960『自然と人間の歴史・世界篇』既得権益と観念(ケインズの経済思想)
親しみ慣れた教条(ドグマ)でも、今日も使えるかどうかはわからない。ケインズの経済思想というのは、よく知られているように資本主義内の改善なり改革であって、いわんや今日でいう「社会民主主義」でもない。しかしながら、当時の経済学の常識を理論でもって覆したということでは現在に繋がる一大潮流をつくった。
その意味合い限りでは、資本主義の経済法則を働く者の立場から解き明かしたマルクスの仕事に優るとも劣らない、人類史的意義を持っているのではないだろうか。
1936年に世にとうた著書において、彼はこんな話を載せている。
「これらの観念の実現は架空的な希望であろうか。かれらは果たして政治的社会の発展を支配する諸動機のうちに不十分な根底しかもたないものであろうか。それらによった阻害される利益は、それらによって増進される利益よりも強く明白なものであろうか。
私はここではその解答を企てない。それらの観念を漸次(ぜんじ)具現してゆくための実際的な方策をその輪郭において示すことでさえ、本書とは別個の性質のいま一冊の著書を必要とするであろう。
しかし、もし観念にして正しいならばーこのことは著書自身がその叙述を必然的にそのうえに築かなければならない仮説であるー、その効能を長期にわたって論議することは間違っている、と私は予言しておく。
現在人々はいっそう根本的な診断を切に待望しているのであって、それを受け入れようとする心構えはとくに強く、仮にそれがもっともらしいと思われる程度のものであっても、しきりにそれを徹底的に試してみようと願っている。
しかし、このような現在の気運は問わないとしても、経済学者および政治哲学者の観念は、それらが正しい場合にもまた間違っている場合にもともに、一般に理解されているよりははるかに有力である。事実世界を支配するものはそれらのほかにはほとんどないのである。
如何なる知的影響からもまったく解放されていると自ら信じている実際家たちも、すでに亡くなったある経済学者の奴隷であるのが常である。空中に声を聴く権威をもった狂人たちも、2、3年前のある学究的乱筆家から、彼等の気ちがいじみた考えを抽出しつつある。
私は、既得権益の力は観念の漸次的な侵略に比べて著しく誇張されていると確信する。もちろん、観念の侵略はただちにではなく、若干の期間の後において、行われるであろう。なぜなれば、経済および政治哲学の分野においては、25ないし30歳以後において新しい理論によって影響される者は多くなく、したがって官吏にしても政治家にしてもまた煽動家でさえも日々の出来事に対して適用する観念は最新のものではないように見えるからである。
しかし、おそかれ早かれ、よかれ悪しかれ危険となるものは、既得権益ではなくて観念である。」(ジョン・メイナード・ケインズ著、塩野屋九十九(しおのやつくも)「雇用・利子および貨幣の理論」の第6編「一般理論の示唆に関する若干の覚書」東洋経済新報社、1941)
この最後の下りの、「よかれ悪しかれ危険となるものは」とは、「究極的な影響を与えつづけるのは」と、「既得権益ではなくて観念である」も「既読権益ではなく、思想である」と別に翻訳されていることからもわかるように、ケインズとすれば誠に「のるかそるか」の理想主義の意気込みで述べたのだと察せられよう。
(続く)
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親しみ慣れた教条(ドグマ)でも、今日も使えるかどうかはわからない。ケインズの経済思想というのは、よく知られているように資本主義内の改善なり改革であって、いわんや今日でいう「社会民主主義」でもない。しかしながら、当時の経済学の常識を理論でもって覆したということでは現在に繋がる一大潮流をつくった。
その意味合い限りでは、資本主義の経済法則を働く者の立場から解き明かしたマルクスの仕事に優るとも劣らない、人類史的意義を持っているのではないだろうか。
1936年に世にとうた著書において、彼はこんな話を載せている。
「これらの観念の実現は架空的な希望であろうか。かれらは果たして政治的社会の発展を支配する諸動機のうちに不十分な根底しかもたないものであろうか。それらによった阻害される利益は、それらによって増進される利益よりも強く明白なものであろうか。
私はここではその解答を企てない。それらの観念を漸次(ぜんじ)具現してゆくための実際的な方策をその輪郭において示すことでさえ、本書とは別個の性質のいま一冊の著書を必要とするであろう。
しかし、もし観念にして正しいならばーこのことは著書自身がその叙述を必然的にそのうえに築かなければならない仮説であるー、その効能を長期にわたって論議することは間違っている、と私は予言しておく。
現在人々はいっそう根本的な診断を切に待望しているのであって、それを受け入れようとする心構えはとくに強く、仮にそれがもっともらしいと思われる程度のものであっても、しきりにそれを徹底的に試してみようと願っている。
しかし、このような現在の気運は問わないとしても、経済学者および政治哲学者の観念は、それらが正しい場合にもまた間違っている場合にもともに、一般に理解されているよりははるかに有力である。事実世界を支配するものはそれらのほかにはほとんどないのである。
如何なる知的影響からもまったく解放されていると自ら信じている実際家たちも、すでに亡くなったある経済学者の奴隷であるのが常である。空中に声を聴く権威をもった狂人たちも、2、3年前のある学究的乱筆家から、彼等の気ちがいじみた考えを抽出しつつある。
私は、既得権益の力は観念の漸次的な侵略に比べて著しく誇張されていると確信する。もちろん、観念の侵略はただちにではなく、若干の期間の後において、行われるであろう。なぜなれば、経済および政治哲学の分野においては、25ないし30歳以後において新しい理論によって影響される者は多くなく、したがって官吏にしても政治家にしてもまた煽動家でさえも日々の出来事に対して適用する観念は最新のものではないように見えるからである。
しかし、おそかれ早かれ、よかれ悪しかれ危険となるものは、既得権益ではなくて観念である。」(ジョン・メイナード・ケインズ著、塩野屋九十九(しおのやつくも)「雇用・利子および貨幣の理論」の第6編「一般理論の示唆に関する若干の覚書」東洋経済新報社、1941)
この最後の下りの、「よかれ悪しかれ危険となるものは」とは、「究極的な影響を与えつづけるのは」と、「既得権益ではなくて観念である」も「既読権益ではなく、思想である」と別に翻訳されていることからもわかるように、ケインズとすれば誠に「のるかそるか」の理想主義の意気込みで述べたのだと察せられよう。
(続く)
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