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文楽初日

2008年04月05日 | masudaizumi.com
桜も満開、気候もよく、暖かい日となりました。

今日はお出かけされた方も多かったと思います。

私は文楽初日で劇場へ。

桜の満開の帯をしめた、ある奥様のお着物。「うわ===素敵ですね」と、後ろ、前、とぐるぐる廻ってしまいました。


リトルは「文楽にいくの」と朝から興奮していましたが、劇場内では頑張って15分ほど、小さな手を口にあてて「シ===」といいながら静かにして椅子に座っていられるようになりました。


とはいえ、まだまだ2歳になったばかりです。
「もう出る」といってロビーへでると、走り回っておりました。

今回の作品は、初めて観る「競伊勢物語」、そして私の大好きな「勧進帳」です。

それにしても、「競」とかいて、「はでくらべ」と読む、文楽の言葉遣いには、時々劇場の字幕と太夫さんの語りに真逆の意味での発音があったり、、現在での大阪弁でいう「自分」ってのと同じなのかな、あなたの意味なのに、われという発音とか、、うまく例がだせませんが、字幕をみてると、あれ?いま太夫さん間違ったんちゃう?と、こちらの勉強不足に驚かされます。

一階ロビーでテレビモニターの文楽の歴史を紹介するビデオを観ていると、昔は道頓堀に「竹本座」と「豊竹座」があって、明治時代には「近松座」「彦六座」「堀江座」「稲荷座」という劇場があったり、文楽が大衆の娯楽として定着していた、、、と聞くと、随分素敵な時代があったのだと、うらやましくなります。

きっと江戸歌舞伎と上方歌舞伎のように、それぞれの座によって語り方や芸風が違っていたのでしょう。

ちょっと調べてみたら、竹本義太夫さんは1684年 に大阪道頓堀に竹本座を建てましたそうな。

近松門左衛門の台本と語りの義太夫さんのコンビは、大阪中 の人気を独占。まるでモーツアルトとダ ポンテみたいなコンビですね。1703年に、竹本義太夫さんのお弟子さんが 豊竹若太夫と名乗り、豊竹座を起こしたそうな。モーツアルトが生まれたのは1756年ですから、義太夫さんのほうが先にご活躍ですが、似たような時代に、東西で、歴史に残る有名な作品が生まれているのですね。

竹本座は、人物の心理描写を重んずる地味で重厚な芸風、豊竹座は、華麗で技巧的という対照的な 芸風だったそうです。

竹本座では1746から1748年の3年間に、 「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」という名作が生まれたそう。

竹本、豊竹の名前を持つ現役の太夫さんの名前を再確認してしまいました。

その後に、植村文楽軒さんが淡路からでてきて、浄瑠璃の小屋をたてはったので、文楽さんの小屋、、、文楽座、、、といわれるようになったのですね。


いまでも難波神社では、桜が咲き誇るなか、ひっそりと「ここで文楽軒さんの息子さんによって、公演が催された、、、」という立て札がたっています。