◻️203『岡山の今昔』岡山(19~20世紀、宇野円三郎)

2021-03-26 08:09:07 | Weblog
203『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、宇野円三郎)

 宇野円三郎(うのえんざぶろう、1834~1911)は、土木と災害対策の啓蒙。かつ実践家として広く知られる。備前の和気郡福田村(現在の備前市福田)の生まれ。17~28歳の時の長きにわたり同村の名主を務めたのは、庄屋家柄によるものだろうが、驚きだ。

 熊沢蕃山の遺著「集義外書」「大学或問」を読み、治山治水に関心をもったらしい。29歳で福田村で土砂流出防止の工事に携わる。1880年(明治13年)には、大洪水があった。高梁川流域が水浸しになり、これに危機感を抱いた宇野は1882年(明治15年)、県令高崎五六に「治水建言書」を提出する。 

 それが受け入れられたのだろう、同年11月付けで岡山県土木掛雇に就任する。翌年、わが国初の砂防法である岡山県砂防工事施行規則が制定される。

 それからは、田地子村(岡山市北区建部町)、久代村・見延村(総社市)、巨瀬村(高梁市)などで、石積堰堤、石巻谷止工、山腹工など、県の砂防工事の先頭に立つ。

 その一つにつき、次の「砂防工碑」が建てられており、こんな解説がなされている。

 「近時、我岡山県下の諸川は、長雨ごとに氾濫・決壊し住民の財産を損傷することが多かった。これは伐採する時を定めず山に入るので、山林が自然に禿げて土砂が崩壊し、川が埋まってしまうからであると思われる。 岡山県人宇野圓三郎氏はこれを嘆いて、土砂の崩壊を防ぎ止めることと、山林培養の方法をとらざるを得ないということを、明治15年(1882)4月先の県令(県知事)高崎君に建言したところ、県令は喜んでこれを受け入れ宇野氏にこれを担当させることにした。
 これにより宇野氏は、松苗を植え土砂の崩壊を工事のため忙しく働きながら努力したところ大いにその効果があらわれたので、県知事千坂君は大変喜んで益々これを奨励し禿げ山となればこの工事を施さない所はないというようになった。
 我が賀陽郡見延・穴栗・槇谷・奥坂・西阿曽・久米・黒尾の諸村は山の谷間に跨がっていて、しばしばこの害を蒙り、嘆く声が絶えない状況であったが、初めてこういう工事が起こされたので、願い出てこの地へもそれを試みてもらうことにした。(以下、略)明治22年(1889)7月上多田反一 述作」(原文は漢文にて、また訳文は砂防公園内の案内板より)」

(続く)

(続く)

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◻️50の4『岡山の今昔』幕末の岡山(河合継之助の旅、1859)

2021-03-24 09:33:21 | Weblog
50の4『岡山の今昔』幕末の岡山(河合継之助の旅、1859)

 河井継之助(かわいつぐのすけ)の若い頃といえば、中国、四国、それに長崎にも遊学したようであり、彼が当時のレベル分けでいうならば越後・長岡藩の中級武士、しかしながらその河井は、佐久間象山などにも教えを請う学究でもあって、その時は高梁にいる山田方谷を目指してはるばるの旅をしてきたのであった。次の旅日記が残されていて、岡山が見えるようになってからは、さぞかし心も期待に膨らんでいたのであろうか、こうある。

 「十五日 晴
片上を立ていんべを通り、所謂備前焼を冷し、易直之物なり、津山川ニ暫添て岡山ニ達す、片上よりは追々開け、岡山は余程之開けなれ共、山之多ニは意外也、沢々無限あり。水之引方十分に手之届、旱(かん)ばつの憂あるまし。
 先に淀川にて田へ懸る水車を見る。是は簀に水のしとむ様するしかけなれ共、夜故不明、今備前之川にあるは板にて水しとみまわる。重ければ不回故か、淀も此も至手薄之物なり輪は竹、中は、不傷様に色々あり川は大にあらず。
 流れも急ならす。相応に深し、我国の青山川よりは大なれ共、彼所にて試なれは好からん、水勢似たる様覚、水利之届しは熊沢遺意かと思わる。稲は何も能出来て、殊に其跡ヘな種か麦、先に伊勢て聞、一反て米の七俵も取り、其跡て麦五六俵も出来ると、其割なら下直なるへけれとも、はけ能(はけるのをよくするの意味、引用者)故か、惣高直なり。
 岡山迄来と中に、百姓家息へ咄を聞(米直段之事に付)、能筈なれ共、やはり表張所にて、何れも貧しと、殿様・家中勝不能由、四年とか前に札一匁十分一になり、当時は八文に当る。其前迄は讃支(岐)へ渡ると正銭百五文迄にはなるとに、是にて金持も長持ニ弐三杯も持しもあり、此十分一にて皆よわると、可歎事なり。」

 続けて、こうある。

 「地震之年之仕事か、熊沢之事を聞くに、繁山村は五里計り跡になると、山の中なりと、繁山之事は能知、其人ならん、白昼に提燈を附、立のくと、其人、御城之際の川山の木を切ると、後はハ千石積之不入様なると、要害も悪しと云由、果して今はあせたりまと、おそろしき人なりと云う、(熊沢)蕃山之事ならん。
 石山多き故、予問、炭・焚木如何と、沢山なる由、炭之直段六貫匁俵、弐百四五十位と。


 岡山はさすか国主、大なる物なり。町入て、小橋・中橋之に川は、皆上り川にて、京橋は右云う城之外濠なる川にて、京橋に(尤自国之船も)四国高松の船数艘あり、一六には是非大坂船出る。


 四国は毎日便船ある由なれ共、如何にも盆十五日之事なり、弥出るとも不定、讃支渡らんため、暫見合すれとも、思きりて本道を不行、妹尾と云う到、是は已に備中なり(川あり境)。


 子細は大坂を始め姫路・岡山・備中も倉敷辺、昨年コロリ之病、又流行して死人多、大坂より之往来、兵庫、何れも流行、道に六部の死するを見、赤穂より片上出る山中にて駕輿にのせて手拭にて顔を蔽へ、生ける取扱にして行女あり。命は天とは乍云、好て到るは愚と思、讃支渡んとするため也、瀬尾ニ宿、大坂より備中迄、痛神送るとか云いて、馬鹿等敷事、何れもあり。」

 しかして、かかる「岡山はさすか国主、大なる物なり。町入て、小橋・中橋之に川は、皆上り川にて、京橋は右云う城之外濠なる川にて、京橋に(尤自国之船も)四国高松の船数艘あり、一六には是非大坂船出る」との下りに着目すると、さしずめ「流石」を連発するような光景であったのだろうか、読んでいてなんだか羨ましくもある。
 

(続く)

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(続く)

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◻️50の3『岡山の今昔』江戸時代の岡山商人

2021-03-23 22:26:11 | Weblog
50の3『岡山の今昔』江戸時代の岡山商人

 江戸時代の岡山を語るのに、商人たちの動向がどのようであったかは欠かせまい。まずは、京橋交番の少し手前にある花壇の中に、「旧橋本町」と記された地名由来碑が立っていて、「江戸時代は、旭川の水路と山陽道の陸路を利用する多くの問屋がありました」と刻んであるという。

 なお、当時の岡山城下の区割りのおおよそについては、さしあたり「絵で歩く岡山城下町」(岡山大学付属図書館編、吉備人出版、2009)を推奨したい。

 この界隈には高瀬舟の発着場が幾つもあり、「海船72隻、河船86隻」(「備陽記」)ともいわれる多数の舟がやって来て、あるいはここを拠点に城下の川岸という川岸に人や荷物を送り届けていたと聞く。

 そんな京橋界隈、すなわち京橋を渡ったところの一角、橋を渡って直ぐのところの橋本町(現在の京橋町)側には「大門」があったようだ。それに、門の南に接して高札場があり、なんだか晴れがましい。その区割りの中には、商家が多かったとのこと。

 江戸初期からの淀屋佐々木家、塩屋の武田屋、それに享保年間以降「木屋丁子香」で知られた木屋清七郎も、それぞれが大店を構えていたことになっている。

 中でも武田家は、安永(1772~1781)の頃には「岡山の筆頭長者」といわれていた。およそ二千貫目位の元手銀を倉に持っていたという。これなら、かの井原西鶴の「銀五百貫目よりして、是を分限といえり、千貫目のうえと長者とはいうなり」とあるのも、合点がいく。

 それでは、なぜそれだけの銭を貯めることができたのだろうか。それは、武田家は、橋本町で両替商を営んでいたからだ。

 江戸時代中後期の塩屋武田家は、諸物問屋でもあり、両替とももに藩の用達を勤めた。主な用達は、藩に金を融資する役である。安永年間(1772~81)の武田本家善次郎の時が最盛期であったろうか。二日市町内に五反(約五〇アール)の別邸屋敷地を持っていたという。

 珍しいところでは、五代目の与三太夫(1732~1798)は「松後」と号す、蕉風美濃派の六世を継いだ著名な俳人であったとのこと。また七代三郎左衛門(1778~1853)は、円山応挙・応瑞父子に学んだ経歴をもつ画人であった。

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 一方、淀屋佐々木家は、播州の出であり、浪人していた与三太夫が池田輝政に召し出され、播州浜田の代官を勤めた。その息子の池田忠継が岡山藩主となり、兄の池田利隆が後見役として岡山に入ったおりに十人の大年寄をおいた由。その利隆とともに岡山に移った淀屋三郎兵衛は与三太夫の二男で大年寄の一人であった。
 その後利隆の長男光政が、鳥取を経て1632年に岡山に移封されたときも、大年寄は十人が揃えられた。そして迎えた1667年(寛文7年)の藩文書に見える大年寄の一人、佐々木三郎右衛門とは、その三郎兵衛の息子なのであった。
 そんな淀屋佐々木家の主な商売は、質屋であり、暴利を貪っていたのは、おおかた間違いあるまい。それでも、この質商売は、幕府による1723年(享保8年)の利息統制、1731年(同16年)の年利15%での公営的な質屋の出現により、転機を迎えていく。さらに、1801年(享和元年)には、近世初期からの有力商人であり続けた淀屋佐々木家の経営も破産となり、上道郡倉田に店を移転した由。

 この二つの大店(おおだな)の名前が揃い踏みする事態が、1745年(延享2年)に起こった。その年の梅雨から夏場の洪水で、領内の収納高の減少は10万4千石にも上ったとされる。そこで、岡山藩は、大坂の銀主への借銀返済と藩士らへの貸付銀に当てようと、その2年後、領内の豪商に米と銀の借上げを命じた。
 これに応じ淀屋佐々木与三太夫が6家とともに米計2万俵を、また塩武田伝兵衛ら5家が、各銀百貫目を出銀した。いづれも融資なのだが、これにより、岡山藩の財政は救われた形となっている(詳しくは、たとえば、片山新助「岡山の町人」岡山文庫117、1985を参照されたい)。

 
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 他にも、益屋や小豆島屋、それに木屋などの有力商人たちが、ここで諸物問屋を営んでいた。これらのうち木屋は、享保年間以降「木屋丁子香(きやちょうじこう)」と呼ばれる家伝のびんつけ油で知られた木屋清七郎においては、大店を構えて手広く商売をしていたようだ。

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 備中屋藤田家は、丸亀町に店を構えていた。ここは、現在の北区野田屋町二丁目。博労(牛馬の商人)が多く住んでいた。そのため、はじめは博労町の名前であったのが、1676年(延宝4年)に山崎町と丸亀町に別れ、町名から消えた。丸亀の由来について、一説には、町内に金毘羅宮が四国の丸亀にちなんでこの名になったという。

 この備中屋は、享保から宝暦年中に、旧勢力のかなりの数の没落(注)に代わって台頭した商家の一つだ。元々は、備中松田家の家臣、藤田大炊助を祖としている。

 (注)「元禄ー享保期(1688~1736)、門閥商人ら旧勢力が衰える中で、財力を貯えてくるのが、仁尾入江家(川崎町)、和田家常盤家(常盤町)、茶屋天野屋(児島町)、灰屋河本家(船着町)、塩屋武田家(橋本町)、少し遅れて備中屋藤田家(丸亀町)、五明屋森家(小橋町)らである。」(片山・前掲書)

 1711年(宝永8年)年の間口は、まだ3間2尺であったらしい。それが、1751年からの宝暦年間には丸亀町元店の間口7間、他に6筆、間口25間2尺の屋敷を持つまでの大店になっていたという。
 本家は、1788年(天明8年)に藩札を発行する銀元に、船年寄、惣年寄格などの町政にも参画していく。
 顧みれば、享保年中の岡山藩士への金貸し、つまり質屋からはじめて、天城池田家、伊木、土倉などの藩の家老、支藩扱いの足守、庭瀬、撫川戸川などの諸藩にも金融を行うようになるうちに、岡山町政の中心的な家柄となっていく。
 なお、こうした拡張ぶりも、宝暦~天明にピークを迎えてからは、後述のように、貸したお金の多くは不良債権化を強め、文政のはじめ頃からは家産を傾けはじめていく。

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 塩涌屋(しわくや)国富家は、紙屋町の名主にして、生魚問屋と銭屋を営み、富田町の出店では質屋もしており、江戸時代後期の二代目、源次郎(1754~1834)の代に台頭してくる。

 参考までに、その辺りは「京町西詰めの町」(文久城下図)と通称されているように、西から来て京町を渡った後、橋本町から西大寺町へ、さらにその北側が紙屋町だ。謂れによるとこの町には、「当初児島郡村出身の麹屋(こうじや)が多かった。火を使うことから、火災を心配して、藩の命令で児島町に移転となる。その後に紙を扱う商人が進出してきたための命名であったらしい。

 寛政期(1789~1801)に銀10貫目で藩への融資を始めたようで、それが1812年(文化9年)になると、「子孫永永相続を仰せつけられるように」との思惑にて、銀300貫目を献金したのだと伝わる。
 それからも藩への忠勤に励んだのであろうか、1854年(天保14年)用達の藩への出銀高一覧によれば、銀70貫目を供出、役名は惣年寄格(そうとしよりかく)の扱いにのしあがってきていた。1854年(嘉永7年)には、町奉行の指揮下で城下町の民政や財政を取り仕切る町民の最高位者、惣年寄に任ぜられる。

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 それから、灰屋河本家の本宅は、船着町にあり、3代目の頃には、諸国物産卸売問屋で巨万の富を蓄えた。

 その初代は河本五郎右衛門常平といって、大坂の豪商淀屋辰五郎介庵との人脈があったという、その「つて」であったのだろうか、岡山藩の経済顧問に迎えられる。
 二代目の定平の代には、船着町に住みつく。その屋号を「灰屋」に定めて、燃料関係やらの商売に励んだ模様だ。ところが、親の常平同様に50歳で高野山に入ってしまったとのこと。こうした親子二代の風変わりな生活ぶりがある中で、商売の基礎が成り立っていったようだ。

 そして、この風変わりな河本家に、一大転機がやって来る。三代目の一居(いっきょ)、四代目の巣居(そうきょ)、さらに五代目の一阿(いちあ)と続く中で、当主らが率先して全国を馳せ回り、これぞと思う諸国の産物を見つけては先物買いまでを行う、巨利を得ることに貪欲であった。
 特に、一居の時代には、また「禁裏御用達」の資格を得ると、長崎に出店を設けて中国との交易に乗り出したという。

 そればかりではない。同じ岡山の豪商の中では、かなり変わっていた。すなわちそれは、商売で得たカネの多くを文物の収集に振り向けることであった。具体的には、それらで得た万金を、彼らはおよそ三代にわたり書画骨董から書籍に至るまでつぎ込んで買い求めることをしたのである。



(続く)


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♦️129の4『自然と人間の歴史・世界篇』浄土思想の成立(インド、中国そして日本)

2021-03-22 19:36:44 | Weblog
129の4『自然と人間の歴史・世界篇』浄土思想の成立(インド、中国そして日本)

 浄土思想というのは、何だろうか。まずは、その大元となるインド仏教の発展の歴史か、紀元前後の、いわゆる「大乗仏教運動」においては、多様な教典が編纂された。それらの中から一つをひもとくと、こうある。その「仏説観無量寿経」(略して「観経」という)のごく大まかな筋は、次の通り。


 その舞台としては、古代インドのマガダという国でのある事件を題材としているのだと。
 その事件とは、マガダ国の王子の阿闍世(あじゃせ)が、父の頻婆娑羅(びんばしゃら)王を幽閉して、食べ物も飲み物も与えずに、いた、つまり殺そうとしたのである。
 それを察知した王妃の韋提希夫人(いだいけぶにん)は、夫である王を救おうとして、ひそかに食べ物や飲み物を牢獄に運んだのだが、それが発覚してしまった。
 すると、韋提希は、激怒した王子に刃を向けられ、今にも殺害されそうになったというのだから、話が混みいっている。幸い、その場に居合わせた大臣たちが王子を押しとどめたので、韋提希は殺されずにすんだという。それでも、宮殿の奥深い部屋に閉じ込められ、その間に夫の頻婆娑羅王は亡くなる。
 韋提希にしてみれば、敬愛する夫が殺されたこと、しかも殺したのは自分が生み育てた王子であったこと、さらには、夫が殺されないように、二人を救おうとした自分がかえって息子に刃を向けられたことをどのように理解すればよいのだろうか、そんな破天荒な苦悩の中に投げ込まれた彼女は、釈尊を訪ね、救いを求める


 そういう話の次第から、この願いに応じて、彼女の前にブッダが現れると、必死の体で「私は過去になんの罪を犯したことによってこのような悪い子を生んだのでしょうか。また「ブッダはどのような因縁があって、提婆達多という悪人と従兄弟なのでしょうか。私のために憂い悩むことなき処をお説き下さい。もはや私はこの混濁の世をねがいません」と。

 そこでブッダは、眉間から光を放って諸仏の浄らかな国土(浄土)を現してみせたという。それを垣間見た韋提希は、その中から特に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと訴え、そこに行く方法を説き示されるように仏に懇願する。
 
 それからは、「定善の観法」ということで、ブッダのいうには、精神を統一し、心を西方に専念して阿弥陀仏とその極楽浄土を観想する方法をいう。まずは太陽が西の空に沈みゆく映像を頭の中に焼き付くようになるまで観想する「日想観」、それに極楽世界のありさまや阿弥陀仏の姿やその徳などを観想し、あるいは自分が極楽浄土に往生しているありさまを観想するといったことをいう。これだけでも、なかなかに、込み入っている。
 ところが、まだあって、つぎにブッダは、ひとしく極楽浄土に往生する者といっても、そこには九つの分類があることを説く。ここで九種の分類とは、極楽に往生しようとする者を、その資質や能力から上品・中品・下品の三つに分類し、さらにそれぞれの品を上・中・下の三種に分類するものであったのだと。
 具体的には、上品の者にはそれぞれのレベルにふさわしい行い方を、中品の者にもまた彼らのそれぞれのレベルにふさわしい日々の行いを指し示す。
 これに対して下品に属する三種の人々(下品上生・下品中生・下品下生)には、いささか違っていた。すなわち、彼らは、上品や中品の人々が行うような福徳を行うことが出来ないどころか、かえってさまざまな悪行を犯してしまう罪悪の凡夫である。
 が、このような人々でも善き人の教えに出会い、南無阿弥陀仏の念仏を称えるならば極楽往生することができると説いた、これを第十六の観想というのだが、韋提希に授けたのはこちらの道しるべなのであったという。なぜなら、ブッダは、その伝授の前に韋提希がかかる事件の前から息子を殺したいと願っていたことを見抜いていた、それでも彼女が極楽へ行けるように取り計らってやったのだと。

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 それからかなりの時が経っての場所は中国の唐の時代、仏教僧侶の善導大師(ぜんどうだいし、613?~681?)をもって、ひとまずの嚆矢(こうし)とすべきなのだろうか。
 というのは、同時代の人物には、「三論玄義」の著者で三論宗を大成させた吉蔵(きちぞう)や、インドから大乗教典をもちかえった仏教僧で、三蔵法師の1人である玄奘(げんじょう)らがいて、彼らもまた「観経」の解釈をあれこれ研究していた。

 そういうことで、次に紹介するのほ、善導の著した「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ」(略して「観経疏」)であって、前述の「観経」の註釈である。
 



(続く)


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 それはさておき、この人物が平安時代中期からの日本でなぜ有名なのかというと、善導大師が著した「観経疏」の中の一文が、日本の仏教に大いなる一石を投じ、その根本理念を打ち立てさせたことがあろう。
 それというのも、かの法然は、極楽往生を願う人々をなんとか救いたく、その根拠となる仏典の一節を探し求めていたのではないだろうか。来る日も来る日も、寺にある教典を片っ端からあれこれ調べていたのだという。
 そしてある日のこと、偶然か、はたまた「縁」ということであったのだろうか、ともかく彼の切なる願いは叶えられたのだという。そこには「心から「南無阿弥陀仏」ととなえる者を一人残らず極楽へ迎えとる」となっており、法然はこの下りを見つけて、欣喜躍雀(きんきやくじゃく)したのだと伝わる。

 その一文にいわく、「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」(善導「観経正宗分散善義』巻第四(「観無量寿経疏」「散善義」)と。

 ちなみに、これを見つけた法然は、こういう。

 「法然上人御法語第二十五」の中の「導師嘆徳(どうしたんどく)」より引用。
 「静かに以(おもんみ)れば、善導(ぜんどう)の観経(かんぎょう)の疏(しょ)は、これ西方(さいほう)の指南(しなん)、行者(ぎょうじゃ)の目足(もくそく)なり。然(しか)ればすなわち西方の行人(ぎょうにん)、必ず須(すべから)く珍敬(ちんぎょう)すべし。
 なかんずく、毎夜(まいや)の夢の中(うち)に僧ありて、玄義(げんぎ)を指授(しじゅ)せり。僧というは、おそらくはこれ弥陀(みだ)の応現(おうげん)なり。爾(しか)らば謂(い)うべし、この疏(しょ)は弥陀の伝説(でんぜつ)なりと。いかに況(いわん)や、大唐(だいとう)に相伝(そうでん)して云(い)わく、「善導はこれ弥陀の化身(けしん)なり」と。爾(しか)らば謂(い)うべし、「この文(もん)はこれ弥陀の直説(じきせつ)なり」と。すでに、「写(うつ)さんと欲(おも)わん者は、もはら経法(きょうぼう)のごとくせよ」といえり。此(こ)の言(ことば)、誠(まこと)なるかな。
 
2仰(あお)ぎて本地(ほんじ)を討(たず)ぬれば、四十八願(しじゅうはちがん)の法王(ほうおう)なり。十劫(じっこう)正覚(しょうがく)の唱(とな)え、念仏に憑(たの)みあり。俯(ふ)して垂迹(すいじゃく)を訪(とぶら)えば、専修念仏(せんじゅねんぶつ)の導師(どうし)なり。


 三昧(さんまい)正受(しょうじゅ)の語(ことば)、往生に疑いなし。本迹(ほんじゃく)異なりといえども、化導(けどう)これ一(いつ)なり。
 ここに貧道(ひんどう)、昔此(こ)の典(てん)を披閲(ひえつ)してほぼ素意(そい)を識(さと)れり。立ちどころに余行(よぎょう)をとどめてここに念仏に帰(き)す。それより已来(このかた)、今日(こんにち)に至るまで、自行(じぎょう)・化他(けた)、ただ念仏を縡(こと)とす。然(しか)る間(あいだ)、稀(まれ)に津(しん)を問う者には、示すに西方の通津(つうしん)をもてし、たまたま行(ぎょう)を尋(たず)ぬる者には、誨(おし)うるに念仏の別行(べつぎょう)をもてす。これを信ずる者は多く、信ぜざる者は尠(すくな)し。〈已上略抄〉
念仏を事(こと)とし、往生を冀(こいねが)わん人、豈(あ)に此(こ)の書(しょ)を忽(ゆるが)せにすべけんや。」(「勅伝第18巻」)

(続く)

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○234の5『自然と人間の歴史・日本篇』江戸庶民の暮らし(天保、弘化の頃)

2021-03-22 08:40:49 | Weblog
234の5『自然と人間の歴史・日本篇』江戸庶民の暮らし(天保、弘化の頃)

 さて、幕末にさしかかる天保、弘化の頃、江戸庶民の暮らしは、どうなっていたのだろうか。それを窺い知る助けをなるのが、たとえば、徳富蘇峰が調べた上での次の注意書きであり、次に紹介したい。

 「〔註〕天保、弘化度、社会生活の一斑いっぱんは、左に掲ぐる、当時の記録によりてその一斑を察すべし。
 農夫一人婦(よめ)一人劇しき時に日雇一人にて田一町を耕やす。種一斛(いっこく)蒔(ま)きて穀四十斛ばかりを穫べし。摺(す)りて米二十斛も有るべし。御年貢諸掛り五斛ばかりを納めて、残り十五斛ばかりも有るべし。その内五斛は田の主へ納め、全く十斛ばかりが作得なり。また畑五段ばかりを耕し大根二万五千根を得べし(一段五千根の積もり)。売りて百三十五貫文ばかりになる(一根五文二分の積もり)。

 この内糞(こえ)の価五十貫江戸へ船賃二両二分運賃四十貫を引き、全く二十八貫七百五十文が得分なり。ただしこの五段の内三段へ麦を作り六斛ばかりも得べし。御年貢三貫文も上納して、二十五貫七百五十文(金四両ばかりとす)と米十斛麦六斛を一夫一婦一年の辛苦料と知るべし。    

 この内夫婦の食麦三斛六斗米一斛余を引き、また日雇の扶持(ふち)麦一斛八斗米五斗を引き、正月餅などの米三斗余と種穀たねもみ一斛を引き、また子女あればその食料一人に九斗ばかりと積もり、また親属故旧の会食二斗を引けば、米七斛二斗を残す。金七両余に充(あ)つべし。畑の得分と合せ十一、二両に過ぎず。塩、茶、油紙の費(つ)いえ二両ばかり、農具の価家具の料二両ばかり、


 茶、油紙の費(つ)いえ二両ばかり、農具の価家具の料二両ばかり、薪炭等壱両余、夫婦衣服子女の料ともまた一両二分余、春を迎え歳を送り魂たま祭り年忌ねんき仏事の入用二両余、日雇賃一両二分余、親属故旧こきゅうの音信贈遺ぞうい一両ばかり、すべて十一両余を引き、残る所二、三分に足らず。故に風寒暑湿に侵され一、二月も怠惰する時は、収穫に損ありて医薬の価に充あつるに足らず、何を以て他に費す余力を得べけんやという。これにて農夫の辛苦を知るべし。


 大工は一日工料四匁二分飯米料一匁二分をうく。ただし一年三百五十四日の内、正月節句風雨の阻(さまたげ)などにて六十日も休むとして、二百九十四日に銀一貫五百八十七匁六分なり。夫婦に小児一人の飯米三斛こく五斗四升、この代銀三百五十四匁、店賃(たなちん)百弐拾匁、塩、醤油、味噌、油、薪炭代銀七百目(一日銀一匁九分余)、道具家具の代百二十匁、衣服の価百二十目、親属故旧の音信祭礼仏事等に百匁程、都合一貫五百十四匁ばかりを費して、僅かに七十三匁六分を余(あま)せり。もし子二人あるかまた外に厄介(やっかい)あれば、終歳の工料を尽して以て供給に足らず、何の有余を得て酒色に耽楽する事を得んと。これ工匠の労と産とを勘(かんが)え知るべき大略なり。(中略)

4酒の代にや為なしけん、積みて風雨の日の心充(あ)てにや貯うるならん。これその日稼かせぎの軽き商人の産なり。ただこれはなお本資もとでを持ちし身上なり。これ程の本資もたぬ者は人に借る。暁烏(あけがらす)の声きくより棲烏(とまりがらす)の声きくまでを期とす。利息は百文に二文とかいう。一両に二百文の利息しかも一日の期なり。一月に六貫の割と知らる。ただし借人は七百文の銭にて一日に一貫二、三百文にも売上げるゆえ、七百文の銭に二十一文の利息を除いて、その外五百七十五文の稼かせぎあり。依(よ)って借も貸も利ありて損なし。
 大都の商人みせに長少打交(うちまじり(四、五人もあるべし。内に妻子眷属(けんぞく)下女等までまた四、五人、合わせて八、九人の家にては精米一年に十四石四斗ばかり、この価十五両、味噌一両二分ばかり、醤(こんず)二両一分ばかり、油三両ばかり、薪四両二分ばかり、炭三両二分ばかり、大根漬一両三分ばかり、菜蔬(さいそ)の料家具の料十四、五両、衣服の料また十七、八両、普請(ふしん)の料六、七両、給金(きゅうきん)八、九両、地代二十二、三両、都合百両余を費すべし。百両の利を得るには千両の本資もとでなくては叶わず。ただし七百の本資にて七百を得るは易く千両の本資にて百両を得るは難しという。

 これを武家の禄に比するに、百両は三百石に準ず。三百石の家にては侍二人、具足持ぐそくもち一人、鑓持やりもち一人、挾箱(はさみばこ)持もち一人、馬取二人、草履(ぞうり)取一人、小荷駄(こにだ)二人の軍役を寛永十年二月十六日の御定めなり。今の世の価にては侍二人の給金八両、中間(ちゅうげん)八人の給金二十両、馬一疋秣まぐさ代九両を与え、また十人扶持ぶち五十俵を与うれば、残り百三十九俵あり。その内十人の者に塩噌菜代十三両を与え、さて後が我勤(わがつとめ)と武具、家具、普請の入用六、七両を引き、妻子下女らと共に四、五人の費用三十両ばかりとして、総ては五十両余を用うべし。
 百三十九俵を売りて四十六両と少しなり。この法にては年分三両余の不足となる。寛永十年より弘化二年まで二百十三年の間、三両余の不足積りて六百三十六両の借金となり、三百石に六百両の借金あれば利息年分三十両を私うては百両の金僅かに七十両に減ず。依って十人の下僕げぼくを育やしなうことあたわず。これを省きて漸くその日その日を過すのみに至る。これ武家の禄法を察知する一端というべし。」(徳富蘇峰「吉田松陰」)

 ここまで読んでこられて、いささか雑多な印象をもたれるかもしれない、けれども、当時の暮らし向きがそれなりに肉感的に伝わっている面もあるのではないだろうか。

(続く)


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○234の2『自然と人間の歴史・日本篇』江戸町奉行から江戸商人への諭達(天保年間)

2021-03-21 20:46:49 | Weblog
234の2『自然と人間の歴史・日本篇』江戸町奉行から江戸商人への諭達(天保年間)


 ここでは、現代でいうジャーナリストの先駆けの一人といえようか、徳富蘇峰(とくとみそほう)が幕末の志士、吉田松陰について書いた文章の中でも、本文の「註」において、こう紹介している。

 「「註」として、「左に掲ぐるは、天保十二年十二月二十六日(1842年2月6日)、江戸町奉行遠山左衛門尉役宅へ、商人を呼出し、諭達(ゆたつ)したる文なり」

 「諸商人共へ
 その方ども呼出したるは、叱るでなし吟味致すでなし。兼(かね)て存じ居るであろうが、士農工商の事だ。士は身命を捨てて奉公を致す故にそれぞれ禄を貰い、農は粗服を用い粗食を喰(くら)い汗を流し耕作をかせぎ、工はその職を骨折り、商人は御静謐(せいひつ)の御代(みよ)どもに正路の働きにて、辱(かたじ)けなくも御国恩を忘れざるよう致すべきの処、中には寐(ね)ていながら多分の利欲を貪むさぼる事を相考え候者もこれ有るよう相聞え、以もっての外の事なり。
 士農工はそれぞれの勤め方これ有り。乱世には士は命を的にして働き、農は汗を流し耕作をかせぎ歩役(ぶやく)を勤め、工はそれぞれ加役に用いられ、商人は武具の外に調(ととの)うる物なく、その時に至りて渡世(とせい)なく如何(いか)よう致し候心得か。商物は調(ととの)うる者もこれ有れども、払いを致す者もなく御政道もなく、押領(おうりょう)致しても制止も届兼ね難渋(なんじゅう)致し申すべし。


 それゆえ商人はわけて泰平の御国恩を有難く相心得、追々触出し候趣(おもむき)を相守り、正路にして質素倹約を致すべく候処、だんだん御国恩を忘れ奢侈(しゃし)に移り衣食の分限(ぶんげん)を弁わきまえず、三百目、五百目の品を相用い、あるいは結構なる新織新形など無益の手間を掛かけ候者を拵(こしら)え、輪なき紋八ツ藤その外高家(こうけ)の装束(しょうぞく)の紋柄を手拭てぬぐいにまで染出し、湯に入り前尻をぬぐい、七、八十文にて事足るものまでも心を込め、小道具など色々の細工物金銀を費し高価の品を作り、革なども武具の縅()おど)しにも致すべきものを木履(ぼくり)の鼻緒(はなお)に致し、以(もっ)ての外の事、沓(くつ)は新しくとも冠りにはならずと申すなり。

 紙入かみいれ、莨入(たばこいれ)などに細工を込め、そのほかの品にも右に准じ、金襴(きんらん)モールの類に至るまで異風を好み、その分限を弁わきまえず、ゼイタク屋などと家号を唱え候者これ有るよう相聞え、次に食物商人の者へ申し聞け置く。高四文、八文の鮓すしもいつの頃にか弐拾文、三十文に相成り、中には殊の外高価の食物を好み身の分限を弁わきまえず、スッポン壱枚壱分位を喰くらいても飽あかず、また弐分のを喰いても飽かずだんだん増長を致し、スッポンが鮪まぐろか鰯(いわし)のように沢山にあらば賞味もせまい。
 そのようなる事をいたしおりてもつまりは時節が悪いなどと申し腰掛へ多分罷出で、上(かみ)へ御苦労相掛け候者これ有り。時節悪しきにてはなし、分限を忘るる故諸色(しょしき)高直(こうじき)に相成るなり。これより上(かみ)の御制度を相守り正路に家業を致すを御国恩を思うと申す者なり。神仏を念じても国恩を知らざれば役にはたたぬ。町人は粗食にて能よきものなり。士は絹布を用いるが順道なり。随分と粗物を用い、しかし綴(つづれ)を着よとは申さず。
 富家の主人は主人だけの内端(うちば)を用い、召仕は召仕だけの内端を心得、寛政度触出し置き候通り相心得、風俗を昔に返せと申す事だ。娘子供など髪飾り衣類などに花美異風の拵(こしら)えこれ無きよう相心得、若きものにはその親支配人どもより急度きっと申渡せ。

 奢侈の風俗を質素に直せと申すのだ。次に祝いなどに花美の事を致し互に音物(いんぶつ)に気を張り、壱歩の物を遣やればまた弐歩の物を遣つかわす、追々の奢侈に募つのると申すのだ。高価のものの売買も当丑年(うしどし)限り停止(ちょうじ)触出し置きたれば、残りたる物は年内最早三日に相成り、形を替えるか、崩すとも仕舞切(しまいき)りにいたすとも、来(き)たる寅年とらどし元朝(がんちょう)よりは急度きっと停止申渡す。

 もしこののち大名方婚礼などこれ有り、高金のあつらい物これ有れども、伺(うかが)いの上調達致すべし。大名も百万石もあり壱万石もあり差別を心得、これより万事正路質素に相心得、譬(たと)え木綿たりとも花美高価のものを取扱い致すまじく、相背く者これ有るにおいては不びんながら政事には替え難く、急度きっと申渡す。この旨心得よ、下がれ。」

 見られるように、商人に向けて万事に質素倹約の振る舞いをせよ、といっているようなのだが、その内容はかなり事細かであり、しかも「その方ども呼出したるは、叱るでなし吟味致すでなし」と前置きしながら、その実は「諭す」というよりは、「通告」とでもいうべきだろう。
 それにしても、その言い渡しの場所とは町奉行の役宅であって、出頭した商人たちは、弁論や言い訳がましいのことを述べる機会は与えられなかったのではないだろうか。
 そればかりではない、これに「江戸町奉行遠山左衛門尉」というのは、その名にしおう遠山景元のこと、通称を金四郎といい、公事方勘定奉行などを経て、1840年(天保11年に北町奉行に就任していた。その前年には水野忠邦が筆頭老中で始めた天保の改革の真っ只中であったから、それの一環としての話であっのだろうか。
 それにしても、遠山本人は、1842年には町奉行から移される、同奉行在任中には同改革に批判的なところも多々あったと伝わるのだが、どのように受け止めたらよいのだろうか。


(続く)

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♦️389の1『自然と人間の歴史・世界篇』ケインズの有効需要論とインフレ率

2021-03-17 09:17:41 | Weblog
389の1『自然と人間の歴史・世界篇』ケインズの有効需要論とインフレ率

 ケインズは、有効需要という概念を考えて、それが足りない時になにが起きるか、それが度を越したときどうなるかを考えた。その後者の場合につき、こんなふうに述べている。

 「有効需要が、さらに増加してももはや産出高は増加せず、有効需要の増加と正比例に費用単位の増加をもたらすに過ぎない場合に、われわれは真のインフレーションの状態とほぼよい状態に達する。
 この点に至るまでは貨幣膨張の効果はまったく程度の問題であって、それ以前にはわれわれが割然たる一線を引いてインフレーションがはじまったと宣言することのできる点は存在しない、それ以前の貨幣数量の変化はすべて、それが有効需要を増加させるかぎり、一部分は費用単位を増加させ、一部分は産出高を増加させることによってその影響力を消失するに至るであろう。」(ジョン・メイナード・ケインズ著、塩野屋九十九訳「雇用・利子および貨幣の一般理論」第21章「価格の理論」)


(続く)


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○69『自然と人間の歴史・日本篇』東大寺二月堂の修二会(752)

2021-03-17 08:36:59 | Weblog
69『自然と人間の歴史・日本篇』東大寺二月堂の修二会(752)

 東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)の模様がテレビで写し出された。一般には、またとない、映像を通じての有意義な観賞だったのではないだろうか。
 この法会は、現在では3月1日より2週間にわたって行われているという、しかし「修二会」と呼ばれていることからもわかるように、もとは旧暦の2月1日から行われていたのだと。


 分かりやすいところから紹介すると、行中の3月12日深夜(13日の午前1時半頃)には、「お水取り」といって、「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式があったらしい。なんでも、若狭井(わかさい)という井戸から観音菩薩にお供えしたのだという。


 その馴れ初めは、いつのことだったのだろうか。これについては、はっきりしていて、752年(天平勝宝4年)、東大寺開山良弁僧正(ろうべんそうじょう)の高弟、実忠和尚(じっちゅうかしょう)が指導して創始されたのだという。以来、2012年までに1261回を数えたというから、単純計算ではほぼ毎年のことになろう。


 ところで、この修二会の正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)」といって、ここに十一面悔過とは、われわれが日常に犯しているさまざまな過ちを、二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で、懺悔(さんげ)することを意味するというのだと説明される。

 それにしても、そのような懺悔の考えが仏教にあったのかと、いぶかしい気持ちにもなろう。だとすれば、それはどのような触れ込み、成り行きであったのだろうか、興味深い。


 いまその頃の社会を振り返れば、修二会が創始された古代では、仏教を取り入れての「鎮護国家」の類いなのだろうか。それは国家(朝廷)が、万民のためにということで行う宗教行事としてある。いわく、天災や疫病などを意識したもの。そうした災いを取り除いて、安寧な世の中を実現したい。公式には、鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽などを願う行事とされたのだと。

 なにしろ、東大寺は、この島国においてはながい歴史を持ち、二度までもその大伽藍の大半が焼けたことこあるという、そんな中でも、修二会だけは「不退の行法」として続けられてきた訳なのだ。


(続く)

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○251の5『自然と人間の歴史・日本篇』屋台郷騒動(米沢藩、1863)

2021-03-15 21:14:10 | Weblog
251の5『自然と人間の歴史・日本篇』屋台郷騒動(米沢藩、1863)

 ここに紹介したいのは、なにぶん、開国だの攘夷(じょうい)だのと、日本国中がごった返していた時代の、ある東北の藩と、それに支配されまいと頑張った一地域の人々との争いのことである。まずは、極大まかな、屋台郷を巡りての年表から紹介してみよう。

 その屋台郷(現在の山形県東玉置賜郡高畠町)だが、1664年(寛文4年)には、米沢藩預かり地となる。1688年(元禄元年)には、新宿村名主の高梨利右エ門ら農民が、米沢藩悪政を幕府に直訴を断行し、成功するも、主だった者は死罪を免れなかった。
 1689年(元禄2年)には、「晴れて」ということだったであろうか、屋代郷として幕府の直轄地となる。1742年(寛保2年)には、屋代郷が再び米沢藩預かり地となる。1767年(明和4年)には、織田信浮(のぶちか)がこの地に入り、高畑入部高畠藩となる。
 1831年(天保2年)には、織田信美が天童に移住することにより、高畠は天童領となる。1848年(嘉永元年)には、この地はまたもや幕府の天領となり、米沢藩が預る形となる。
 そして迎えた1863年(文久3年)には、同藩領に準じた米沢藩預かり地となる。同藩としては、この間、並々ならぬならぬ幕府への工作を行っていたとも、伝わる。折しも、屋代郷の農民たちは、苦々しい思いを禁じ得ず、米沢藩領復活反対嘆願書をたづさえて幕府に願い出るのであったが、一揆ということで、主だった者たちは極刑となる。そして迎えた、幕末も大詰めの1866年(慶応2年)には、米沢藩が復活、この時、屋代郷は米沢藩に合併させられる。

 それでは、この騒動のもう少し立ち入っての有り様は、どんなであったのだろうか。まずは参考までに、藤沢周平作品の中から、しばし引用させていただこう。

 「藩の体制は、その後次第に形をととのえていったものの、入部当初からの財政窮乏は容易に回復できないまま推移した。寛文四年、第二の危機が米沢藩を襲う。
 藩主綱勝が急死したが、嗣子がなかったため藩断絶の危機に直面したのである。藩では先に死亡している綱勝の室清光院が、当時幕政に参与して勢力のあった保科肥後守正之の娘であった縁を頼って、必死に存続活動を行なった。綱勝の生母生善院が、吉良義央の長子で綱勝の甥にあたる三郎を養子にしていたのを、跡目として願い出たわけである。
 正之の斡旋が効いて、当時二歳の三郎が上杉家を継ぎ、綱憲と名乗って藩断絶を免れたが、このとき伊達郡、信夫郡十二万石、置賜郡のうち屋代郷三万石は幕領とされ、米沢藩は半知十五万石に落とされた。
 しかし、米沢藩は、なお願って屋代郷三万石を預地にしてもらう。預地とは、幕府がその年貢米を米沢藩に売り、米沢藩はその代金と金納文を幕府に差し出すもので、管理だけ米沢藩にゆだねられた。
 米沢藩と屋代郷の抗争は、ここから端を発し、幕末の動乱期には、幕府が米沢藩を佐幕勢力に引きつける取引の道具とされる。
 元禄二年、屋代郷三十四ヶ村は、正式に米沢藩から切り離され、幕府直轄の天領となる。年貢の半分が貨幣であったが、上杉領時代五万石で一両だったものが、天領になると六石で一両に変ったように、屋代郷領民は、次第に疲弊を深めて行く米沢藩財政の外に、比較的楽な暮らしを営んだ。屋代郷の幕府直轄は元禄二年から寛保二年までの五十三年間続く。代官府は福島の桑折宿にあり、屋代郷に常駐した期間は短く、年貢も軽かったのである。大まかに言って四公六民程度で、米沢藩の七公三民とは比較にならなかった。
 寛保二年から安永二年までの約三十年間、屋代郷は再び米沢藩領地になる。ついで同年から寛政二年までの十七年は幕領に、寛政二年から文久三年までの六十六年間は米沢藩領地にと屋代郷の変遷は激しい。これは、逆に言えば実質四万石といわれた同地に対する、米沢藩の執着の深さを示すものでもあった。
 寛政二年に屋代郷は三度米沢藩領地に戻ったが、このときは全部ではない。それより先、明和四年に、屋代郷には上州小幡から、織田信浮が移封されてきている。
 信浮は屋代郷のうち高畠、小郡山、泉岡、塩ノ森、相野森、柏木目の六ヶ村、高四千六百五十石を領有し、高畠の古城跡に鐘ヶ城を築いて住んだ。米沢藩領地はこの六ヶ村をのぞいた土地ということになる。織田家はこの屋代郷六ヶ村のほかに、村山郡天童下に一万八千九百余石を給されており、天保元年には当時の藩主織田信美が天童に移り、六ヶ村は同家の代官支配としたが、嘉永元年にはこれも米沢藩預地となる。
 文久三年屋代郷を米沢領に準じるという、幕府の決定に至るまで、屋代郷と米沢藩のかかわり合いはこのように目まぐるしい変遷の経過を辿っているが、この年、後に屋代郷騒動と呼ばれる騒ぎが起こった。
 文久三年二月、米沢藩は代官所に屋代郷の名主一同を集めて、今後私領同様に扱う旨を布告した。これに対し屋代郷の百姓は、名主以下一致して上杉支配に反対し、同じ月のうち二井宿村慶昌寺に、百姓数百人が集まり幕命の撤回を嘆願を申し合わせている。郷民はこの後、仙台藩を頼って、嘆願書を幕府に取り次いでもらおうとし、八月になって訴状は仙台藩執政に受理されたが、九月に至って予想通りの重い年貢、課役の割当てをみた郷民は、驚倒して一気に暴動に走った。高畠東南の有無川の河原に集まった千人余の百姓は、高畠村新野総右衛門、藤七、竹森村長谷川平内を襲って、刀剣、武器、金子千三百両を軍資金として強奪した。このとき新宿村の肝煎島津才吉は、米沢藩の命に従順であることを理由に殴打されている。騒動は仙台藩士中島敬助が指揮した。
 騒動のはじめ仙台藩を頼り、また騒動の首謀者の中に仙台藩士がいたのは、米沢領は天正十九年伊達政宗が奥州磐手山に去るまで長く伊達領であり、いわば伊達家墳墓の土地であったことから、その繋りを慕ったのである。
 米沢藩の窮迫は、景勝入部以来のものだったが、家臣の困窮は年を加えるごとに増幅し、明和元年には実に「お蔵元御逼迫」のため、政事が立ち行かないから藩土を返上したい、として幕府の内意をうかがうところまで行っている。
 俸禄で暮らしが立つのは一部の上士だけだった。下級藩士は悉く百姓仕事をし、とくに城下に配置された下士の貧窮は、糞掴みの原方衆の貧しさを上廻った。例外なく物を商い、大工、屋根葺きで暮らしを立て、節を守って俸禄だけで過ごそうとする者は、むしろ偏屈者と嘲られる始末であった。
 米沢の土地に、近年まで大工様、屋根葺き様という呼び方があったのは、大工、屋根葺き、人足などの中に、内実は武家の者が多数混じっていたため、無礼を恐れて総称して様をつけて呼んだ遺風である。
 当然百姓は過酷な年貢、課役に苦しんだ。米沢藩中興の祖と呼ばれる上杉治憲(鷹山)の治世下においても年貢は七公三民を緩めることはなかった。
 屋代郷は天領の領民として、こうした米沢藩の苦境の埒外にいた。明和四年以後織田領となった高畠以下六ヶ村にしても事情はあまり変りない。織田家は小幡二万石から屋代郷、村山郡天童下併せて二万三千五百石は元高を超えて移封されていた。山県大弐、藤井右門の嫌疑に連座し、藩主信邦の隠居、家老吉田玄蕃以下重臣多数の処分を経て後の移封であり、屋代郷における領民仕置はゆるやかであったらしい。
 いわば餓狼の前に置かれた好餌に、屋代郷は似ていたし、そのことを誰よりも屋代郷領民自身が覚っていた。加えて、屋代郷は自領同様に、という幕閣の決定を手に入れた米沢藩のやり方は、かなり強引なものがあった。
 米沢藩がこの件を幕府に正式に願い出たのは文久元年三月である。表向きの理由は、御領百姓の飲酒、賭博、遊惰の風が、自然に私領にも及ぶので国政に差し支えるとした。しかしこの願いはすぐに却下される。だが米沢藩は諦めず、同年八月、翌文久二年十一月と嘆願を繰り返した。文久二年のときには世子上杉茂憲が、月番老中板倉周防守重宗にあって斡旋を頼んでいる。当然賄賂が動いたところである。
 こうした執拗な嘆願の裏には、米沢藩の時勢に対する読みがある。文久二年九月、幕府は将軍家茂の上洛に、藩主斉憲の供奉を命じ、斉憲は翌三年一月一日上洛の途についている。幕府の衰退は徐徐に明らかになりつつあって、時勢は急速に動いていた。幕府としては、東北の雄藩に数えられる米沢藩を、幕府側に引きつけて置く必要があった。屋代郷三万七千石は、幕府にとっても、いまや格好の取引の道具と変っていたのである。
 暴動を起こした郷民に、こうした情勢の変化が呑み込めていたとは思われない。郷民は天領の民の束縛されない暮らしが奪われるのを畏怖し、一途に米沢藩を拒否し、憎んだ。
 だが、暴動に対する米沢藩の対処の仕方は迅速だった。家中数百人を郷に派遣し、数人を殺傷し、数十人を捕え、たちまち暴動は熄んだ。だがこのとき首謀者数十名は仙台領に逃亡した。」(藤波周平「雲奔るー小説雲井龍雄」(中公文庫版、 第一部二より引用)

 みられるように、奥羽の一藩であるからには、幕藩体制には「明治前夜」の土壇場まで、強権政治を敷いていたようだ。

(続く)


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○68『自然と人間の歴史・日本篇』ササン朝ペルシアからのガラス器2点(東大寺と正倉院)

2021-03-14 21:16:06 | Weblog
68『自然と人間の歴史・日本篇』ササン朝ペルシアからのガラス器2点(東大寺と正倉院)

 2016年5月4日の各紙が伝えるのは、奈良県天理市の天理大付属天理参考館が所蔵し、ササン朝ペルシア(226~651年)伝来とされるガラス製品「円形切り子わん」と、6世紀の作と考えられている奈良市の正倉院宝物「白瑠璃碗(はくるりのわん)」との関係についての、その由来を含めての一つの見解であった。

 それによると、前者の方の制作が4世紀より古く、しかも原型となった可能性が高いことが3日、参考館などの化学分析で分かったというのだ。

 ここにササン朝ペルシアというのは、現在のイラクやイランなどのあたりを中心に領土としていた。近代ではもう大方単独としては廃れてしまったようにも映るゾロアスター教を国教としていた。最盛期には、西方のローマ帝国と張り合い、戦争でローマ皇帝を一時捕虜とするほどであったという。

 ところで、この地では、ローマ帝国からの影響でガラスの生産を開始したのだと伝わる。

 そこでこの2点だが、かなり前から半球状のガラスに凹レンズのような円形のくぼみを隙間無く施しているのが共通性している、との話があったといい、ならば一度詳しく調べてもらおうという運びになったらしい。

 それでは、なぜ、どのようにして、この当時としては珍しい高貴なガラスの器がペルシアからはるばる日本へ運ばれてきたのだろうか。

 まずは、それらと同類の器の一般への下され方が、当時の慣習によるものであったらしい。というのは、それらの器が王朝の工房で製造されていたとしても、かなりの量産が行われていて、しかも宴会などで酒を頂く時には、その参加者に器ごと下される案配であったのではないかというのだ。だとすれば、その活用はかなり融通のきくものであったことになろう。

 次に問われるのは、そのようにして市中に出回った器がどのようにして運ばれてきたのだろうか、そうなると思いつくのがシルクロードを経由して隊商のラクダに乗って東へ東へと旅する姿が、なんとなく瞼に浮かんでくるではないか。

(続く)


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○226の1の20『自然と人間の歴史・日本篇』庄内藩の「義民が駆ける」(1840)

2021-03-12 16:29:14 | Weblog
226の1の20『自然と人間の歴史・日本篇』庄内藩の「義民が駆ける」(1840)

 思い起こせば、1840年(天保11年)1、大御所家斉(いえなり)の命をうけて、時の筆頭老中水野忠邦が、三つ巴(どもえ)の大名の「国替え」の沙汰を下した。
 すなわち、川越藩を庄内へ、庄内藩を長岡へ、長岡藩を川越へ転封するという3方国替えを、それぞれの藩へ命じたのである。

 その話の出元である川越藩はといえば、家斉の24番目の男子の斉省(なりやす)を養子に迎え入れ、跡継ぎと定めているのであって、幕閣に働きかけたであろうことは想像に難くない。

 その縁故の力で、より健全で、豊かな庄内への移封を求めたのだという。なぜなら、これにより川越藩は15万石から14万8000石とほぼ変わらぬなり表向きの石高ながら、実収が20万石ともいわれる庄内藩の領地と人民を手にいれることができるのだから。

 かたや庄内藩酒井家は長岡の7万石に移されるというのだから、泣けてしまうではないか、あろうことか、まるで罪があって流されるような転封にほかならない。

 何しろこの話、それだからとわかる理由は示されなかったという。その庄内藩では、7代目藩主の酒井忠徳(さかい ただのり)が1805年(文化2年)に隠居し、当時16歳の嫡子・忠器(ただかた)が継いでいた、その治世においては、特段幕府から責められるような失政があったようではない。にもかかわらずの減封話なのだから、納得できる筈がない。

 これに対し、同領内の農民たちが集まり、反対ののろしをあげた。彼らは衆議一決、11人が江戸にのぼり、大老の井伊直亮(いい なおあき)に移封取り消しを求める嘆願書を提出したという。領民が表に立っての転封阻止運動は、同藩にとっても都合がよかったことだろう。
 一説には、彼らの間では「百姓といえども二君に仕えず」というスローガンまで現れたともいわれるものの、だからといって、それが全体の意思であったという証拠は見当たらないようだ。

 ところが、翌年早々には、将軍家斉が死去し、不明朗な幕政への批判が多くの外様大名から噴出、老中水野は領地替えに固執したが、幕閣からも反対の声が湧き上がるに至った模様だ。

 この義挙を全体としてどうみるかについては、これまでのところ定説らしきものは見出だすことができないようだ。中でも興味深いのは、藤沢周平が歴史小説「義民が駆ける」(1976)の「中公文庫あとがき」で「百姓たちは、なぜ旗印に二君に仕えずと書いたのか、また建札になぜ自らを忠義一同と記したのか。あるいは彼らが残した記録に、なぜ辟易(へきえき)するほどしばしば、藩の善政をたたえ、その恩に報いる旨の記述があるのか」と問う。
 そして、「さらに言えば」という話なのだろうか、次のように一応のまとめとしている。
 「ここには、たとえば義民佐倉宗五郎の明快さと直截(ちょくせつ)さはない。醒(さ)めている者もおり、酔(よ)っている者もいた。中味は複雑で、奇怪(きかい)でさえある。このように一面的でない複雑さの総和が、むしろ歴史の真実であることを、このむかしの「義民」の群れが示しているように思われる。あるいは誤解されかねない義民という言葉を題名に入れた所以(ゆえん)である。」(藤沢周平「義民が駆ける」中央公論社、1975年8月号から翌年6月号まで連載、講談社文庫(1998)から引用)

 もう一つ、こちらはより直接的な原因の究明を試みている。

 「(前略)転封の原因としていろいろと噂がたてられたが、およそ次のように推察することごできる。
 川越藩主松平大和守斉典は、大御所家斉の第24子(斉省)を養子に迎えていたが、本家越前福井の松平兵部大輔斉宜もやはり家斉の女(むすめ)浅姫を養子としていた。このように本・分家とも大御所との関係は密接であったから、「江戸状」で述べていることは考えられることである。
 財政の逼迫していた川越藩主は、こうして関係を利用し、さらに老中水野越前守、側用人水野美濃守忠篤らに働きかけて「富有にして豊穣な」庄内への転封をもくろんだものと思われる。」(榎本宗次「庄内藩」、児島幸多・北島正元編「東北・北関東の諸藩」人物往来社、1966◇「第二期物語藩史」の「1」に所収より引用)


(続く)

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○174の2『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代初期の藩体制(米沢藩)

2021-03-12 12:42:32 | Weblog
174の2『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代初期の藩体制(米沢藩)

 まずは、関ヶ原の戦いの後、上杉家の変遷がしばらくどのようなものであったかを、振り返ってみたい。

 顧みれば、前田利家の病死により、秀吉の跡目は家康が手の届くところに来ていたのではなかろうか。そして、五大老として残った上杉家や毛利家の力だけではもはや家康が次の天下人に上ろうと蠢くのを阻むことはできなかった。家康は、関ヶ原の前から多数派工作を進めており、上杉方は関東の後背地にあり、それらができにくい地理にもあったのだろう。
 かくして、関ヶ原に勝利した家康としては、上杉を名実ともに潰したかったのだろうが、まだ秀吉恩顧の大名が多数いるなかでは、無理はできなかったに違いあるまい。それでも、上杉120万石を大方無紙の勢力にしてしまうのに迷いはなかったものと認められよう。

 参考までに、文豪、藤波周平の「雲奔るー小説雲井龍雄」から、米沢藩の発足時の状況を述べてあるところを、しばし紹介させていただこう。
 「文久三年二月、屋代郷三万七千石を、米沢藩の私領に準じると幕府の下命があった日、米沢藩では家老以下下士に至るまで、終日酒を飲み、狂喜乱舞したと口碑は言う。口碑は、あるいは誇張に過ぎる部分があるかも知れない。しかし当時の米沢藩士の心情からさして遠いものではなかったことも事実である。藩財政はそれほど逼迫していた。
 もっとも米沢藩の財政は、はじめから逼迫していた。
 慶長五年の関ヶ原の役のよき、西軍に味方した上杉家は、翌六年七月に至って漸く徳川家と和解したが、上杉景勝の所領会津百二十万石は削られ、上杉家の宰相直江兼続の所領伊達、信夫、置賜の三郡、高三十万石だけが残された。
 景勝は、戦のために雇い入れた浪人に暇を出しただけで、五千余人の譜代の家臣をそっくり伴って米沢領に移っている。実質的には、直江兼続が、自領内に主君景勝以下を引きとった形になった。
 百二十万石の世帯を、三十万石の器にそのまま収容したのは異常だが、その背景には、覇権を握った徳川に対する、上杉の険しい警戒心が存在したようである。
 直江兼続は、慶長九年に家康の寵臣で和睦を斡旋した本多正信の次男佐兵衛正重を養子とし、のちに長女を娶らせるなど外交的な手を打つ一方、同じ年には近江国住友村から鉄砲師吉川総兵衛を、泉州堺から和泉屋孫右衛門を招き、領内の関村白布高湯で鉄砲を製造させ、年末には家中に鉄砲鍛錬の規則を発令している。移封当時、城下に仮住まいを余儀なくされていた家中藩士を収容すべき屋敷割が、移封後八年経った慶長十四年に漸く出来上がったが、出来上がった町割は、堅固な軍防の都市であった。
 米沢に移封された翌年、米沢城はただちに三ノ濠を普請している。この城を中心に大手門前に家中で最も家柄の高い侍組九十六家、南には謙信以来の武勇を誇る馬廻組、西に景勝が新発田を攻めたときに武功抜群だった直参の五十騎組、北側に直江兼続直参の与板組を配し、その周辺の出入口に下級藩士を配った。道は鈎の手、袋小路を用い、鉄桶で城を囲んだようであった。
 城下町の外にも、家中を配置している。ひとつは町自体が狭隘で、藩士すべてを収容しきれなかったためだが、ひとつは明らかに城下町の外廊に武備を配り、食料の自給自足を兼ねさせたのである。
 米沢が伊達領であった時代に、鷹場であった松川扇状地の南原、松川対岸の東原に屋敷割して、ここに下級藩士を住まわせた。これらの下級藩士たちは、初めから半士半農で、軍防の尖端に位置すると同時に、開墾に従った。後に軍事の色彩が薄れるに従って「原方の糞掴み」と言われた、原方衆の初めである。
 原方郷士は、このほかに領内館山、玉庭、勧進代新地に置かれ、また周辺の各村に、上杉家大身の家家の陪臣が居住した。
 米沢の寺寺は、いまも万年燈と呼ぶ独特の形をした墓石を残している。内部をくり抜き、前面に短冊型の十ばかりの小窓を載った墓石である。直江兼続が指令した遺構で、墓石は外敵を迎えたとき、積み上げて石塁とし、小窓はただちに銃眼に変るものであった。墓石はまた、城の脇を流れる掘立川を堰とめ、短時間に濠に変えるための積み石でもあった。上杉家中の子弟は、墓石をすばやく解体し、堀立川に運んで濠にする訓練を、水包みまたは七日浴びと称えて、兼続以来毎年夏の心身鍛錬の行事とした。
水包みは連綿幕末まで続き、雲井龍雄も十一の時から参加し、十五の年には頭取として訓練の采配をとっている。
 このように米沢藩一国の武備は漸く整ったものの、百二十万石を三十万石に収めた無理は随所にあらわれ、藩は最初から、苦しい財政のやりくりに追われた。とくに米沢移封後の仮住まいの期間は、移封に先立って景勝が食邑を三分の一に減じたこともあって、家中の動揺も激しかった。「あらぬ徒事をたくみ、弱者を結び付、雑説を言い廻し」不義を働く気持ならば、事前に暇を申し出ろと藩命が出たのは慶長八年であり、また翌年には、譜代、浪人によらず「田地をも開作せず、あきないもいたさず、むざとこれあるもの其村に置べからず、宿かすまじき事」と、厳しい命令が出されている。逃亡する藩士がおり、郷村に対し侍を捉えた場合は褒美を与えるという触れが出された。
 慶長十二年に家中に出された法度は、公儀の沙汰、家中の是非ということを禁じた上、上衣には紬、木綿、布子、紙子のほかは着てはならない。菜園をつくり、薪のしまつ、垣の手入れを自分でせよ、と厳しく定め、京、江戸との往来にも借銭するな、その場合は一紙半銭の費えを慎んで、土産物は扇子一本、帯一筋でも買ってはならないと命じている。
 仮住まいの間の家は、藁葺きの掘立小屋で、屋内は土間に籾殻をしき、その上に藁筵を敷いた。間仕切りは葦簀であった。年に一度百姓が籾殻、藁を持参して、屋根を葺替え、下敷きの籾を取替えて、古物を持ち帰り肥料にした。
 米沢藩家中が直面した窮乏はこのようなものであったが、百姓もまた年貢のほかに、百石につき銀五十匁を上納するという過酷な課徴を強いられている。」(藤波周平「雲奔るー小説雲井龍雄」(中公文庫版、第一部二より引用)


(続く)

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♦️962「自然と人間の歴史・世界篇」バイデン政権の景気対策へ批判(共和党など、2021.2~3)

2021-03-11 21:00:47 | Weblog
962「自然と人間の歴史・世界篇」バイデン政権の景気対策へ批判(共和党など、2021.2~3)


 まずは、バイデン政権による景気対策案の紹介から、しばし引用させていただこう。


「PolicyDeficit impact, 2021-2031
Ways & Means$923 billion
Provide $1,400-per-person stimulus checks $422 billion
Extend unemployment programs through August 29 with a $400/week supplement $246 billion
Expand Child Tax Credit, Child Care Tax Credit, and Earned Income Tax Credit mostly for one year$143 billion
Provide grants to multi-employer pension plans and change single-employer pension funding rules$58 billion
Temporarily expand ACA subsidies for two years and subsidize 2020 and 2021 coverage$45 billion
Extend paid sick leave and employee retention credit$14 billion
Subsidize COBRA coverage for laid-off workers*$8 billion
Repeal rule allowing multinational corporations to calculate their interest expenses including foreign subsidiaries-$22 billion
Other policies$9 billion
  
Oversight & Reform$350 billion
Provide money to state governments$195 billion
Provide money to local governments, territories, and tribes$155 billion
Create paid COVID leave for federal workers and other policies$0.4 billion
  
Education & Labor$290 billion
Provide funding for K-12 education$129 billion
Provide funding for colleges and universities$40 billion
Increase the federal minimum wage to $15/hour by 2025$54 billion
Provide support for child care, grants to child care providers, and Head Start$40 billion
Subsidize COBRA coverage for laid-off workers*$10 billion
Extend nutrition assistance in place of school lunch for the duration of the emergency and other food assistance$7 billion
Human services, labor programs, and other policies*$11 billion
  
Energy & Commerce$122 billion
Increase funding for testing and contract tracing$50 billion
Increase public health workforce and investments$19 billion
Fund vaccine distribution, confidence, and supply chains$16 billion
Increase Medicaid payments to states that newly expand Medicaid under the ACA$16 billion
Allow states to expand Medicaid coverage for prisoners close to release and for pregnant and postpartum women for 5 years$9 billion
Remove the cap limiting how much drug manufacturers must rebate to Medicaid for drugs that have increased quickly in price-$18 billion
Other policies*$31 billion
  
Transportation & Infrastructure$90 billion
Increase funding for the Disaster Relief Fund and cover funeral expenses related to COVID$47 billion
Provide grants to transit agencies $28 billion
Provide grants to airports and aviation manufacturers$11 billion
Provide grants to communities under economic stress$3 billion
Grants to Amtrak and other transportation-related spending$2 billion
  
Financial Services$71 billion
Provide emergency rental assistance and assist homeless$30 billion
Provide grants to airlines and contractors to freeze airline layoffs through September$12 billion
Use Defense Production Act to buy and distribute medical supplies$10 billion
Provide mortgage payment assistance$10 billion
Reauthorize and fund the State Small Business Credit Initiative$9 billion
  
Small Business$50 billion
Provide grants to restaurants and bars that lost revenue due to the pandemic$25 billion
Provide additional EIDL Advance grants of up to $10,000 per business$15 billion
Allow more PPP loans and expand eligibility to certain non-profit and digital media companies$7 billion
Other policies$3 billion
  
Veterans’ Affairs$17 billion
Provide funding for health care services, facilities, and copays for veterans$16 billion
Fund job training assistance programs for veterans and other VA administrative costs$1 billion
  
Agriculture$16 billion
Increase nutrition assistance$6 billion
Pay off loans and other programs for socially disadvantaged farmers$5 billion
Purchase and distribute food to needy individuals$4 billion
Testing and monitoring for COVID in rural communities and among animal populations$1 billion
  
Foreign Affairs (no legislation reported yet)$10 billion
  
Natural Resources (no legislation reported yet)$1 billion
  
Science, Space, & Technology (no legislation reported yet)$1 billion
  
Total*$1.927 trillion
Source: CRFB calculations from Congressional Budget Office and House Budget Committee documents.」(「What's in the $1.9 Trillion House COVID Relief Bill?」(2.18.2021))(USA TODAY「Fact check :Break down spending in the COVID-19 relief bill」)

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論評の紹介(1)

 まずは、「COVID Relief Bill Losing Focus as Details Emerge」(2.17.2021)の「要約」の記事から、紹介しよう。

“The goal of COVID relief is to end the pandemic, protect incomes, and support the economic recovery. The House bill not only spends far more than is needed to achieve these goals, but also puts too many of these plentiful dollars in the wrong places.
Only about 1 percent of the entire package goes toward COVID vaccines, and 5 percent is truly focused on public health needs surrounding the pandemic. Meanwhile, nearly half of the package will be spent on poorly targeted rebate checks and state and local government aid, including to households and governments that have experienced little or no financial loss during this crisis.
More than 15 percent of the package – about $300 billion – is spent on long-standing policy priorities that are not directly related to the current crisis.
Perhaps most concerning, the House Ways & Means Committee appears to have made space for the pension bailout by only extending expanded unemployment benefits through August, cutting them off a month earlier than President Biden proposed, and many months earlier than they should be. These multiemployer pensions have been on shaky ground for some time and ought to be dealt with transparently, where lawmakers can appropriately finance and reform these plans. The financial status of these funds shouldn’t be addressed in a piece of crisis legislation, and certainly not at the cost of benefits for unemployed workers. Frankly, no member of Congress should be willing to defend this.
In addition to this pension bailout, the bill includes a number of other long-standing priorities, such as expanding the child tax credit and earned income tax credit, increasing Affordable Care Act subsidies, and boosting the minimum wage. These policies don’t belong in a COVID relief package, and should be fully  if retained.
This legislation is supposed to be about ending the pandemic, reviving the economy, and providing Americans the financial relief they need to make it through this tough stretch. We support a targeted package that does just that. It is disappointing to see House committees straying from that mission. It’s time to refocus」


 そもそもトランプ前政権下で昨年12月に決まった、約9000億ドルの新型コロナ対策のほとんどがまだ使われていないと、の批判のほか、見られるように、狭い意味での新型コロナ禍への対応というよりも、かなりの程度生活全般の再建に重みを持たせた中身となっているようだ。

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(続く)

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♦️269の8『自然と人間の歴史・世界篇』自営農地法(1963、アメリカ)

2021-03-10 22:03:44 | Weblog
269の8『自然と人間の歴史・世界篇』自営農地法(1963、アメリカ)

 アメリカの開拓者精神を可能にした法的枠組みとしては、よく知られているように「公有地の事実上の入植者に自営農地を取得させる法律」(自営農地法)があり、その第1項には、こうある。

 「何人も、一家の長か21歳に達した者で合衆国市民である者、または合衆国市民たらんとする意志を合衆国の帰化法の定めに従って表明した者で、かつ合衆国に武力で敵対した合衆国政府の敵対者に援助を与えたりしたことがない者は、1863年1月1日以降、一区画として存在し、公有地の正式な分割法に合致し、測量の完了した土地であって、同人がすでに先買権の請求をおこなっているか、あるいは申請時において1エーカー1ドル25セントまたはそれ以下の価格で先買権の対象とされている4分の1セクション(160エーカー)またはそれ以下の面積の未占有の公有地、あるいはまた、1エーカー2ドル50セントの価格で80エーカーまたはそれ以下の未占有の公有地に入植する権利を認められる。

 ただし、ある土地を所有し、またはそこに居住する者が、本法の規定によって同地に隣接するとを取得し占有している土地と合わせて160エーカーを超えてはならない。(中略)

第2条
 (前略)申請者は、この宣誓書を登記係官または会計係官に提出し、10ドルを支払うことによって、特定の土地へゆ入植が許可される。ただし、この登記の日から5か年を経過するまては、いかなる権利証書とその土地について発行されることはない。
 
第8項
 本法のいかなる規定も、本法第1項の適用を受けた人物が、法律により定められた他の事例と同様、入植した土地について、5か年の経過以前に先買権を付与する現行の法律の規定にしたがって定住と耕作の事実を証明し、最低価格またはその変更された価格を支払うことによって政府から公有地譲渡証書を取得することを妨げるものではない。」

 これにあるように、政府は、5年にわたる当該の土地への居住と開墾耕作を条件に、160エーカーまでの公有地の取得を認める。
 そうはいっても、第8項のただし書きには、「この登記の日から5か年を経過するまでは、いかなる権利証書とその土地について発行されることはない」とあり、5年を待たずに先買権への切り換えを認めているのは、投機をもくろむ業者たちがこの規定を拠り所に暗躍する可能性を秘めており、事実そのようになった事例も数々あったようだ。


(続く)

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♦️269の5『自然と人間の歴史・世界篇』西部開拓の時代(映画にちなんで)

2021-03-08 10:51:19 | Weblog
269の5『自然と人間の歴史・世界篇』西部開拓の時代(映画にちなんで)

 アメリカの西部開拓時代をあやどる一つとしては、西部劇があろう。折しも、自分のやりたいことをどうやって実現するのかに急な時代であったろう。
 ここでは、あまたの物語のうち、次の二つを選び、その下地なり背景となっている環境なりの中からかいつまんで紹介しよう。
 まずは、「OK牧場の決闘」(1955)から。アリゾナ州南東部の町トゥムストーンを舞台にしての、ワイアット・アープと、牧場経営で牛泥棒も手にしているアイク・クラントン一味の話は、西部劇では定番であり、何度も出てくる。代表的な一作たる、この作品はジョン・スタージェスの「ゴーストタウンの決闘」「ガンヒルの決闘」とともに有名だ。
 それに、ディミトリー・ティオムキン作曲、フランキー・レインの主題歌も、哀愁と両陣営の決闘を醸し出す調べに違いない。

 およその話の筋はこうだ。当時のトゥムストーンは、銀山経営や材木などでにぎわっていたようで、この街にいる兄のヴァージルから応援に来てくれの連絡があり、友人で医者のドク・ホリディもいっしょに付いてきた。一方、クラントンらは、メキシコからの大仕掛けの牛泥棒をしている上に、町にやって来ては無法に振る舞っていた。

 ワイアットは彼らを押さえるためにシェリフより上の連邦マーシャルに任命してもらい、クラントンの犯罪を押さえ込もうとするのだが、従う相手ではない。クラントンは闇討ちでワイアットを狙おうとして、末弟のジミーを間違って撃ち殺しまう。
 つまるところ決闘になり、町外れの馬置き場OKコラルを舞台に散弾銃を撃ち合って勝負がつく。

 その後の酒場において、ワイアットは恋人とともにカリフォルニアへ向かうといい、ドクに向かって、西部を渡り歩くのをやめて、そろそろ落ちついたらとうかと忠告する。ドクの方は、そうはいっても酒や博打をやめられないようであり、二人は再会を約してであろうか、ワイアットはトゥムストーンの酒場を後にするという筋書きとなっている。

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 二つ目は、「シェーン」(1953)であり、こちらは社会派作品というべきか。
 ジャック・シェーファーの小説を、ジョージ・スティーヴンスが映画化したものだ。
 舞台は、南北戦争後の西部ワイオミングだ。大いなる山の見えるところに大地が広がっており、そこに暮らす、マリアンとジョーの夫婦と幼い息子ジョーイのスターレット一家が、まずある。

 そこにある日、流れ者のガンマン、シェーンが馬に乗ってやって来る。時に、さしたる用事があったわけではないようで、たまたま開拓農民の息子ジョーイを筆頭に一家三人と仲良くなり、しばし納屋に寝泊まりして働くことになる。
 しかし、この地においては、悪徳牧場主ライカーらと農民たちの関係が悪化していた。農民たちを追い出したい側は、殺し屋を雇い、あれこれと暴力をまじえてのいやがらせを行う(✳️)。そうこうするうちにまた一人、立ち上がった農民が殺されてしまう。
 なんとか我慢するしかないと決めていたジョーも、仲間とともになんとかしようとする中、シェーンは先回りをして単身でライカー一味との対決に向かうことになっていく。
 そんな通りががりの身なのに、一家に別れを告げることなく、決闘のために町へと向かうシェーンに、ジョーイは強い者に憧れるというか、後を追う。

 町ではシェーンと相手方数人との撃ち合いがあり、シェーンが勝ち、この地を立ち去る成り行きとなる。そのときにジョーイに話したのは、お父さんを誇りにして生きていくように(台詞としては「世の中でいちばん勇敢で立派なのは君のお父さんなんだよ」)、というのであった。

 シェーンは、世の中がやがて落ちついていくだろうこと、その中でも独立自営農民としての生き方が国の基本となっていくだろうことをわかっていたようだ。
 だから、自分たちガンマンの時代ははや過ぎ去ろうとしているのであって、シェーンは、冒頭のシーンに出てくるあの大いなる山の方角に、馬に乗って立ち去っていく。

(✳️)ちなみに、ジョージ・スティーヴンスが監督して撮った西部劇は、彼の映画人生において「シェーン」のみだという。そんな中でも、1892年4月、ワイオミング州ジョンソン郡で土着の牧場主たちが開拓移民らを虐殺した、いわゆる「ジョンソン郡戦争」があった。それを正面からとらえて見せたのは、今ではマイケル・チミノ監督の「天国の門」と知れているものの、そのことを「シェーン」でも何かしら連想させる出来上がりになっているのではないだろうか。



(続く)

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