江戸のしくみ「町」の読みは「マチ?」・「チョウ?」
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江戸には多くの「町」があったが、「マチ」と読む場合と
「チョウ(チャウ)」と読んだ場合とがある。
現在も小川町(オガワマチ)、馬喰町(バクロウチョウ)などと
使い分けられている。
なぜなのだろう!?。五択問題です。(答えは一番最後に!)
1.「マチ」と読むのが正解。「チョウ」は「丁」と混同した読み方。
2.町人の住む土地を「チョウ」と読んで、武家地である「マチ」と区別した。
3.番町(バンチョウ)など、旗本が住んでいた武家地を「チョウ」と呼んだ。
4.明確な基準などない。読みやすさで決まっていた。
5.徳川御入国当時の庶民の集落の多くは「マチ」と呼ばれていた。
麹町(コウジマチ)・飯田町(イイダマチ)がその例。
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江戸創世記の町
徳川家康御入国当時の江戸城周辺の集落は「ムラ」か「マチ」であった。
つまり、小田原を本拠とする北条氏の表現では、町は「マチ」であった。
実例としては、江戸城直下の現在は皇居外苑の場所には、祝田橋交差点の
地名に残る海岸集落の、祝田町(いわいだまち)、宝田町(たからだまち)、
千代田町(ちよだまち)の三町があった。
その後この三ヵ町は、城郭拡張のためにすべて現在の中央区内に移され、
祝田町は南伝馬町(みなみでんまちょう)、宝田町は大伝馬町(おおでんまちょう)、
千代田町は小伝馬町(こでんまちょう)と改称された。
また甲州道中沿いの国府路町(こふじまち)、現在の麹町(こうじまち)、
上州口ともいわれた現在の飯田橋(元は飯田町)も、北条時代の「町」であった。
その後、公儀が主に関西から「町(まち)」を招いて、江戸が大都市化すると、
「町(まち)」は《○○町(ちょう)》と呼ばれるようになったが、北条時代からの
古い町(まち)は古町(こまち)と称されて、もとの呼び方を尊重されて残った。
徳川幕府の開闢(かいびゃく)時、初代・家康、二代・秀忠の代にかけて江戸に
移住してきた者たちで、古町町人(こまちちょうにん)と呼ばれていた。
古町町人の多くは、芝口(しばぐち)から筋違見附(すじちがいみつけ)にかけて
住み、いろいろな特権を与えられていた。古町の中でも特に角屋敷に住む町人は
御目見(おみみえ)屋敷と称され、年賀、将軍家の婚礼、嫡男誕生の慶事には、
将軍拝顔を許されていた。
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江戸の行政組織の呼び方(マチとチョウ)
地主=町人(ちょうにん)の連合体であった「町(まち)」を管轄したのが、
旗本が任命された町奉行(まちぶぎょう)。その奉行と直接交渉したのが
「町人(ちょうにん)代表」としての、世襲三家の町年寄(まちとしより)、
奈良屋のちの館屋(たてや)、樽屋(たるや)、喜多村家(きたむらけ)で、
日本橋一丁目から三丁目に、各自の役所を持って市政(町政)に参与した。
町名以外には町触(まちぶれ:町人向けの法令)、町入用(まちにゅうよう:
租税負担)、町屋敷(まちやしき)、町火消(まちびけし)など《まち》と呼ぶ
場合が多い。町役人(まちやくにん:家主など)が、町内(ちょうない)の
事務を執行するなどという「重箱(じゅうばこ)読み」も多かったのである。
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正解は、
2.町人の住む土地を「チョウ」と読んで、武家地である「マチ」と区別した。・・・でした。
引用・参照:![](http://www.iza.ne.jp/images/user/20081125/374088.jpg)
えどちりQuestion 其の2 江戸のしくみ編 ものしりミニシリーズ
鈴木 理生 著 出版:人文社
税込価格:¥1,260 (本体:¥1,200) サイズ:22cm / 111p
ISBN : 978-4-7959-1992-1 発行年月:2008.08