昭和24年頃のわが家の写真だそうです。
両隣りは 焼けてしまったのか 家がありません。
浅草とその周辺は空襲で焼け野原になっていたはずなので
祖父はいち早く自分で家らしいものを建てたのだとか聞いています。
その頃の父は たぶん向島近辺に勤めていた(サラリーマン)らしい
ですが ご近所がこんな具合ですから 障害物が無く どの辺りから
聞こえたのかわかりませんが 父がもうすぐ帰ってくるな~と
バイクの音で認識できたと 母が言ってました(@_@;)
そして いち早く掘っ建て小屋を建てた祖父です。
もう亡くなってから45年近く経つのですが 祖父は
当時のおじいさんとしてはかなりの長身(175cm)で
着流しが似合うタイプの カッコイイ祖父でした。
話し方は 亡くなった悠玄亭玉介師匠そっくりです。(生まれ年も近い)
実は この祖父・・三味線も持っていて(遺品の中にあった)
古き良き時代の江戸ッ子を思わせる人でした。
ちなみに 玉介師匠とは きみ榮師匠のお供でご一緒する機会が
多く 祖父と話しているようで大好きでした。
追記
昨日 たまたま母から聞いたのですが 昭和24年当時は バイクなどを
所持するのには許可証の様なものが必要だったとか。。
緊急時にはそのバイクで患者を運ぶ・・的な そういう意味合いがあって
医療用の証明書というのか 許可証というのかで 所持していたそうです。。
両隣りは 焼けてしまったのか 家がありません。
浅草とその周辺は空襲で焼け野原になっていたはずなので
祖父はいち早く自分で家らしいものを建てたのだとか聞いています。
その頃の父は たぶん向島近辺に勤めていた(サラリーマン)らしい
ですが ご近所がこんな具合ですから 障害物が無く どの辺りから
聞こえたのかわかりませんが 父がもうすぐ帰ってくるな~と
バイクの音で認識できたと 母が言ってました(@_@;)
そして いち早く掘っ建て小屋を建てた祖父です。
もう亡くなってから45年近く経つのですが 祖父は
当時のおじいさんとしてはかなりの長身(175cm)で
着流しが似合うタイプの カッコイイ祖父でした。
話し方は 亡くなった悠玄亭玉介師匠そっくりです。(生まれ年も近い)
実は この祖父・・三味線も持っていて(遺品の中にあった)
古き良き時代の江戸ッ子を思わせる人でした。
ちなみに 玉介師匠とは きみ榮師匠のお供でご一緒する機会が
多く 祖父と話しているようで大好きでした。
追記
昨日 たまたま母から聞いたのですが 昭和24年当時は バイクなどを
所持するのには許可証の様なものが必要だったとか。。
緊急時にはそのバイクで患者を運ぶ・・的な そういう意味合いがあって
医療用の証明書というのか 許可証というのかで 所持していたそうです。。