENGO) 6,615,558 ICFTU

(続く)

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♦️810『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機の原因)

2018-07-08 22:19:54 | Weblog

810『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機の原因) 

 韓国にとって1997年~98年経済危機の背景は何だったのでしょうか。まず、輸出が伸び悩むようになりました。韓国では生産構造の高度化に伴って日本との輸出品目構成が似通っていたことがあります。
 労働集約型の産業編成から資本・知識集約型の資本編成への移行が遅れていました。円安が進行するにつれて、製品差別化優位を持たない業種では為替変動の影響をもろに受けました。主要品目である半導体の輸出が世界的な市場の低迷により悪化しました。DRAM(読み書きが自由にできる半導体メモリー)などの市況が悪化しました。為替要因を差し引いた裸の競争力が停滞していたのです。
 一方、東南アジアには中国などの手強い競争相手が台頭してきて、この面からも輸出競争力が低下しました。ASEAN(東南アジア諸国連合)諸国の通貨の減価が進んだために韓国の輸出競争力が落ちていったのです。
 二番目の背景として、金融システム問題があります。①バブル崩壊による不動産市場の過剰投資、供給過剰。不動産バブルは財閥系の海外不動産買い占めにも波及していました。②急激な金融自由化とそれに見合ったディスクロージャー、健全経営規制、セーフティネットなどの制度の未整備が挙げられます。
 ③政治的な圧力や同族経営の足枷で対応が遅れたことがあります。これらが金融機関や企業や野放しの拡大を助長し、そのため為替リスクをヘッジしていない外貨資金や不安定な短期資金の調達を拡大させた。そのために為替変動や外国投資家の資金移動に対して脆弱な資金調達構造をもたらしました。これが三番目の背景、つまり国全体として経常収支赤字のファイナンス問題を深刻化させました。
 これらのうち②は、負債総額や対外資産内容に対する懸念を生み出しました。そしてこれらの奥にあった最も根本的な背景、それは資本主義のシステムに由来する過剰投資が顕在化したということができるでしょう。
 では、財閥はなぜ過剰投資をやめなかったのでしょうか。金融機関はなぜ財閥(ヂェボル)等への過剰投資が不良債権に転化することを予見できなかったのでしようか。たとえば、金融面では韓国政府は部分的にそのことに気が付いていました。1997年初め、金融改革大統領委員会を設置しました。
 同委員会は金融を調査し、中央銀行と金融監督局の改革が必要である、との提言を政府に提出しました。韓国政府はこれに基づき、1997年8月になって、13の金融改革法案を議会に提出しました。なかでも韓国銀行法改正案と金融監督機関設置法案とはそれが中央銀行の監督権限を弱めるものでした。銀行改革法案は11月3日に不成立となりました。」(拙ホームページ「韓国の政治経済社会の歩み」)

(続く)

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♦️809『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機対策の実施、1998)

2018-07-08 22:17:56 | Weblog

809『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機対策の実施、1998)

 明けて1998年の1月1日、金利制限法(金利の上限を規定)を廃止しました。12月18日の大統領選挙で当選したキム・デ・ジュン大統領(第15代)の呼びかけにより、1月15日には「労政使委員会」が発足しました。
 1月13日、IMF(国際通貨基金)のカムドシュ専務理事の「韓国の金融、為替は正常化し、外貨保有高の減少もストップしている」とのメッセージに見られるように、1997年7月頃から始まった通貨危機がひとまず小康状態に入って、それまでの臨界点近くをさまよう状況からひとまず回復しました。
 総じて、韓国においては、経常収支赤字が増すと、見切りをつけた外国資金が資本逃避に走りました。もともと対外債務の中では短期資金が多かったのです。対外債務残高の内訳をGDPで測ると、「その他項目」としての対外借入や証券投資の流入が大半でした。さらに、金融機関の海外現地子会社が変えていた債務が、これらは政府の対外債務統計には計上されませんが、約1200億ドルありました。
 そのような資本流出はウォンの低落を誘い、対外債務負担がまし、脆弱に金融システムは為すすべを知らない。そのため実態経済が悪化し、それでもって海外からの資本流入がさらにやせ細っていく。悪循環の始まりです。この間の韓国の経常収支そのものはさほどではなかったものの、対外信用の低下により金融機関の流動性が低下しました。
 1月28日、国際債権銀行団が韓国内金融機関向け短期債権の繰り延べに合意しました。
翌30日、財政経済院がマーチャント・バンク30行中10行の閉鎖を命令しました。31日には、政府が第一銀行とソウル銀行の二つを国有化しました。
 2月中旬、構造改革関連法案が国会で成立しました。この中には整理解雇制の前倒し導入、財閥系列間相互債務保証の解消等が含まれていました。
 2月17日、IMF理事会が第1回のレビューを実施し、その結果融資が承認されました。4月8日、政府は、国内金融システムの債権、企業の対外債務繰り延べ支援等のための資金を調達するため、グローバル債40億ドルを発行しました。
 5月20日、財政経済院が、50兆ウォン規模の金融システム安定化のための公的資金投入計画を発表しました。同月29日、IMF理事会が第2回のレビューを実施し、その結果融資の継続が承認されました。
 6月18日、金融監督委員会が、市中銀行が中心となって選定した「存続不可能」な55行を公表しました。そして同月29日になった時点で、同委員会として再建不能銀行の処理策を公表しました。
 7月3日、大統領府の企画予算委員会が公企業の民営化策を公表しました。8月28日、IMF理事会が第3回のレビューを実施し、その結果融資が承認されました。
 9月1日、韓国銀行が公定歩合(総限度貸出金利)を年5.0%から3.0%に引き下げるとともに、総限度貸出上限の引き上げ(5.6兆ウォンから7.6兆ウォン)を実視しました。
 9月28日、財政経済院、金融機関の不良債権の買い取り、資本増強及び預金者保護のため、公的資金を9月中21兆ウォン、10-12月に12兆円を投入する計画を発表しました。
 9月30日、韓国銀行がインターバンク・コールレートの誘導目標を年8.0%から7.0%に引き下げる方針であることを発表しました。 
 11月2日、朝興銀行、地方銀行の江原銀行、忠北銀行との合併を表明しました。12月7日、金大中大統領が5大財閥首脳と会談しました。この中で両者は、系列会社数の削減、経営資源を国際競争力を見込める分野に集中すること等を柱とする構造改革を実施することで合意しました。
 12月14日、IMF理事会が第4回のレビューを実施し、その結果融資が承認されました。
 そして迎えた1998年12月31日には、金融監督委員会が、アメリカのニューブリッジ・キャピタルを中心とするコンソーシアムとの間で、98年1月に国有化されていた第一銀行の株式を同コンソーシアムのメンバーに売却することで合意しました。

(続く)

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♦️808『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機対策の実施、1997)

2018-07-08 22:16:04 | Weblog

808『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機対策の実施、1997)

 そして迎えた1997年11月21日、韓国政府はIMF(国際通貨基金)に金融支援を要請しました。11月25日、韓国政府は米国の連邦準備理事会を訪問し、98年に支払わないといけない対外債務の返済額が約650億ドル、これに国内銀行や韓国企業の海外支店の借り分も含めると、約1150億ドルにもなる、ところが韓国中央銀行の外貨準備はこれをまかなえる準備がなく、そのためいつ債務不履行が起きても不思議ではない、と伝えた模様です。米国金融当局はこれに支援を与えることを決め、IMFに支援に乗り出すように伝えました。
 11月23日、IMF(国際通貨基金)が米国政府の意を受けて調査団を韓国へ送りました。12月3日には年次審査報告書と経済再生プログラム(「IMF意向書」とも呼ばれている。)を韓国政府との間で合意しました。その中には、韓国銀行法、金融監督機構の新設に関する法、金融産業の構造改善に関する法などの金融再生の法案の制定を韓国政府に要求し、これらは12月24日にIMFが融資のために合意内容の前倒し実施、労働市場への言及などの条件の追加を発表した頃からようやく沈静化傾向となり、12月29日に国会を通過しました。
 IMF(国際通貨基金)を中心とする国際金融支援(IMFのStand- by Creditの承認日は1997年12月4日)はつぎのようなものでした。
 まず、金融支援として次のような割り当てがなされました。IMFが210億ドル(融資適用期間は3年)、世界銀行が100億ドル、ADB(アジア開発銀行)が40億ドル
であって、これら2国際機関を合わせて142億ドルとの説もあります。
 国別では、日本が100億ドル、米国が50億ドル、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、カナダ、オーストラリアで各12.5億ドル。以下、1997年12月25日支援表明したのはオランダ、スウェーデン、スイス、ベルギー、ニュージーランドであって、合計12.5億ドル。以上を併せると、総額583.5億ドルとなりました。
 この融資のための条件としては、主につぎのようなものでした。
①金融引き締め
・1998年~1999年の経常赤字をGDP(国内総生産)の年1%以内に抑制すること。
・GDP成長率を年3%以下に抑制すること。
・物価上昇率を年5%以下に抑制すること。
・付加価値税の免除枠を大幅に削減すること。
②規制緩和
・外国企業による国内機関の買収・合併の認可
・外国人による株式投資枠の拡大と社債市場の早期完全開放
・輸入多角化品目(日本からの輸入規制)撤廃の前倒し実施
③企業行動規範と企業構造改革の徹底
・企業情報の透明性を確保すること。
・特定企業に対する政府の優遇措置の撤廃
・企業の借り入れ依存体質を改善すること。
・財閥の相互保証制度を改善すること。
④労働市場の流動化推進
⑤外貨準備と金融機関の情報開示(ディスクロージャー)の推進
 以上のうち、委譲プログラムの金融機関と企業の構造改革については、経営の悪化した金融機関の整理、企業の連結バランスシートの作成と相互債務保証(財閥(ヂェボル)の同系列にある企業同士が金融機関から融資を受ける際に相互に債務保証を与え合う行為)の解消を盛り込みました。外貨の流出を組み止めるために韓国政府は、為すすべがありませんでした。外貨不足から金融危機へ、さらに経営危機へと動いていきました。金利は年率30%まで上昇し、株価指数は300まで落ち込み、経済成長率は△5.8%に推移しました。
 中央銀行は介入等により外貨準備高は大きく減少しました。
 1997年12月になって、韓国の外国為替保有高は僅か38億ドルにやせ細り、不渡りに陥り、IMFの融資で息をつなぐことができました。
 株式市場では、株価指数が急落しました。1997年6月をピークに下落していたのですが、1997年末から見ると1996年末から約40%下落しました。
 IMF(国際通貨基金)などによる570億ドル相当の支援が12月5日に決定された後も資本流出とウォンの減価はやまず、1997年12月15日には完全変動相場制へと移行しました。対外債務の借り換え時期を迎え、資金繰りに困る金融機関が続出しました。さらに12月18日には大統領選挙が控えていたが、有力候補のキム・デシュンはIMF経済プログラムを支持することをためらった。このためにウォンは1ドルが1484ウォンまで下落しました。
 1997年12月10日、政府が金融市場安定化策を発表しました。続いて16日には為替相場の変動幅制限を撤廃しました。22日には金利上限の引き上げを実施しました。
 1997年12月下旬となり、国際金融援助で小康状態へ。外貨の流出を組み止めるために韓国政府は、為すすべがなくなりつつあったところで、韓国経済の金融的破綻が面前に迫っていました。
 1997年12月24日、韓国政府はIMFとの間に経済プログラムの加速のための趣意書と覚え書きを結び、IMFは救済資金の前倒し支出を呼びかけました。アメリカの銀行や日本などの銀行も、このころまでに債務者である韓国の銀行、金融機関との間で融資の持続について一時的に同意するところが出てきました。
 これらを受けて、韓国国会は金融改革関連の14法案を可決しました。その中には韓国銀行の独立性強化や金融監督機関の統合等が含まれていました。
 1997年末になると、外資系銀行との間に債務返済の延期の合意が取られました。1998年3月末まで延期するというのが内容です。1997年6月末から98年1月28日までの7か月の間に47.4%も下落したのです。

(続く)

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♦️807『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機、1997.11.21)

2018-07-08 22:14:39 | Weblog

807『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機、1997.11.21)

 1997年に入ると、財閥の経営破綻や円安ドル高で韓国の通貨ウォンが円に対して上がったこともあって、それまでの経済成長が鈍化してくる環境が整ってまいります。
 1997年初めの段階で、韓国は金融問題を解決することの大切さに気がつき金融改革大統領委員会を設置しました。1997年7月7日、韓国銀行が貯蓄預金等の金利自由化を実施しました。この措置は、81年から実施の「4段階金利自由化推進計画」の大4段階としてのものでした。8月1日、韓国銀行は銀行による同一企業グループへの貸出規制を実施しました。同委員会は金融を調査し、中央銀行と金融監督局の改革が必要である、との提言をしました。
 この8月中に、韓国政府は、先に立ち上げた金融改革大統領委員会に基づき、13の金融改革法案を議会に提出しました。なかでも韓国銀行法改正案と金融監督機関設置法案とはそれが中央銀行の監督権限を弱めるものでした。なお、この銀行改革法案は11月3日に不成立となります。
 8月25日、政府が金融市場の安定と対外信任度の向上対策を発表しました。そして迎えた1997年10月初旬、IMF(国際通貨基金)は韓国と「第4条」に基づく年次協議を行い、そこで次の声明文を示しました。
 「韓国の状況は東南アジアと異なり、金融セクターには健全性の問題があるが適切に処置すれば対処できると判断する。リスクはあるもののマクロ経済の基礎条件(経済成長率、物価上昇率、失業率、財政収支、経常収支など)は強固であり、経常収支の赤字幅についてもそれほど心配しなくてもよい水準にまで縮小してきている。対外借り入れについては困難な状況にはあるが、政府当局がこの状況に対して賢明に対処できると確信している。」
 10月13日、政府が証券市場の先進化対策を発表しました。その17日には、外国為替取引の自由化策を発表しました。19日には政府が株式市場の安定化策を、28日には投資信託取引にかかる規制緩和策を、29日には金融市場安定化策をそれぞれ発表しました。10月30日、政府は、金融市場を安定させるため実需要目的以外のドル買いの一時停止を発表しました。
 1997年後半になって、韓国のウォンの急落が始まりました。もっとも兆候はその前からありました。顧みて、アジア通貨の下落の波はタイから始まりました。1997年4月から大量のバーツ売りがあり、7月には管理フロート制に入りました。その後3か月の間に、インドネシアのルピア、マレーシアのリンギ、10月には香港のドルにも金融危機がひろがっていきました。
 そして、10月末になると、韓国に短期化で資金貸しをしてきた米国や日本の銀行など国際金融資本が借り換えに応じなくなりました。かれらの資金の引き上げが始まったのです。
 1997年11月になって、事態が急変しました。韓国の通貨ウォンが11月10日には1ドルが1000ウォン近くまで下落した。17日になると都市銀行の5行が外貨決済不能に陥り、韓国政府(キム・ヨンサム政権)がウォンの防衛をあきらめたのではないかとの憶測が市場に出回り、11月17日から3日間は外国為替取引が中断されました。中央銀行によるウォン買い支えの原資となる使用可能な外貨準備高は、通貨防衛のための介入のため10月末の223億ドルから2週間ばかりの間にさらに減り続けました。
 11月11日、韓国財務省は日本に二国間資金支援を要請しました。また、日本の金融機関が韓国の金融機関への短期融資を継続してくれるよう仲介を頼みました。韓国政府の財政ばかりが多額の対外債務を背負っていたのではなく、あくまで韓国の金融機関が抱える対外債務が支払い不能に陥ることを回避しようとしたものでした。これに対し、米国政府は日本政府が韓国の要請に乗ればIMFに泣きつくことはしないのではないか、と警戒感を示しました。
 11月17日には1ドルが1000ウォンを割り、さらに月末には1ドル1400ウォン程度まで急落しました。12月になるとさらにウォンは急落し、外貨も12月2日時点で60億ドルまで減少、12月23日に1ドルが2000ウォンを下回る事態に陥りました。次に述べるIMF(国際通貨基金)を中心とした緊急金融支援が決定されたのが12月3日ですから、その後もしばらくはウォン下落に歯止めがかからなかったことが窺えます。
 1997年11月中旬に政府は金融市場安定をねらってやむなく外国為替の一日当たり変動幅制限を拡大しました。従来の中心レートから上下2.25%幅を10%に拡大しましたが、制限幅一杯の減価が続きました。
 11月19日には、政府が金融市場の安定と金融産業構造調整のための総合対策をとるつもりであることを発表しました。」(拙ホームページ)

(続く)

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♦️862『自然と人間の歴史・世界篇』インドの2013年食糧安全保障法

2018-07-07 21:21:33 | Weblog

862『自然と人間の歴史・世界篇』インドの2013年食糧安全保障法

 2013年7月3日、インドで貧困撲滅のための画期的な法律とされる「2013年食糧安全保障法」の施行が閣議で決まりました。下院に引き続き上院で可決、大統領の署名を経て成立したものです。
 この法律は、全人口の3分の2を占める貧困層約8億人に対して適用されます。米なら1キロ当たり3ルピー((1ルピー=約1.7円なので、約4.7円)、小麦なら同2ルピー、雑穀同1ルピーの安価で毎月5キログラム、コアース・グレインと呼ばれるトウモロコシ類なら同1ルピーという補助金付きの格安価格で、1人当たり月間5キロまで購入できることになります。
 銘柄にもよりますが、インドにおけるコメの通常小売価格はだいたい1キロ18~25ルピー前後なので、おおよそ市価の6分の1から8分の1程度の値段で買える理屈になります。 
 しかし、この法律により政府の新たな財政負担は、年間で1兆3000億ルピー程度にも膨らむことが予想されています。インドの国土は広く、政府は穀物の調達、輸送、保管、分配などを行うには、多くの課題をクリアしなければなりません。
 とはいえ、州の中には、この国民が安価で十分な食糧を得る権利を保障する「国家食糧安全保障法(NFSA)の導入することをためらう場合もあった。それが、ようやく2016年11月、国会での可決から約3年を経て、インド全土で施行された。

(続く)

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♦️818『自然と人間の歴史・世界篇』インドの政治(1998~2008)

2018-07-07 21:12:45 | Weblog

808『自然と人間の歴史・世界篇』インドの政治(1998~2008)

 1998年から2004年まで、インド人民党(BJP)のバジパイ政権が政治を担いました。
 1999年4月、人民党政府は国会で不信任決議により倒壊し、5月に人民党を中心とする政界再編成があり、9-10月に第13回総選挙が実施されました。人民党は、国民民主連合(NDA:National Democratic Alliance)を発足させる形で内閣を構成しました。
 その後は、2004年4-5月、第14回の下院総選挙があり、農村や貧困層の支持を得たインド国民会議派と民主勢力が勝利しました。人民党は僅差で敗れました。5月15日には、ラーオ内閣当時の大蔵大臣であったマンモーハン・シングが連邦首相になりました。
 同月22日、国民会議派を母体とし、民主勢力の結集を標榜する統一進歩連合(UPA,United Progressive Alliance)が発足しました。インド共産党は、新政権に対し閣外での協力を約束しました。インド共産党(M)も参加した「政策調整委員会」を設けました。なお、インド共産党(M)とは、1964年10-11月にインド共産党から分離独立した政党で、反封建・半帝国主義・反独占の人民民主主義革命を指向していて、その時点で平和革命路線をとっていたインド共産党と決別していました。その後、現実路線に傾いて来ていました。
 5月27日、この連立政権は共同最小限綱領(CMP,common Minimum Peogramme)を採択しました。
 2008年12月現在の政治形態は、つぎのようなものです。
政体としては、共和制。
元首は、プラティバ・デヴィシン・パティル大統領(2007年7月就任で任期は5年)
議会のあり方は、上院・州会議(ラジヤー・サバー)と、下院・人民会議(コク・ハバー)の二院制です。前者は245人の定数で任期は6年、後者の定数は545人で、任期は5人です。首相はマンモハン・シン。

(続く)

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♦️721『自然と人間の歴史・世界篇』インドの経済改革(1991~1995)

2018-07-07 20:58:47 | Weblog

721『自然と人間の歴史・世界篇』インドの経済改革(1991~1995)

 経済面では、1991年6月には、インドの外貨準備高は12億ドルに減ってしまいました。これはインドの輸入の約1ヶ月分ということで、国際収支の危機が間近に迫る事態でした。
 これに対し、同月に国民会議派のナラシンハ・ラオ(Narasimha Rao)の政権はIMF(国際通貨基金)や世界銀行に対し緊急の融資を頼み、同時にマクロ経済の安定をはかる政策に打って出ました。
 それとともに、この政権が打ち出したのが、1991年に導入された経済自由化はです。政権では、IMFや世界銀行からの構造改革プログラムを受け入れ、大蔵大臣に器用されたマンモハン・シンを中心に独立以来最大規模の政策転換を行っていきました。
 それは、為替自由化によるルピー通貨の変動相場制移行や産業と貿易の規制緩和をすることが中心となりましたが、主な内容は次のとおりでした。
①規制緩和
②貿易自由化
③外資の積極導入
 1991年末には、インドはアジアで最大規模の債務国へと転落してしまいました。とはいえ、これらの政策の効果が表れるには多くの時間を要しませんでした。その後、インドは投資主導の経済成長へと転換し、1994年度から1996年度まで7%を上回る高成長を達成しました。
 インドがWTO(世界貿易機関)に加盟したのは1995年1月1日の設立時のときです。但し、GATT(関税と貿易に関する一般協定)へ加盟は1948年7月8日のことでした。

(続く)

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♦️706『自然と人間の歴史・世界篇』インドのボパール化学工場爆発(1984)

2018-07-07 20:52:53 | Weblog

706『自然と人間の歴史・世界篇』インドのボパール化学工場爆発(1984)

 1984年12月2日、インドのボパールにあるアメリカ系多国籍企業706*ユニオンカーバイド社の化学工場が爆発し、有毒ガスが流出した。この事故で数千人が亡くなり、その後2万人以上の人びとが死亡したとも伝えられた。しかし、実際の被害はそれどころではなかったようで、一説には、あれやこれやの被災者は35万人とも推定されるところだ。
 その工場は農薬工場であった。殺虫剤成分を生産する際に使用される原料としての、メチルイソシアネート(イソシアン酸メチル)という「反応中間体」の入ったタンクがしつらえてあった。ところが、そのタンクに水が混入したことから発熱反応が始まり、それが広がるにつれタンク内の圧力が高まり、ついには爆発が起きて、それで発生した有毒ガスが工場の外へと流出していったのだという。
 参考までに、やや専門的な説明については、例えば、次のようにいわれる。

 「MIC貯蔵タンクと配管で接続された設備の洗浄を行ったとき、MICタンクとの間の弁が腐食していたため、タンク内に洗浄水と鉄錆が入り込んだ。鉄錆が触媒となり、MICの加水分解が急激に進行して二酸化炭素が発生し、同時にタンク内部の温度が上昇したため、MICの蒸気圧により内圧が上昇し、気化したMICが噴出した。噴出したMICは毒性が極めて高く、工場周辺の住民など4000名近くが死亡し、多くの人々が後遺症で苦しんでいる。」(浜田哲夫「化学物質」に起因する大事故災害の防止と化学物質管理士の役割:「交易社団法人日本技術士会「技術士PE」2018.2に所収の論文)

 この事故のもつ国際的な意味について、ジョゼフ・E・スティグリッツ氏は次のように述べています。
  「インド政府は経営陣を基礎しようとしたが、ユニオンカーバイドはアメリカ企業であり、アメリカは協力をこばんだ。
 CEOのウォレン・アンダーソンを含む経営陣は、インドの裁判所に告発された。彼等が裁判所に現れなかったので、インドは身柄の引き渡しをせまった。結局、2004年9月、アメリカ国務省は説明もなしに引き渡し要請をこばんだ。」(ジョゼフ・E・スティグリッツ著・○井浩一訳「世界に格差をばらまいたグローバリズム」徳間書店、2006)

(続く)

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♦️649『自然と人間の歴史・世界篇』第三次のインド・パキスタン紛争(1971)

2018-07-06 21:42:51 | Weblog

649『自然と人間の歴史・世界篇』第三次のインド・パキスタン紛争(1971)

 1971年12月、第三次のインド・パキスタン紛争が起きました。アメリカはパキスタンを支持しました。
 これより先、1970年のパキスタンの総選挙で東パキスタンの独立を主張するアワミ同盟が躍進し、国民議会の過半数を占めるに至りました。
 西パキスタンは東パキスタンに軍を派遣し、この動きを牽制しましたが、バングラ人の勢力との間で武力衝突となり、東パキスタンは内乱状態に陥りました。インドは、1971年3月から12月まで展開されたバングラデシュ独立戦争の支援に乗り出していきます。
では、なぜ当時の東パキスタンで内戦が起こり、そしてインドは何を理由に戦争へと駆り立てられていったのでしょうか。

「そもそも、これは独立の仕方そのものから発生した矛盾である。ムスリムが多数派であることを共通点として、東西パキスタンからなるパキスタンは成立したが、言語・民俗的には、東バキスタンではベンガル語を共通に使用し、西パキスタンでは、ウルドゥー語やパンジャービー語が共通に使用されていた。
 ベンガル系の東パキスタン人は、パンジャーブ系の西パキスタン人に差別的扱いを受けているとして独立を求め、その運動をインドが助けていることは公然の秘密であった。内戦が激しくなり、数百万の非難民が東パキスタン領からインドへと逃れてくると、インドは非難民受入れが困難であることを理由に、1971年12月3日、東パキスタン領に進軍し、第三次印パ戦争が始まった。」(辛島昇編「南アジア史」山川出版社、2004、450~451ページ)

 1971年12月、印度軍が東パキスタンの内戦に介入しました。アメリカは第7艦隊の空母をインド洋に派遣して、このインドの動きを牽制しましたが、インドを停戦に追い込むことはできませんでした。
 結局、パキスタン政府はインドに降伏しました。これにより東パキスタンの地域が「バングラデシュ」として独立しました。インドとの間に友好協力平和条約(Treaty of Friendship,Cooperation and Peace)を結びました。パキスタンは、これにより国土の約2割、人口の約6割を失いました。

(続く)

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♦️648『自然と人間の歴史・世界篇』インドの食糧危機(1960年代)

2018-07-05 22:23:01 | Weblog

648『自然と人間の歴史・世界篇』インドの食糧危機(1960年代)

 経済学者の宮崎義一は、インドに飢餓の時代があったことを、こう記しておられる。
 「政治の昂奮からさめたとき、"第三世界〟をおそってきたのは、"世紀の飢餓〟である。とくに、インドでは現に食糧難が深刻で、「2年つづきの干ばつによって1億人が飢餓にさらされている」という。インドは、独立後3次にわたる5カ年計画で430億ドルの投資を行ったにもかかわらず、いまだに人々は1日300グラムの穀物の配給のために長い行列をし、数百万の農業労働者は2日に一度チャパティとよばれる薄くのばしたパンを口に入れるだけである。
 とくに1966年、ビハール州では史上最悪の干ばつに見舞われ、村全体が飢餓線上をさまよい地獄さながらの悲惨な状態にある。それが契機となって、1966年はじめ頃からインド語で"バンタ〟といわれる抗議集会、食糧デモ、一斉閉店、ストライキや暴動が各地で頻発し、6月~8月にはその頂点に達した。そしてごく最近(1967年4月18日)、ついにインドのビハール州で、独立以来はじめての"飢餓宣言〟が出た。」(宮崎義一「現代の資本主義」岩波新書、1967、172ページ)

(続く)

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♦️425『自然と人間の歴史・世界篇』ガンディーの政教分離

2018-07-05 22:11:27 | Weblog

425『自然と人間の歴史・世界篇』ガンディーの政教分離

 インド独立の指導者ガンディーは、独立インドの宗教に対する態度について、はっきりした政教分離をもっていて、また自らが奉じるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の融和を説いていました。彼は、こう言っている。
 「独立インドは、ヒンドゥー教徒の統治になりません。多数派の宗派や集団ではなく、宗教とは無関係に全国民から選ばれた代表者たちによる、インド人の統治になります。」(1942年8月9日付け「ハリジャン紙」に掲載されました。マハート・ガンディー著・鳥居千代香訳「ガンディーの言葉」岩波ジュニア新書、2011、178ページ)に所収。
 また、いう。
「国家は例外なく非宗教的でなければなりません。そうすれば、すべての国民は、法律のもとで平等になります。しかし、どの人もコモンローを破らないかぎり、どんな邪魔や妨害も受けることなく、自由に宗教をもとめることができます。
 アッラーでもなく、フダーでもなく、ゴッドでもなく、真理と言う名で呼びます。
 私には真理のことが神であり、真理は私たちのどんな計画より重要です。すべての真理は、その偉大な力、真理のみこころのうちに具体的にあらわれます。
 私は子供のときから、真理は近づくことのできないもの、到達できないものと教えられました。また、あるすばらしいイギリス人には、神は人間の理解の及ばぬものと信じるようにと教わりました。しかし、神は理解できるものなのです。
 ただし、それは私たち人間の、限りある知力が許す範囲内においてですが。」(1947年4月20日付け「ハリジャン紙」に掲載されました。マハート・ガンディー著・鳥居千代香訳「ガンディーの言葉」岩波ジュニア新書、2011、178ページ)に所収。
 さらに、こう加える。
 「神は、私たちのやり方ではなく、神自身のやり方で私たちの祈りに応えてくれます。神は人間とは違った方法をとられるので、私たちには計り知ることができません。祈りの前提には信仰があります。祈りは無駄にはなりません。他の行動と同じです。私たちの目に見える形とはかぎりませんが、実を結びます。心からの祈りは、行動などよりはるかに強い力を持つのです。」(1946年6月29日付け「ハリジャン紙」に掲載されました。マハート・ガンディー著・鳥居千代香訳「ガンディーの言葉」岩波ジュニア新書、2011、178ページ)に所収。

(続く)

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♦️812『自然と人間の歴史世界篇』アメリカの金融資本(1995~1999)

2018-07-05 14:44:34 | Weblog

812『自然と人間の歴史世界篇』アメリカの金融資本(1995~1999)

 経済学者の伊東光晴氏は、1995年のアメリカの金融の姿に関連づけて、こう述べておられる。
 「1995年6月の先進国首脳会議(ハリファスク・サミット)において、カナダの外務大臣ウェレットが議案の一つとして提案しようとした外国為替取引税は、1978年に経済学者のジェイムズ・トービンが提案したもので、世界の為替取引市場における投機抑制のため取引額の0.02%を課税しようとするものでした。
これを国連ベースで浅く広く課税し、税収を国連活動に使うという案であり、フランスのミッテラン大統領が賛成しましたが、それ以上の話にはなりませんでした。
この税の「味噌」は、「投機資金はわずかな証拠金で多額の資金を動かすために、わずかな税率をかけられても、その動きが抑えられ、リアルな設備投資そのほかを行おうという長期資金は、この僅かな税率であったならば、その動きは抑えられることがない、という考えである」と。(伊東光晴「「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)
 これに一番反対の気持ちを抱いたのは、5大投資銀行を抱え、ITバブル崩壊(IT関連株の暴落)の後は金融業に産業の軸足・ウエイトを移してきていたアメリカそのものであった。
 これより先、1992年のアメリカの貿易赤字の半分以上の494億ドルが日本への赤字で占められていた。日本からの輸入の増加で国内の製造業、特に自動車と自動車部品、半導体は大いなる苦戦を強いられていた。
 1993年4月、1月の就任から3か月後のクリントン大統領は、ワシントンで日本の宮沢首相と米日首脳会談を行い、日米経済摩擦を巡る問題で包括協議機関の設置を合意した。会議を終わった両首脳は、共同記者会見に臨んだ。宮沢首相がアメリカからの「脅し」(threat)があったことを窺わせる会見をしたのに対し、クリントンは次の4つのことを日本に要求する腹づもりであることを明らかにした。
 ①として、円高。②として、日本の景気刺激策。③として、アメリカの製造業の生産性の大幅上昇が必要。④として、分野別の交渉をすること。
 1995年4月19日、ドルの対円相場が1ドル=79円75銭を付け、日本からはこれ以上の円高は困る、米国債を売らざるを得なくなる、と泣きつかれる。
 また、国内の産業振興政策としてのドル安誘導にもかかわらずアメリカの自動車産業などにさほどの活性化が見られなくなっていたことなどがあり、それまでの政府による製造業立て直しの試みには暗雲が垂れ込めていた。
 このようなとき、1995年投資銀行の一つゴールドマン・サックス会長を歴任したルービンが、第二期クリントン政権の財務長官に迎えられる。彼はこの後1999年に任期を終えるまで、市場をドル高に誘導し、そのことで世界中の資金がアメリカに集まり、アメリカの投資銀行はそれらの多国籍資金を元手に多様な金融商品に仕立て上げ、資金を提供してくれた全世界に売りさばく、ということをしていった。
 当時の新聞記事から、紹介しておこう。
○The Wall Street Journal,April26,1995
”G-7 Officials Back Reversal Of Dollar's Fall
”WASHINGTON-Top economic officials from the Group of Seven in deistial nation declared that an ordely reversal if the dolllars decline and the yenns rise is desiraable because exchange-market rates have gone beyand the levels justified by underlying economic conditions. ”
 ここで「an ordely reversal」というのは、「秩序ある反転」ということだ。
 もう一つ、取り上げよう。
○The Washington Post,February 8,1997
”The Rubin Signals Shift to Club Dollar's Rise After months of applauding as the dollar soared in value against foreigh currences,Treasury Secretary Robert E.Rubin yesterday
signaled a shift in U.S policy by suggesting that Washington wants to brake rhe dollar's ascent.(中略)
The dollar tumbled in response to Rubin's remarks. That is a welcome
development for many manufacturers (中略)especially in rhe auto industry (中略)who have voiced mounting dismay over over the dollar's
strength,because a higher dollar makes U.S.-made goods more expensive
compared with foreign-made products.
On the other hand,a lower dollar could raise prices of imported goods for cussumers and make overseas travel more ckstly for America. ”

 こうしたアメリカ政府とアメリカの金融資本によるドル高誘導は世界的な貨幣資本過剰の中で業績を上げていく。
 1996年8月には対円でのドル高が軌道にのり、96年末にはそのピッチが早まりました。そして1997年はじめになると、1ドルが120円を突破する。
 1997年2月8日、ベルリンで開催された先進国財務大臣・中央銀行総裁会議において、ルービン財務長官が急速なドル高の進行に警戒を表明、しかしアメリカ金融業とアメリカ財政に利点の多いドル高そのものについては維持する方針を貫く。
 そのことにより、アメリカ経済は世紀末の活況を取り戻し、その熱狂の渦の中でニューヨークのダウ平均株価は1999年3月には10000ドルを突破した。

(続く)

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♦️607『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカとキューバ(1961)

2018-07-05 14:24:51 | Weblog

607『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカとキューバ(1961)

 1961年、ケネディ大統領(民主党)が発足すると、彼は前任者のアイゼンハワーと統合参謀本部との合作であるキューバ政権転覆計画を引き継いで、ビックス湾での1500人のキューバ人亡命者による侵攻部隊を、グアテマラで極秘裏に訓練するようCIA(中央情報局)に命じた。独立キューバの国家転覆を狙う、かれら武装キューバ人の侵攻を助け、かれらとともにアメリカ軍が空から海から支援する準備を固めていた
 ところが、キューバ軍の前に亡命キューバ人侵攻部隊はあっけなく敗退し、アメリカ軍に直接的な軍事支援を求めるに至る。
 そして迎えた4月18日、ケネディと副大統領のョンソン、そして国務長官のテセーィーン・ラスクは、統合参謀本部の軍人たちやCIAを呼んで対策会議をもつ。
 そこで、軍関係者は強引にキューバ派兵を主張した。だが、ケネディは「空爆を実施すればアメリカの民主国家としての対外イメージに傷がつき、またソ連の西ドイツ攻撃を招きかねない」と考え、かれらの破天荒な要求を受け入れなかった。
 このようにして、キューバ侵攻を企てた側は、最終的に114が死亡、1189人が捕虜となって、さしもの計画も水泡に帰したのであった。ケネディは、この計画の失敗を認めざるをえなかったものの、共産主義勢力との戦いに邁進することを主張してはばからなかった。今日では、キューバ危機が起こる前に、このような下地が形成されていたことを指摘する歴史家は少ない。

(続く)

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♦️204『自然と人間の歴史・世界篇』資本の本源的蓄積(イギリス)

2018-07-05 09:43:10 | Weblog

204『自然と人間の歴史・世界篇』資本の本源的蓄積(イギリス)

 資本制(資本主義的生産様式)にいたるには、マルクスによって「本源的蓄積」となづけられる前段の歴史的過程があった。それは、封建制の中で培われていった。その創造劇だが、期間でいうと、数世紀にも跨る。ここではまず、イギリスを舞台にそのことがどういう段階を遂げていったかを俯瞰したい。
 まず封建社会の経済構造の中核をなすものは農民であって、14世紀終わり頃のイギリス農村での彼らは、農奴制から最終的な離脱の時期を迎えていた。15世紀に入ると、イギリス農村人口の大多数は自由な自由農民(「独立自由農民」という)に成り代わっていた。もっとも、社会の上部構造としては封建領主の権力があり、その下に家臣団がおり、さらにその下に家臣団の数に相応の農民たちがいて、上にいる非労働階級を支えていたのである。
 労働者という階級(彼らは「プロレタリアート」とも言い慣わされる)の創出を引き起こす農村変革の序曲は、15世紀の最後の3分の1期及び16世紀の最初の20~30年にかてけ起こった。一つは、15世紀の60~70年代から16世紀初めにかけて封建家臣団の中からこぼれ落ちるものたちが出てくる。これを、「封建家臣団の解体」と呼ぶ。これを促したのは、絶対権力の確立を目指す王権であった。
 二つは、羊毛マニュファクチュア(工場制手工業)の台頭により、これを営む封建貴族たちが農民の共同地を奪っていく。その背景には、フランドル地方を中心とする毛織物工業の繁栄による羊毛価格の騰貴があった。これに刺激された地主(ランドロード)たちが、王権や議会と頑強に対立して、それぞれの農地に領主と並ぶ封建的権利を有していた農民から暴力的にそれらの土地を奪い、また共同地を橫奪することにも血道をあげるのであった。後者の性格については、農民たちの養う家畜の放牧場であるとともに、彼らに燃料たる薪や泥炭などをも提供したものだ。
 この頃のイギリスに、こんな逸話が伝わる。政治家であり、また文筆家であったトーマス・モア(モーア)(1478~1535、後に王朝の高級官吏となるも、ヘンリ8世の離婚問題に端を発し、ローマ教皇側に配慮し王に従わなかった罪で死刑に処せられる)は、この模様をみて、著書の中で「イギリスの羊です。以前は大変おとなしい、小食の動物だったそうですが、この頃では、なんでも途方もない大食いで、そのうえ荒々しくなったそうで、そのため人間さえもさかんに喰い殺しているとのことです」(トーマス・モア著、平井正穂訳「ユートピア」岩波文庫、1956)と比喩するのであった。その後で、モアはこう続ける。
 「おかげで、国内いたるところの田地も家屋も都会も、みな喰い潰されて、見るもむざんな荒廃ぶりです。もし国内のどこかで非常に良質の、したがって高価な羊毛がとれるというところがありますと、代々の祖先や前任者の懐にはいっていた年収や所得では満足できず、また悠々と安楽な生活を送ることにも満足できない。
 その土地の貴族や紳士や、その上自他ともに許した聖職者である修道院長までが、国家の為になるどころか、とんでもない大きな害悪を及ぼすのもかまわないで、百姓たちの耕作地をとりあげてしまい、牧場としてすっかり囲ってしまうからです。」(同)
 こうした「牧羊囲い込み運動」は、もちろんのこと「美しくもめずらしい物語」などではなく、イギリスにおいて、16世紀になっても延々と続く。それというのも、ヘンリー7世による1489年の条例以来ほぼ150年に及ぶこ囲い込み禁止令の発布も、この動きの前では無力にされていったのだから。
 二つ目の過程は、16世紀における宗教改革からは、イギリスにおける旧教会領(土地)の相当部分が没収されていく。そこに居住していた者(いわゆる「世襲的小作人」)たちは、かかる土地から追い出され、無産労働大衆(プロレタリアート)の中に投げ出される。旧教会領は、王の寵臣や有力貴族、投機的な生活をあわせもつ借地農業者や都市ブルジョアジーの面々であった。さらに、教会の10分の1税の分配にあづかっていた貧しい農民たちも、かかる土地収奪の過程で蹴散らされ、はじき出されていった。
 こうした事態にもかかわらず、17世紀の最後の数十年間にはまだ、独立自営農民の数は、彼らに置き換わった借地農業者の数を少し上まわっていたのではないか。クロムウェルがその権力掌握に当たって最大の拠り所にしていたのは、その独立自営農民であったし、農村にみられた賃金労働者の中にも、共同地の共有者の地位を保ち続ける者も相当数いたのではないか。
 だが、こうしたイギリス農村の土地所有にみるまだら模様も、18世紀の最後の数十年間に、農村に残っていた共有地のほぼ全体が奪われていく。これに力のあったのが、名誉革命によるスチュアート王朝復興のさいの、法律による封建的な土地所有制度の廃止であった。国有地になった土地の相当部分は、ウィリアム3世と彼に従う地主や資本家たちが牛耳るものとなっていく。
 これら両者を関連づけていうならば、彼らは国有地を合法的に横領するとともに、その同じ国家権力によって、古代ゲルマン的な土地制度に淵源をもつであろう共同地をも没収することに成功したのである。すべからくこの過程は、一方において農民や農村部民を工業プロレタりアートとして土地から遊離するとともに、他方では資本借地農場とか商人借地農場とと呼ばれる大借地農場を展開させるのである、

(続く)

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