♦️210『自然と人間の歴史・世界篇』資本主義的再生産方式

2018-07-05 09:39:19 | Weblog

210『自然と人間の歴史・世界篇』資本主義的再生産方式

 マルクスによる資本主義の再生産表式というものがあって、「資本主義というのはどんなものか」と問われた時、これを相手に示すだけで一応の理解を得てもらえるだろう。その理屈は、次の通りだ。
 まずは、社会の総生産物は、極々大まかには二つの部類に分かれる。それは、第Ⅰ部門としての、Ⅰ:生産手段生産部門、すなわち生産的消費に入るべき、または入りうる形態をもつ諸商品の生産部門と、第Ⅱ部門としての、Ⅱ:消費手段生産部門、すなわち資本家階級と労働者階級の個人的消費に入る形態をもつ諸商品を生産する部門とに集約される。
 ここで可変資本とは、価値から見れば、労賃の総額で、素材から見れば、この資本価値によって運動させられる「生きた労働」からなりたっている。
 また、不変資本とは、生産に充用されるいっさいの生産手段の価値、具体的には、固定資本(機械、労働用具、建物、役畜等々)と流動不変資本(原料、部品、半製品など)に分かれる。ここでの固定資本の価値は、1年限りで全部が消耗してしまうものと仮定している。真実なり本質なりを突き止めるには、科学的思考においては、しばしば現実の有り様を単純化してモデル化を行う。
 ここで単純再生産というのは、社会的総生産において蓄積がない場合を想定するものだ。。期間は1年としよう。表式は労働価値説の上に成り立っていて、表式の単位は価値(社会的労働単位)である。生産で生み出された剰余分はm(剰余価値)プラスv(可変資本)となっている。
 同じことながら、資本家が労働者を雇って得た利潤は、資本家の取り分mと労働者の賃金に充てられるvとに分かれる。また、資本家が得た生産の剰余分は資本家個人の消費に回る分と、再投資される分とに分かれる。それから、両者の比としての剰余価値率m/vを100%と仮定しよう。加えるに、cは不変資本、言い換えると「死んだ労働」ということになります。
 ここで奢侈品については、ほぼ資本家や地主などの富裕層に限定された消費手段であって、賃金財ではないだろうから、マルクスは、後に、第Ⅱ部門としての消費手段生産の亜部類として、考察するようになっていく。この観点から表式を書き直したのがマルクス後の経済学者カレツキで、彼は資本家向けの消費手段生産部門Ⅱを賃金財生産部門Ⅲと区別した。
(社会的総資本が単純再生産となっている場合におけるその再生産の仕組み)
 Ⅰ 1年間の生産手段の生産
   資本の段階・・・・・・・・4000c+1000v=5000
商品生産物の段階・・・・・4000c+1000v+1000m=6000:(Ⅰ式)

Ⅱ 1年間の消費手段の生産
   資本の段階・・・・・・・2000c+500v=2500
商品生産物の段階・・・・2000c+500v+500m=3000:(Ⅱ式)
 まず、このⅡ式において、第Ⅱ部門の労働者の賃金(可変資本500v)と資本家の収入(剰余価値500m)は、この部類の生産物である消費手段に支出されなければならない。これにより第Ⅱ部門の消費手段2000と交換されることになり、かれらの消費によって消えるだろう。
 次に、第Ⅰ部門の剰余価値1000mと労賃1000vも、第Ⅱ部門が生産した消費手段に支出されなければならない。この消費手段は、第Ⅱ部門の生産物価値3000のうち2000だけの分から購入されえる。これと交換するべく、第2部門は1000mプラス労賃1000vイコール2000だけの生産手段を第Ⅰ部門の6000Cのうちから調達することになるだろう。
 さらに、第Ⅰ部門の6000Cのうち、4000Cは第Ⅰ部門のみで使う生産手段ということだから、同部門の内部で消耗された不変資本の補充(拡大ではなく)に使用されねばなるまい。その交換は、第Ⅰ部門の資本家相互のあいだで行われるだろう。
 以上の三大取引の結果、この種の社会的総生産のバランス式は次の二つの式に書き表すことができる。

4000c+1000v+1000m=Ⅰ4000c+Ⅱ2000c:(詳細Ⅰ式)
2000c+500v+500m=Ⅰ(1000v+1000m)+Ⅱ(500v+500m):(詳細Ⅱ式)
 なお、単純再生産のもう少し詳しい解説については、色々文献があろうが、ここでは、さしあたり、宮本義男氏の『資本論入門(上中下)』紀伊国屋新書、1967年刊行のうち、中巻を推奨したい。

(社会的総資本が拡大再生産となっている場合におけるその再生産の仕組み)
 Ⅰ 1年間の生産手段の生産(出発式)
   資本の段階・・・・・・・・4000c+1000v=5000
商品生産物の段階・・・・・4000c+1000v+1000m=6000:(Ⅰ式)

Ⅱ 1年間の消費手段の生産(出発式)
   資本の段階・・・・・・・1500c+750v=2250
商品生産物の段階・・・・1500c+750v+750m=3000:(Ⅱ式)

 より詳しくは、次のとおりとなるだろう。
商品生産物の段階・・・・・【4000c+1000v+500m】+400m(c)+1000m(v)=6000:(Ⅰ式)

商品生産物の段階・・・・・【1500c+750v+600m】+100m(c)+50m(v)=3000:(Ⅱ式)

 ただし、【】内は単純再生産の運動法則が当てはまっている部分だ。蓄積向けの500mは原資本の有機的構成である4:1を受けて、400cと100vとに分割されている。
 第Ⅰ部門の100vは、第Ⅱ部門の消費手段と交換されます。第Ⅰ部門の100vと交換される第Ⅱ部門の消費手段だが、第Ⅱ部門の750m分の剰余価値から与えられる。これで、第Ⅱ部門は第Ⅱ部門の剰余価値から100m分だけ生産手段を入手することが可能となる。
 あわせて、第Ⅱ部門の750mー100m=650mの中から、第Ⅱ部門の50vが割り振られることになるだろう。それは、第Ⅱ部門における追加可変資本を示している。以上により、第Ⅱ部門の剰余価値は600mとなるだろう。
 第Ⅱ部門の資本家は、この追加可変資本を賃金として同部門の追加労働者に支払う。その追加労働者は同じ賃金を得て、第Ⅱ部門の資本家からその分の消費手段を購入する。その結果、追加可変資本の第Ⅱ部門50m(v)分は、再び第Ⅱ部門の資本家の手に環流している。
 以上の「拡大された規模での再生産のための出発表式」における社会的取引が終了したときには、社会的総生産は次のようになっている。出発年度の総生産の全体(Ⅰ部門と第Ⅱ部門の生産物の合計)9000より800価値分だけ増加した9800になっている。

商品生産物の段階・・・・・4400c+1100v+1100m=6600:(Ⅰ式の第一次の発展式)
商品生産物の段階・・・・・1600c+800v+800m=3200:(Ⅱ式の第一次の発展式)
 これが、第二年度目の蓄積の出発点になる。
 これにみられるようなマルクスが考案した再生産方式は、当時としては、随分と斬新なものであったろう。それというのも、「経済学の父」とよばれるアダム・スミスの経済学の段階では、ケネー以来の農業を全産業の出発点とする再生産モデルからの脱皮は、まだなされていなかった。 
 また、スミスの流動資本の概念は曖昧であった。マルクスは、これを批判し、生産資本の一部としての流動資本と商品資本とを区別する。
 さらに、スミスにおいては、明らかになっていなかった固定資本や原材料の価値を、この再生産方式で明確に商品価格の構成部分として位置づけるのに成功する。
 こうした工夫により、マルクスは、ケネーの経済表を、商品一般の次元で再現してみせた。この意味で、スミスはケネーの経済表のマルクス的発展としての、上記の再生産方式への発展を媒介する役割を果たしたのだ。

(続く)

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♦️822『自然と人間の歴史・世界篇』2001.9.11はなぜ起きたのか

2018-07-04 22:24:41 | Weblog

822『自然と人間の歴史・世界篇』2001.9.11はなぜ起きたのか

 オバマ米大統領は、後に、2001年9月11日の米同時テロ事件の首謀者で国際テロ組織「アルカイダ」の指導者のオサマ・ビン・ラディン容疑者を米軍が殺害した、と発表した。
 ここに「ラディン」とは家の名、それから「ビン」は息子の意味であるからして、全体として「ラディン家の息子オサマ」といったところか。大統領による言だけに、「彼はアメリカに殺害された」と信用する向きが多かろう。
 とはいえ、「アルカイダ」が同テロに直接にかかわっていたかどうかは、FBI(米連邦捜査局)のそれまでの捜査では、なんら確かめられていない。つまり、現在(2018年春)にいたるまで事の真相は霧に包まれたままなのだ。
 そのアルカイダのオサマ・ビン・ラディンなる人が、このテロ事件の関連で国際社会にクローズアップされたのは、同テロ直後の「アルジャジーラ」の報道を通じてであった。 この時の独占映像の中で、オサマはこういっている。
 「ブッシュは自らの十字架を背負い、闘いの先頭に立っている。ブッシュを支持する全ての国は、イスラム教に対する罪を犯しているのだ」と述べていた。
 かかるラディンの声明を伝えた「アルジャジーラ」は、1996年に放映を開始した。「アラブのCNN」とも呼ばれる放送局だ。特定の国家に属さない、したがって権力者が内外に知られたくないことでも放送するといわれる、アラブ世界には珍しい独立系テレビ放送局で、英語とアラビア語で放映している。

(続く)

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♦️821『自然と人間の歴史・世界篇』2001.9.11アメリカへのテロ攻撃と、それへの反撃

2018-07-04 22:23:26 | Weblog

821『自然と人間の歴史・世界篇』2001.9.11アメリカへのテロ攻撃と、それへの反撃

 アメリカ時間の2001年9月11日の午前、アメリカは同時多発テロ事件を受けた。
午前8時46分、アメリカン航空11便は、乗客・乗員を乗せていたのが、世界貿易センタービル(ツインタワー北棟の第1ビル)に突っ込む。その17分後、ユナイテッド航空174便が南棟(第2ビル)に突っ込む。このため、南棟は9時59分に、北棟は10時28分に崩れ落ちる。
 一方、ワシントンD.Cへ戻ったアメリカン航空77便があった。これは、午前9時38分、アーリントンにある国防総省本庁舎に激突する。この建物は、10時15分までに1~4階までがほぼ全壊する。
 これを受けたアメリカの共和党ブッシュ政権の対応は、迅速だった。軍事的な報復をしようというのである。そして、戦争を仕掛けられたとして、個別的自衛権を発動する決意を固めた。注目すべきは、相手を早々「国際テロ組織」と断定したことだ。
 そればかりではない。アメリカの影響が及んでいる北大西洋条約機構(NATO)はといえば、アメリカとの同盟関係から集団的自衛権の範疇でこれに加わることにした。
 そして迎えた2001年10月、アメリカを中心とする、いわゆる「有志連合」は、当時タリバン勢力の支配下にあったアフガニスタンに対する攻撃を開始する。
 驚くべきは、この相手の仕業だという証拠が示されないままに、トントン拍子に事が運んでいったことだ。まさに、「敵が誰かはわかっている、やられたらやり返す」というのに尽きよう。これを行うことに対するアメリカ国内の支持は、圧倒的なものであったことを付け加えておきたい。
 後のことだが、ブッシュの次に大統領に2009年1月に就任した民主党のバラック・オバマも、アフガニスタン戦争を「必要な戦争」であると強調し、この同戦争の重要性を確認し、引き継いでいく。

(続く)

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♦️823『自然と人間の歴史・世界篇』カリフォルニア電力危機

2018-07-03 22:19:39 | Weblog

823『自然と人間の歴史・世界篇』カリフォルニア電力危機

 貴方の住んでいる地域で、もし人為的な理由から電力の供給が閉ざされたら、どうなるだろうか。それはあり得ないという人もおられよう。しかし、アメリカでそのような事が起きかけたことがある。
 ここでは、アメリカのカリフォルニア州で起きた、2000年から2001年にかけての、いわゆる「カリフォルニア電力危機」についての概要を紹介しよう。
 (1)としては、需要の増加があった。その背景としては、景気過熱(同州はシリコンバレーなどを抱える)や猛暑などによって電気の需要が増えた。
 (2)としては、供給のボトル・ネックが生まれていた。色々な理由により、そうなったと考えられている。まずは、建設に数年間を要し巨額の費用がかかる発電所の新規建設を控えたり、送電線が作られなかったりしたため、設備が老朽化していた。また、火力発電の燃料となる天然ガスの価格が上がったり、水力発電の基となる水が不足したりといったことが起きていた。
 それらが原因で電気の供給制約が大きくなった。対応策として、電気の需要の増加に供給が追いつかず、停電や、決められた順番で停電させていく輪番停電が行われたりした。
 (3)として、(1)と(2)により2000年半ばから電力取引市場で取引する価格(卸売価格)が高騰した。
 (4)としては、政策により小売価格が固定されていた。電力とは、ガス供給や水道といったものの類で、いわば「ライフライン」を形成しており、これを安価に供給するのは政府の責務である。
 そして(5)として、(3)と(4)によって電力会社の経営が悪くなっていった。卸売価格上昇分などを小売価格に転嫁できず、電力会社が経営危機に直面したこと。同州で電力事業を扱っていた会社は、サンディエゴ・ガス・アンド・エレクトリック、エジソン・インターナショナル、パシフィック・ガス・アンド・エレクトリックの3社。
 これらのうちサンディエゴ社は、2000年夏の1~2ヵ月の間に電力価格は、キロワット時 14セントが28セントに、さらに35セントに上がるということが、ごく短い間に起きてしまった。そのため同社は、電力の卸売価格上昇分を小売価格に転嫁して経営危機を切り抜けようとした。
 しかし、エジソン・インターナショナルとパシフィック・ガス・アンド・エレクトリックは同州内の全需要家の7~8割に電力を小売りしており、その価格が固定されているためコスト上昇分を小売価格に転嫁できず、電力を売るほど損の出る「逆ざや」状態に陥った。
 両社とも厳しい経営状況となり、電力取引所から電力を調達する資金も不足。固定小売価格のため自由な引上げによる価格転嫁ができず、自分たちがそれをかぶって、「120億ドル」(諸説あり)の損失を被る。
(6)両社については、自治体の援助なしには債務不履行となる可能性も指摘され、事実上の倒産状態(エジソン・インターナショナルとパシフィック・ガス・アンド・エレクトリック)に陥った。
 この事態を迎えて、パシフィック・ガス&エレクトリックのショーン・クーパー広報部長は、「支払う金を持っていない。債権者に対しては返済が不能になりつつあることを既に伝えた」と認める。また、価格をつり上げていた発電業者は、今度は代金未納を恐れて二社への電力販売を渋るようになり、電力不足に拍車をかけた。 
 なお、当時のアメリカでの電力自由化の法的根拠は次のとおり。
 1978年、公益事業規制政策法(Public Utility Regulatory Policies Act)、1992年のエネルギー政策法(Energy P licy Act)、そして1996年の連邦エネルギー規制委員会(FERC:Federal Energy Regulatory Commission)によるオーダー888と889(全ての電力供給者にとって送電網への公平で非差別的な接続を確保するために公布された命令ないしは規則)の公布を受け、州単位で電気事業の再編(自由化)が可能になった。
 それから、2003年1月時点では、17の州とコロンビア特別区が電力自由化を実施している。

(続く)

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♦️705『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカの債務国化(1985)

2018-07-02 20:57:50 | Weblog

705『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカの債務国化(1985)

 アメリカが債務国になったのには、それなりの理由がありました。ざっと、その経過をたどると、次の通りです。
 ①として、インフレ対策が強力に取り組まれました。②として、財政赤字を主因とする資金不足、したがってクラウディング・アウトが起きました。③番目には、①と②から高金利が起きました。そして④つ目、外貨によるドル需要増からドル高が必然化します。
 さらに⑤として、労働生産性の低下に悩むアメリカの上に、このドル高が重なり合うことにより国際競争力が低下していきました。⑥番目には、輸出減、輸入増により経常収支の大幅赤字をもたらしました。⑦として、ここでまた外国資金の流入がありました。
 ⑧したがって、また対外債務が増えていきました。それに加えて、⑨1983年より対外純資産が激減していきました。
 顧みるに、アメリカの対外資産・負債残高は、1915年に初めて資産が負債を超過して、純資産国となりました。1982年には、アメリカは純資産としては最高額の1470億ドルを記録していました。
 ⑩として、そのため、1984年末の資産超過額は282億ドルに縮小しました。1985年になると、経常収支は1985年の1177億ドルと史上最高額の赤字を計上しました。71年間継続したあめりかの資産超過の状態はここに消失したのです。これを反映して、アメリカは対外純債務国に移行せざるを得なくなりました。
 参考までに、経済学者の宮崎義一氏は、1983~1984年にかけてのアメリカの対外資産・負債残高の推移を、紹介されている。
 まずは、1年目の対外資産(1983年末、単位は億ドル)から見よう。
対外資産8,938
対外資産のうち公的資産(準備資産)1,130(337)
対外資産のうち民間資産7,808
対外資産のうち民間資産・直接投資2,270
対外資産のうち民間資産・証券投資843
対外資産のうち民間資産・非銀行部門351
対外資産のうち民間資産・銀行部門4,345
 次には、対外負債(1983年末、単位は億ドル)を見よう。
対外負債7,876
対外負債のうち公的負債2,029
対外負債のうち民間負債5,847
対外負債のうち民間負債・直接投資1,371
対外負債のうち民間負債・証券投資1,147
対外負債のうち民間負債・非銀行部門268
対外負債のうち民間負債・銀行部門3,062
 よって、両者の差であるところの対外純資産(1983年末、単位は億ドル)を見よう。
対外純資産1,062
対外純資産のうち公的部門ー899
対外純資産のうち民間部門1,961
対外純資産のうち民間部門・直接投資899
対外純資産のうち民間部門・証券投資ー304
対外純資産のうち民間部門・非銀行部門83
対外純資産のうち民間部門・銀行部門1,283
 まずは、対外資産(1984年末、単位は億ドル)から見よう。
対外資産9,147
対外資産のうち公的資産(準備資産)1,196(349)
対外資産のうち民間資産7,951
対外資産のうち民間資産・直接投資2,334
対外資産のうち民間資産・証券投資899
対外資産のうち民間資産・非銀行部門288
対外資産のうち民間資産・銀行部門4,430
 次には、2年目の対外負債(1984年末、単位は億ドル)を見よう。
対外負債8,864
対外負債のうち公的負債2,297
対外負債のうち民間負債6,568
対外負債のうち民間負債・直接投資1,596
対外負債のうち民間負債・証券投資1,282
対外負債のうち民間負債・非銀行部門305
対外負債のうち民間負債・銀行部門3,385
 よって、両者の差であるところの対外純資産(1984年末、単位は億ドル)を見よう。
対外純資産282
対外純資産のうち公的部門ー1,101
対外純資産のうち民間部門1,383
対外純資産のうち民間部門・直接投資738
対外純資産のうち民間部門・証券投資ー383
対外純資産のうち民間部門・非銀行部門ー17
対外純資産のうち民間部門・銀行部門1,045
(宮崎義一氏の「世界経済をどう見るか」岩波新書、1986、179~183ページより引用)

(続く)

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♦️689『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ航空管制官ストライキ(1981)

2018-07-02 20:46:09 | Weblog

689『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ航空管制官ストライキ(1981)

 それは、1981年のことでした。アメリカの連邦政府所属の航空管制官の労働組合が、賃金引き上げ、労働時間短縮、退職手当の改善などを求めて行ったストライキが、物議を醸したのが、事の発端であります。
 HP(The Eighties Club,The Politics and Pop Cultere of the 1980s.)によると、次のようなものです。
“On August 3, 1981 nearly 13,000 of the 17,500 members of the Professional Air Traffic Controllers Organization (PATCO) walked off the job, hoping to disrupt the nation's transportation system to the extent that the federal government would accede to its demands for higher wages, a shorter work week, and better retirement benefits.
At a press conference in the White House Rose Garden that same day, President Reagan responded with a stern ultimatum: The strikers were to return to work within 48 hours or face termination. As federal employees the controllers were violating the no-strike clause of their employment contracts.
In 1955 Congress had made such strikes a crime punishable by a fine or one year of incarceration -- a law upheld by the Supreme Court in 1971. Nevertheless, 22 unauthorized strikes had occurred in recent years -- by postal workers, Government Printing Office and Library of Congress employees, and by air traffic controllers who staged "sick-outs" in 1969 and 1970.”

 同労働組合がこのよう警告を無視したため、レーガン大統領は強い態度で抑圧に打って出ました。

(続く)


♦️704『自然と人間の歴史・世界篇』核戦争を未然に防いだ男(スタニスラフ・ぺトロフ))

2018-07-01 17:18:18 | Weblog

704『自然と人間の歴史・世界篇』核戦争を未然に防いだ男(スタニスラフ・ぺトロフ)

 2017年9月の世界のメディアには、その年の5月に亡くなっていた、あるロシア人の記事が載った。
 偉大な人として紹介されたのは、ある退役軍人だった。米ソ両国が冷戦でにらみ合いをしていたあるとき、具体的には1983年9月26日の深夜を少し過ぎたころ、実際に核ミサイルが発射されそうになった。その発射の人工衛星経由の情報は、実際は誤報だとミサイル基地の現場が気付き、ミサイル発射はすんでのところでなされなかったという。
 その後、東西の冷戦時代が終わり、かかる事態が現出していたことが、世界に伝えられた。その時の現地の担当任務に就いていたスタニスラフ·ぺトロフ(当時将校)は、その時の模様をメディアに詳しく伝え、ソ連による核ミサイルの発射の現実的可能性があったのを、国際社会に明らかにした。

(続く)

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