先週の金曜日、NHKテレビで、「フィオレンツァ・コソット歌手生活50周年記念ガラ」の中継録画が再放送された。コソットと言えば、1973年のNHKイタリアオペラ団での初来日以来、日本でもお馴染みになった大歌手である。カラス、テバルディ、シミオナート、デルモナコ、バスティアニー二といった大歌手達の次の世代に属する歌手であり、その大時代の芸風を今に伝える貴重な存在であった。日本でもNHKイタリアオペラ団におけるレオノーラ(ラ・ファボリータ)、アダルジーザ、アムネリス、サントゥッツァ、ブイヨン后妃をはじめ、藤原歌劇団でのアムネリス、アズチェーナ、演奏会形式でのカルメンなどで、本当に素晴らしい舞台を見せてくれていて、古いオペラファンにはとても馴染み深い存在である。今回のガラは、そんな彼女の日本における芸暦を振り返るような選曲で、ファンとしては大層魅力的なものであった。私も大好きな歌手であったし、このガラの存在は知っていたのだが、今彼女を聞くということがとても怖くってチケットを手にすることを躊躇してしまっていた。そんな演奏会であったので、恐る恐る録画したビデオを見始めたのだったが、全ての心配は水泡に帰した。もはや、嘗てのクリスタルの様な声の輝きや長いブレスは無い。それは予想されていたものである。しかし、今となっては限られた力の中で確固としたバランスを保っていて、フォルムに寸分の乱れのないみごとな歌がそこにあった。更に全身全霊を傾けるひたむきな姿勢は確り生きており、全てのフレーズに生命が宿っているのである。これぞ本当の”歌”である。とりわけプログラムの最後に置かれた合唱付きのアムネリスの4幕アリアは圧巻で、それは大評判の新国の名舞台も敵わないような、深い精神ドラマを作り上げていたのには恐れ入った。まったく舞台の人である。歌うことが大好きな彼女らしく、ナポリターナを中心にした沢山のアンコールがあったが、どれもオペラの舞台のように全力を投入して歌ってしまうのはご愛嬌であったが、其の中に何と日本国歌の「君が代」があった。大好きな「日本」に敬意を表しての選曲と思うが、国の意識が希薄な我々にとっては、それは些か奇異なものだった。しかし、不動の姿勢で、極めて格調高く、思いを込めて見事な日本語で深々と歌われたその歌は、”国”の何たるか、”愛国心”の何たるかを我々の胸に深く刻みつけるものになった。これこそ「歌」の極意ではないか。アンコールの最後は、”忘れな草を貴方に”。それは世界中の有名歌劇場で大舞台を張った大オペラ歌手の心からのメッセージと受け取った。”忘れないで~”の最後のフレーズは日本語だった。大丈夫。「忘れません。貴方の素晴らしい舞台のことは。決して!」有難う。
今年のコンサートは第一部が東洋を題材にしたオペラということで、リムスキーコルサコフの「ムラータ」という馴染みのない曲でスタートした。舞台は色彩豊かな中央アジア風で、十分に雰囲気を盛り上げた。しかし「トゥーランドット」、「サムソン」、「真珠採り」、「ラクメ」、「イーゴリ公」と続くのだが、歌手達が今一不調で、盛り上がりに欠けるうちに一部は終了してしまった。しかしプッチーニの未公開映像を紹介したインターバルを挟んだ後半は、快調な実力者が集まり、本当に素晴らしい歌の競演となった。”妙なる調和”を歌った佐野成宏は、幾分発声を変えたようで、ストレートな感情表現が役に合っていた。幾分スレンダーになった砂川涼子の”私の名はミミ”は体とともに歌にも鋭さが加った。モーツアルトの珍しい「羊飼いの王様」からのアリアを歌った森麻季は、コケットリーな練れた歌声を披露。ウイーンで活躍する甲斐栄次郎の堂に入った”もう飛ぶまいぞこの蝶々”は、是非舞台で接してみたいと思わせるもの。逸材臼木あいのハムレットから狂乱の場は、完璧な技巧に裏づけられた見事な歌唱が新しいスター誕生を予測させるものであった。林正子の”今の歌声は”は、表情豊かな切れ味をみせ、堀内康雄は得意の”悪魔め鬼め”で一段と悲劇性を重視した表現を見せ聴く者の心を鷲づかみにした。トリを務めた木下美穂子と福井敬はそれぞれ”恋は金色の翼に乗って”と”ある日青空を眺めて”で貫禄充分の充実した歌唱を示しコンサートを締めくくった。(木下の歌は時間の都合でシェーナで終わってしまったような尻切れトンボ感が残念だったが)昨年も書いたことだが、こうして見ると日本のオペラ歌手のレベルアップは著しく、こうした実力者達がその力を精一杯に披露できる場を是非日本に作ってもらいたいと思う。そして、まさにこれこそは新国立劇場の一つ役割であろう。
1939年にクレメンス・クラウスによって始められ、(1946,47年だけクリップスが担当)、ボスコフスキー(1955‐1979)、マゼール(1980‐1986)と引き継がれてきたこのコンサートだが、1987年のカラヤン登場以来は著名な世界的マエストロを次々と毎年登場させるのが常であった。しかし今年はいささか毛色が変わり、オペラ職人として知られるジョルジュ・プレートルが登場した。この渋い人選がどうなるか楽しみであったのだが、これが意外にも大成功であった。マリア・カラスとの共演などでも知られたこのオペラ座のマエストロも御年83歳、およそカメラ映りの悪い無骨な風貌と指揮ぶりなのだが、出て来る音楽が何ともチャーミングそのものなのである。オッフェンバックを下敷きにしたフランス風の作品は言うに及ばず、ワルツやポルカも締めるところは締め、任せるところは任せる絶妙なコントロールで、作品の持ち味だけを120%引き出す自然な指揮ぶりはまさに円熟の為せる技である。弾いているウイーンフィルの団員にも聴衆にも笑顔が充ち溢れ、こんなに聴衆が沸いたこのコンサートは今までにないように思う。まさに元旦に相応しい素敵なコンサートで、なんとも幸先の良い始まりとなった。
標記外題の番組がNHK-BSHで放映された。案内役は仲道郁代。ポーランドとフランスに取材し、作曲家ショパンをピアニズムの観点から演奏家仲道郁代が解説するという、中々興味深い番組であった。様々な版(校訂)の楽譜が流布しているという話や、自分の譜面を見て弟子に練習をつけているうちに、ショパン自身がオリジナルと全く違う書き込みをしていってしまったとか、興味深い話が沢山あった。また仲道自身が、現在のピアノとは発音構造の異なる当時のプレイエルピアノを時間を忘れて弾くうちに、ショパンの譜面の本質に気づき、理解を深めてゆく様は、彼女が誠に天賦のピアニストであることを改めて感じさる貴重な映像であった。実は、彼女はショパン弾きである一方、2002年から作曲家でありベートーベン研究家でもある諸井誠との対談を含めたベートーベン・ソナタ全曲のチクルスを最近完成させたところで、平行してレコーディングされたCD全集の完成度は極めて高く、それが専門家の間で大きな評判となっている。私は、このチクルスを始める遥かに前に、横浜のフェリアホールでいくつかのベートーベンを聞いた経験があるが、それは、その後聞いたこのCD全集の中の演奏とは雲泥の差であった。これはあくまでも勝手な想像ではあるが、作曲家であり研究者である諸井との共同作業の中で、彼女はきっと多くのことを学び、それが血となり肉となり、今の仲道が出来上がっているように思える。そして、そこで得た貴重な財産が今回の番組作りにも大きく影響しているように思いつつ、そのの90分を本当に楽しんだ。ところで、その番組の最後に置かれた「別れの曲」の映像はいささか衝撃的であった。それは彼女の演奏活動20周年記念のリサイタルの最終公演である11月11日のサントリーホールでのアンコールの一曲だった。この演奏は、これまでの仲道からは聞いたこともないような極めて内省的な演奏で、そのモノトーンな色彩といい、内向的な情緒といい、聴衆に向かっての音楽と言うよりも、むしろ自分の心に向かったような音楽だった。そして、聴き進むうちに、彼女の大きな瞳から流れ出る一条の涙をカメラは明確にとらえていた。その演奏と映像を思い浮かべると、それは私にはこれまでの演奏活動を振り返った時の興感に由来するものではなく、なにかより根源的なものに由来するように思えてならない。まあ余計なお世話ではあるのだが。
寺島ひろみと山本隆之の日本人キャストによる言わば裏公演であったが、秀逸な舞台であった。それは何よりもローランド・プティの脚色・振付エツイオ・フリジェーリオの装置に負うところが大きい。通常私のようなオペラ・ファンがバレエ公演に行くと、どうしても声が欲しいと思ってしまうことがある。それは「白鳥」のような名作であってもそうなのであるが、プティの作り出す舞台は、その動きや振りが時として意表をついていて、飽きさせることがまったくない。さりとてまったく場違いかというとそんなことは決してなく、そのバランスの極みに成立していて、声への願望が現れる暇を与えない。そのあたり、私のような門外漢でも名舞台なのだなと納得させられてしまう。オペラの世界では巨匠ストレーラと組んでセンス良く心に残る舞台を提供してくれるフリジェーリオの装置も、相変わらずの淡い色彩で美しさの限りを尽くしていた。プティ版では影の主役でもあるコッペリア役のルイジ・ボニーノは、有名な人形相手のダンスでダンディズムと哀愁を見事に表現して喝采を集めた。そして、最後の人形が壊れてしまう有名な幕切れは、このプティ版の最大の見せ場であると同時に、これこそが作品と現代とを結ぶ存在意義なのだとつくづく思わせた。
スイスの名歌手、エルンスト・ヘフリガーが去る3月17日に逝去した。87歳だという。ワルターやフルトヴェングラーと言った歴史的大音楽家達との競演歴もある文字通りの巨匠である。新聞での訃報を知らず、本日草津国際アカデミーのHPで遅ればせながらそのことを知った。1966年の第2回ベルリン・ドイツオペラでのパミーノが日本デビューだったと思う。その後1969年には、カール・リヒターと共に来日して歴史的なエヴァンゲリストを歌い、以降幾度も来日してファンを喜ばせた巨匠である。EMIに、小林道夫の伴奏でシューベルトやシューマンを録音したり、ドイツ語で日本歌曲を録音したりと、何かと日本とは関連が深かった。最近の表舞台としては、数年前のメトロポリタン歌劇場来日公演の「グレの歌」で、語り役にクレジットされていたのが少々意外であった。そうした表舞台がある一方、晩年は毎夏の草津音楽アカデミーに来日し、後進の指導にあたる傍ら、時にはリートや朗読で舞台に上っていた。草津は毎夏訪ずれているので、そのうちにと思っていたが、ついぞ再会を果たせなかったのが残念である。私が実演に接したのは、30年以上前の日生劇場の舞台、その時は「マゲローネのロマンス」であった。そして10年くらい前、カザルスホールでの「冬の旅」。どちらも全身全霊を込めた、万年青年のような歌い振りで、心を鷲づかみにされたことを思い出す。本当に「歌」の真髄をついた感動的な歌唱であった。最近NHKのテレビで、日本歌曲を歌うヘフリガーが放映されたのを偶然にも見た。まさに心の歌がそこにあった。ご冥福をお祈りする。
日ごろ見な慣れないバレエに行った。演目は「眠りの森の美女」で、これでチャィコの三大バレエは制覇した。音楽的には最も若い時の作品である「白鳥の湖」がずば抜けているように感じる。しかし他の2曲も数あるバレエ音楽の中では、ストラビンスキーの作品と並んで聴き応えがある名曲である。曲中、第5交響曲のある部分と類似したメロディが出てきたと思ったら、作曲年代が極めて近い。興味深い関係である。この日は偶然の巡り合わせで、川村真樹というバレリーナの主役デビューであった。可憐な彼女が清楚に品良く踊りきった様を見て胸が熱くなった。おめでとう!どうしても音楽に耳が行ってしまうが、途中のバイオリン・ソロが何と見事だったことだろう。配役表をみると東京交響楽団の当日のコンマスは、グレブ・ニキティン。惚れ惚れするようなロシアの美音がピットから溢れ出た。
暮れからお正月にかけては、ほとんど毎年同じテレビ番組を録画したり見たりして楽しんでいる。年末はN響の第九、読響の第九、Bunkamuraのシルベスター、ベルリンフィルのジルベスター。新年になると、ウイーン・フィルのニューイヤー、NHKニューイヤーといったところが毎年のルーティンである。この時期、これに加えて前年の国内外の色々なコンサートの録画が放映されるので、クラシックファンにはとても嬉しい時期である。今回はN響の第九が予想外の好演で、若手上岡敏之の将来性を感じさせるものがあった。尾高+東フィルのBunkamuraジルベスター・カウントダウンは、エルガーの「威風堂々」であったが、この番組のカウントダウン史でも特筆すべき見事さで新年に突入した。毎度それぞれの指揮者が見事に決めてくれるのだが、何の加減なのか、今回は正に的のど真ん中に命中したという感じで本当にピダリと決まったように感じられた。現在の東フィルの技術的基礎を築き上げた1980年代の黄金コンビだからこそ出来た業だったのかもしれない。明けての、ウイーンフィルのニューイヤーコンサートは、四度目のメータ登場で、正直あまり期待もしていなかったのだが、思いの他引き締まった秀演で驚いた。あまり馴染みのない曲が多かったが、リラックスしつつも、「正月気分」なんて言葉では語れないような、決して手抜きのない超一流の演奏であった。やはり、彼らの実力には舌を巻くしかない。アンコールのラデツキーで、客席の右と左と中を振り分けたメータのご愛嬌も楽しかった。3日は毎年色々な趣向で試行錯誤を重ねるNHKのニューイヤーコンサート。今年はオケをピットから出して、昔のシンプルスタイルに幾分戻ったような作りであった。私としては、変に色々やるより、この方が好もしく思う。初出場の指揮者飯森規範の健闘ぶりも頼もしい。それにしても、日本のオペラ歌手達も随分達者になったものだ。今や、どの歌をとってもグローバルスタンダードを軽々と超える出来だったと感じる。とても嬉しいことである。今年は、50周年記念ということで、70歳を超えた伝説の名歌手フィオレンツァ・コソットがゲスト出演して、何と十八番だったアズチェーナの劇的アリア2曲を歌った!もちろん往年の声の伸びや、クリスタルのような輝きはもうないが、存在感だけで聴かせてしまうようなその迫力には恐れ入った。これぞイタリアの名歌手の本当の力量なのだろう。日本からもこのレベルの「歌役者」が出る日を心待ちにしたい。