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おはようございます!中小企業診断士のあお先生こと青木公司です。
本日は大手企業で対立交渉研修の講師を行います。
こちらリピート案件です。
9:00から17:00までこの研修の講師をしますがその後も
17:40-18:20 銀座で東京都中小企業診断士協会の10士業よろず相談会の打ち合わせ
19:00-20:30 人形町で東京都中小企業診断士協会中央支部のビジネス創造部の打ち合わせです。
今日も忙しいけど、がんばります!!!
本日、最初のブログは、僕のDNA、生涯1自衛官、青木昭三の生き様と僕への期待について
僕の父は、無骨で真面目で、仕事一筋な人でした。
お酒も飲まず、必死に働いていました。
調子よく立ち回ることはできず、そのため、家族にも誤解されることがある父でした。
非常に厳しく、時には鉄拳も振るうため、子供の頃は青木も怖い父という印象しかありませんでした。
うちの父は、親族の人に聞くと、子供のころから、勉強も運動もかなりできたそうです。
しかし、家庭の事情で、高校へも行けませんでした。
中学卒業後、市役所や蕎麦屋などで働き、自分の兄弟を育てるために働き、自分の兄弟は高校にも入れました。
そしていろんな仕事を経験し、19歳で給料がいいからという理由で航空自衛隊に入隊します。
そんな中、訓練中に、たまたま事務をしていた事務官が倒れたとのことで、市役所勤めの事務能力を買われて、急遽、人事の仕事に抜擢されます。
以後、自衛隊の人事畑一筋で定年まで本当にがんばりました。
自衛隊の大きな2つの事件(これはここでは書けません)の担当を行い、大変な事件を乗り切ったそうです。
本当につらい家族の事情で、中学まで成績優秀だった父が中卒で働き、夜間高校は仕事の都合であと半年のところで退学させられた父でしたが、2佐まで昇進(普通、高卒以下で2佐までいくことはそうはないそうです)。
それでも自分が学歴がないことを本当に悔やんでいました。
自衛隊を54歳で定年退官した後も、三井住友クレジットで64歳まで働きました。
そんな真面目な父は昨年、4月に国から勲章をいただく名誉をいただきました。
本当に喜んでおり、防衛大臣から叙勲式で勲章をもらい、皇居に拝謁にいくのを楽しみにしていました。
その直後の5月頭、敗血症になり3ヶ月苦しみ、2009年7月17日。亡くなりました。
青木が子供時代、無骨で非常に厳しい父とは折り合いが悪かったのですが、大学生の時、ロス・アンジェルスにホームステイにいくために、一年アルバイトしてお金をためてお金を払うときになって、父が全額お金を出してくれました。
「お前が必死にためたその金は、今度、お前が本当に必要なときに使うため、とっとけ。」
父の優しさでした。
就職活動の頃からはいつも父は青木の味方でした。
それまで非常に厳しかった父ですが
就職先を決定するとき、そして独立するとき。
いつも青木が決定する方向性を無条件に承認してくれました。
青木が会社を辞めて、独立することを告げるとこういってくれました。
「お前は、自分の道を間違えない男だ。どんな道を選んでも、うまくやっている男だ。俺はお前を信頼している。やりたいようにやれ。ただ、健康だけには気をつけろ。」
人事畑一筋。何万人もの自衛隊員の名前と特徴が言えるほどで、人の本質を見る目が評判だった父ですが、きっと子供を思うよく目でしょう。
しかしその力強い全面的な承認は僕にとって、強い力となりました。
2009年、父が71歳で亡くなりました。
まだまだ教えて欲しいことはたくさんありましたが、もうかないません。
しかし、父の遺伝子は僕の中で強く流れています。
「青木公司」という僕の名前。
父が「公(おおやけ)を司(つかさ)どる立派な漢(おとこ)になるように」
という思いをこめて付けてくれたそうです。今はまだ名前負けしています。
おやじ!俺は、いつかきっと!名前負けしない男に必ずなる!
その日を楽しみにしていてください。
父が僕に、自分が成し遂げなかったことも含め、とても高い期待をしてくれていたのはわかっています。
その期待を、いつか・・・。
いつかきっと。
さらに強力に成長して成し遂げて見せたいと思っています。
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本日は大手企業で対立交渉研修の講師を行います。
こちらリピート案件です。
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17:40-18:20 銀座で東京都中小企業診断士協会の10士業よろず相談会の打ち合わせ
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本日、最初のブログは、僕のDNA、生涯1自衛官、青木昭三の生き様と僕への期待について
僕の父は、無骨で真面目で、仕事一筋な人でした。
お酒も飲まず、必死に働いていました。
調子よく立ち回ることはできず、そのため、家族にも誤解されることがある父でした。
非常に厳しく、時には鉄拳も振るうため、子供の頃は青木も怖い父という印象しかありませんでした。
うちの父は、親族の人に聞くと、子供のころから、勉強も運動もかなりできたそうです。
しかし、家庭の事情で、高校へも行けませんでした。
中学卒業後、市役所や蕎麦屋などで働き、自分の兄弟を育てるために働き、自分の兄弟は高校にも入れました。
そしていろんな仕事を経験し、19歳で給料がいいからという理由で航空自衛隊に入隊します。
そんな中、訓練中に、たまたま事務をしていた事務官が倒れたとのことで、市役所勤めの事務能力を買われて、急遽、人事の仕事に抜擢されます。
以後、自衛隊の人事畑一筋で定年まで本当にがんばりました。
自衛隊の大きな2つの事件(これはここでは書けません)の担当を行い、大変な事件を乗り切ったそうです。
本当につらい家族の事情で、中学まで成績優秀だった父が中卒で働き、夜間高校は仕事の都合であと半年のところで退学させられた父でしたが、2佐まで昇進(普通、高卒以下で2佐までいくことはそうはないそうです)。
それでも自分が学歴がないことを本当に悔やんでいました。
自衛隊を54歳で定年退官した後も、三井住友クレジットで64歳まで働きました。
そんな真面目な父は昨年、4月に国から勲章をいただく名誉をいただきました。
本当に喜んでおり、防衛大臣から叙勲式で勲章をもらい、皇居に拝謁にいくのを楽しみにしていました。
その直後の5月頭、敗血症になり3ヶ月苦しみ、2009年7月17日。亡くなりました。
青木が子供時代、無骨で非常に厳しい父とは折り合いが悪かったのですが、大学生の時、ロス・アンジェルスにホームステイにいくために、一年アルバイトしてお金をためてお金を払うときになって、父が全額お金を出してくれました。
「お前が必死にためたその金は、今度、お前が本当に必要なときに使うため、とっとけ。」
父の優しさでした。
就職活動の頃からはいつも父は青木の味方でした。
それまで非常に厳しかった父ですが
就職先を決定するとき、そして独立するとき。
いつも青木が決定する方向性を無条件に承認してくれました。
青木が会社を辞めて、独立することを告げるとこういってくれました。
「お前は、自分の道を間違えない男だ。どんな道を選んでも、うまくやっている男だ。俺はお前を信頼している。やりたいようにやれ。ただ、健康だけには気をつけろ。」
人事畑一筋。何万人もの自衛隊員の名前と特徴が言えるほどで、人の本質を見る目が評判だった父ですが、きっと子供を思うよく目でしょう。
しかしその力強い全面的な承認は僕にとって、強い力となりました。
2009年、父が71歳で亡くなりました。
まだまだ教えて欲しいことはたくさんありましたが、もうかないません。
しかし、父の遺伝子は僕の中で強く流れています。
「青木公司」という僕の名前。
父が「公(おおやけ)を司(つかさ)どる立派な漢(おとこ)になるように」
という思いをこめて付けてくれたそうです。今はまだ名前負けしています。
おやじ!俺は、いつかきっと!名前負けしない男に必ずなる!
その日を楽しみにしていてください。
父が僕に、自分が成し遂げなかったことも含め、とても高い期待をしてくれていたのはわかっています。
その期待を、いつか・・・。
いつかきっと。
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