へんくつゃ半睡の「とほほ」な生活!

 奇人・変人・居眠り迷人。医療関連を引退⇒
某所で隠遁準備中。性質が頑な、素直ではなく、
偏屈でひねくれています。

【読】江戸へようこそ!@杉浦日向子

2008年11月10日 | 江戸を歩く

 江戸へようこそ 杉浦日向子
ちくま文庫 ISBNISBN4-480-02286-4 1989年刊行。500(税別)
 

江戸へようこそ
 江戸人と遊ぼう! 
 葛飾北平賀源内山東京伝も、みんな江戸のワタシらだ!
 江戸人に共鳴し、彼らに新たな生命を吹き込む現代絵師が、
ワクワク、イキイキ、しみじみと江戸を語る。

 

 前口上--江戸へようこそ

ありんす国だより--吉原について
きもの対談 不自由のすすめ  中島 梓
よっこら、すうすう、はあはあ--春画について
みちのく対談 江戸人のテレビ 高橋克彦
真があって運のつき--戯作について
黄表紙を読む『金々先生栄花夢』
つかず、はなれず、ユラユラと--粋について
こたつ対談 東京最後のおめでた人間 岡本 螢
特別付録『乙好太郎 駄弁居眠胡散噺 全』

 

 吉原、春画、戯作、粋・・・。


 中島 梓さん、高橋克彦さん、岡本 螢さんらとの対談も収録。
 江戸の雰囲気に浸っているうちに、いつしか江戸人に・・・。
 解説:泉麻人 氏

 

 

 未だ杉浦日向子は漫画家だった頃。急逝前の彼女は本書で願望している通り

時代考証家になっている。
 対談は、中島梓、高橋克彦、岡本蛍解説は泉麻人。なお、高橋克彦との対談はどこか
ずれている。泉麻人はおおずれ。

 

 黄表紙という女子供向けの絵本。青本というちょっと通好みの本。浮世絵と春画と春本。
絵師。江戸の吉原と京都の島原。花魁、かむろ、新造。という形で語られる
『江戸へようこそ』は江戸という風俗の内に過ごすことを好む杉浦日向子の趣味である。
現代社会の中で江戸風に暮らすのではなくて、江戸っ子として暮らす。
言葉や環境や服装は別に江戸から伝承されているものを直接使う必要はなく、
江戸文化という形の現代社会文化・西欧文化という形とは違った文化基準の自分の生活の中に
取り込む。それが杉浦日向子の語る江戸である。

 

 現代は「経済発展」こそが推奨されるし「最新技術」だとか「最新情報」だとかが価値を持つ。
それらを流通させて金儲けをして「良い生活」を送ろうとする。
  また、それが「裕福な生活」だということになっている。「流行」というものが世界中を駆け
巡ることによって日本という国が相対化され「外国」を意識する。「追随」するのに疲れて
しまった昨今においては「追随しない」のが「流行」になる。どちらにしろ、あまり独立した
姿ではないのは確かなところだと思う。
 江戸という時代も現在と似てなくもない。ただ、決定的に違うのは「外国」がなかったという
ことだと思う。あえて経済発展をする必要もなかったし、外貨を獲得して諸外国から離れて
裕福になる必要もなかったし、それほど金銭が流通していたわけではない。

 情報が駆け巡るのも世界規模ではなくてせいぜいが町内規模であり、

「身分」という絶対的なものがあったから、上流社会である「武士」と下流社会である「町民」とは

全く別の種族として相憎み相羨みして過ごしていた。

 

 そこから厭世嗜好が出てくるのか風雅が生まれるのか自暴自棄が生まれるのかは
個人の問題であるものの、決定的な「個人」を持たなかった江戸という時代ではさほど悩むこと
なく自分を社会に住まわせていたと考えられる。

 

「江戸時代はよかったなあ」と思うほどに江戸がよかったのかといえばそうではないだろう。
少なくとも自己肥大極まる現在の人間がぽんと江戸に住んだところで決して幸せにはなれないだろう。
石川栄輔が江戸を題材にしたシリーズを書いているが時代考証は別として、主人公が裕福でなければ
江戸の長屋にマッチさせることができないほど、江戸という時代はそれぞれの身分分けが強固で
あったと云える。
 ひとつの身分に収められたら最後、一生その身分の中で過ごすのが普通であり常識だった、
ということだと思う。翻ってみれば、現代社会は子供時代には教育により身分を越えることができる
ような希望を持ち、それを育てる親は親なりの身分で子供を見るという歪みの中にあるわけだから、
一概に自己なんてものを意識するのも善し悪しというところだろうか。
 そのあたりの批判は別として、「江戸」に飛び込んで自分なりの江戸感覚を身に付けたいという
嗜好が、杉浦日向子の江戸時代考証への理由だと思う。もちろん、実際に江戸文化の研究を飯の種に
しているひとは事細かに比較対照させる「現代の研究」を追求しなければならないのだろうが、
ひとつ江戸風に物事を弄んでみるのも一興というところだろう。
 そういう自然な接し方が「通である」ということ。
 だから、高橋克彦は野暮であって、泉麻人は下司。

 

出典:稀Jr ( まれにじゅにあ )  書評 goo

コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする