人間という生物は、自分自身でさえ扱いにくいもので、自分がわからなくなることも、たくさんある。
そんな時は第3者に客観的に話を聞いてもらい、アドバイスなりを受けたり、聴いてもらえばスッキリするという現象も起きる。
それは、こんがらがっている自分の頭の中を他人に聴いてもらうという作業に取り掛かるため、ある程度、そう語ると伝わりやすいのか、ヘタをするとなおさらこんがらがるということにもなる。
人間失敗を恐るあまり、無難にこなそうとして、なおさら複雑になるということも少なくない。
自分は自分の意思で自分自身を変えていくことができるが、他人を変えようとする、もしくは変わってもらいたいと思い努力をしてしまうが、これはあまりにも不毛な労力であると自分は思っている。
とはいっても、自分自身さえわからないのだから、いたしかたない。
自分を変えるといっても、「変身」するわけではない。
ものの考え方をホンの少し変えてみる。
それだけだ。
自分の守りたいもの、守りたいこと、これだけは譲れないものはいったいなんなのか?
それを守るために、他のものは少し棚の上にあげておいてもしばらくはいいかもしれないというように、優先順位をどうするかによって、相手から受ける印象が代わり物事がスムーズに運ぶことが往々にしてある。
トラブルが起きてしまった時に、「ああすればよかった」などと後悔するよりは、振り返りというか、なぜ起こったのか、それを改善するにはどうしたら良いのかということを考えたほうが、いわゆる前向きに行動できる。
そして、トラブルは、当事者だけでした方がいいこともある。
下手に仲介に入ったことで、余計こじれることもある。これをDVの世界では「ドラマの三角形」と呼ぶ。
ただし、当事者から、あいだに入って欲しいと言われた場合は、別で、それは緊急性があるので「SOS」は出して欲しいし、出された場合はすぐ介入すべきであると、私は判断している。
「あなたはどうしたいの?」と私は話を聴いた相手に問いかける。
なぜならば、私が考えた解決法など役にたたないからだ。
それよりも当事者である本人がどうしたいのかをしっかり聴き、それが実現できるようになるためには、何ができるのか一緒に考えよう!というのがシンプル。
自分を変えるというのは、まるごと全部を変えるということではなく、人へのアプローチの仕方を変えてみる、考え方の癖を発見してみる、ものごとの順番を変えてみるということである。
ポリシーまで捨てるということじゃない。
ポリシーは揺らがなくあっていい。
じゃないと、それは既に演じている自分になっていまう。これではあまりにも心が痛い。
私は苦手な相手とは距離を取る。
すっごい嫌な時は、ず~~~~~~~っと遠くまで離れる。
そして自分を見つめる。
自分に何がしたいのか。どうしたいのか、どうすれば実現するのか?問いかける。
そして、アプローチの仕方を見つける。
失敗したら、また違った方法で関わるきっかけを作ったり、待つ。
全くダメだと思ったら「撤退」する。
これが、NO! GO! TELL!
子どもへの暴力防止のためのプログラムで一番子どもに伝えたいことである。
嫌だと思っていることを 伝える。
逃げる は、離れてもいい。
相談は誰かに話す。
この3つを実行するだけでも自分自身を守り、そして自分の大切な人を守り、他人も大切にできるのだ。
一人で解決できることだけが、大人という意味ではないと私は思っている。
うまく人の力を借りて、物事を進めることが出来、自分自身も尊重し、他人も尊重できる、これが人として、成長できる糧になるのだ。
100%は、無理でも少しずつ、頑張っていれば、できるようになる。
できなくてもいい、考えていれば、自分がいつの間にか変わってくる。
そう、私は思って生きている。