サラ☆の物語な毎日とハル文庫

松岡正剛氏はスティーブンソンがうらやましくて仕方がない?

松岡正剛氏のWEBページに『千夜千冊』というものがある。
古今東西の本を取り上げ、博学ぶりを駆使して、深く掘り下げる。
書評自体が読み応えがあり、参考文献としても役に立つ。

そこでロバート・ルイス・スティーブンソンについて検索してみると、『ジーギル博士とハイド氏』の項でスティーブンソンについて論評していた。

ところで…。

書評の展開はこうだ。松岡氏はこう語る。
「スティーブンソンのような幸福な生涯もあるものだ。
『ジーギル博士とハイド氏』はわずか数日で書き上げて、大ヒットした。
30歳後半からは南太平洋の島が好きになってここへ移住、島民たちから“ツシタラ(酋長)”と慕われ、世界中の訪問者をもてなしながら暮らした。
まことに羨ましい生涯である。」

そして、マネをしたいなら3つの条件がいる、と論を展開する。
①「子ども時代からずっと病弱であることだ。」
②「文才があって、執筆に静かな環境を選びたがることである。」
③「深い思索や哲学などに溺れないことである。ごくごくバランスのとれたコモンセンスとユーモアで生きられることが必要なのである。」

次に、「こんな羨ましい人生を送ったスティーブンソンが、なぜ永遠の名作を次々に書けたのか」と結論へつき進む。
なぜなら……「スティーブンソンがジーギル博士とハイド氏の二重人格を書いたことは、この『好もしからざること』の表明だった。……悪はあくどく、悪人はあざとく描かれている必要がある。スティーブンソンがした基本的なこととはこれなのである。」
「……ペルソナの葛藤こそ、イギリス人がそれを卓越することを好んできたテーマなのである。ペルソナ(仮面性)とはパーソナルの語源であって、パーソナリティの根本にある動向のことを言う。スティーブンソンはそうした英語の背後にある意味のアンビバレンツにも長じていた」

そして、スティーブンソンの小説を“午後の紅茶”として位置づける。
(スティーブンソンに限らず、イギリス文学は…と言ってるんだけど。)

松岡氏によるスティーブンソンの生涯への言及の部分は、いくつもの間違いがある。
(「よしだみどりさんの伝記と照らし合わせると」だが、よしだみどりさんのほうが詳しいし、真剣に取り組んでいるし、正しいと思うのだ。)
諧謔的というのはこういうことを言うのかしらん?

生涯にわたって肺疾患を抱え、死と隣り合わせの日々を送り、ときにはベッドで執筆を続けざるを得なかったスティーブンソンの生涯が、そんなに羨ましいか?
故国イギリスに帰りたくてオーストラリアのシドニーに2度寄港するが、結局体調を大きく壊し、寒い気候の地域に行くのは無理と、帰国を断念せざるを得なかった病弱さが羨ましいだろうか?

書くことでしか、家族を養えないために、病状を押して書き続けた作家が、そんなに羨ましいだろうか?

哲学に溺れることが「人生の深みを知ること」であり、そうでない人間は「人生の深み」を知ることができないと、本気で思っている?

ざっくばらんに言えば、この松岡氏のスティーブンソンへの書評に腹が立ったのだ。
だから、こうくどくど書いている。
どんなふうに書いても、そこは個人の自由だけど、故人の尊厳を傷つけるようなもっていきかたはよくないと思う。
「そうじゃないよ。そんなことを言うあんたこそ、理解力不足。おれはそうは言ってない」という松岡氏の声も聞こえてきそうだけど、文章を読めばそう受け取ってしまうのだから仕方がない。
皮肉で逆説的な文章は反感を買うのだ、ご用心!!

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