2015/03/11

あの日はいつものように職場で立ち仕事をしていました。
突如、仲間の携帯が異様な音を鳴らして、嫌な予感がした途端、次々に異常を示す音が鳴り・・・大きな揺れが襲ってきたのです。その瞬間が記憶に無い。
あまりの速さで準備など出来なかったし、ただ怖くて台につかまってしゃがむのがやっとでした。
私たちの居るところは震度5強だったと後に知りました。
1回目の大きな揺れの後、すぐに停電したので緊急時の自家発電中となり「お客様を安全な場所に移動してください」という館内放送が聞こえてきました。安全な場所へ案内してから従業員も避難していると、そこでもう一度大きな揺れが襲ってきました。こっちの揺れの方が大きかったと感じた記憶が、今も残っています。
揺れ(余震)が何度か来たましたが、なんとか収まってきてから、お客様を外に案内して店は閉店し、棚から落ちた物を片付けたりしていましたが、まだ停電したままで、私たちの担当はパソコンで(ネットを使って)仕事をするので、どうにもならず、時間が過ぎて行き・・・電話でお客様にその旨を知らせしたくても電話も不通になってて使えず、帰るに帰れない状況になっていました。
そんなことをしていたら、どこからか情報を得た上司が大変なことになっていると知らせてくれて、事の大きさがわかってくると・・・子供のいるパート従業員は泣き出してしまうし震えだす者も居て職場は大混乱になり子供のいる人たちはすぐに帰宅しましたが、電車が動いてなくてバスは満員で途中のバス停で待っていても停車も出来なくなっていましたから、気が急いている中を歩いて帰って行きました。
仕事場は停電が解除しないのでどうにもならないと判断され上司数名が残り、私も帰宅することになりました。歩いて帰宅中すれ違う反対方面から来る人と声かけあい情報交換しつつ歩きました。横浜駅からずっと歩いてきた人達、関内から来た人達・・・どんだけ歩いたんだろう・・・。
私も40~50分歩いたあたりで電気がついてるコンビニを見つけました。あ!この辺は停電は?と聞くとこっちは大丈夫でしたというので驚きました。変電所が分かれているからだそうです。でもコンビニは揺れで商品が落ちてダメになったのと、残りはすぐ売り切れてしまったので売るものは何もないという状況でした。
当然でしょうね、あれだけの人がこの店の前を通ったのですから。
暗くなった頃、自宅に着き部屋に入ると愛猫がすっ飛んできました。恐かったようで屁っぴり腰になってました。
義母は「今日すっごく揺れたよ~~!!!」と言っていましたが落ち着いていて、いつもの場所に座っててくれてとってもほっとしました。物は落ちた?と聞くと、洋ダンスの上のぬいぐるみが1つというので驚きました。
あんなに揺れたのに、・・・・不思議でした。
後日、この住居は昭和38年築で古いけど、丈夫なんだよ。と大家さんが自慢してました。
なるほど、古い建物で耐震などしてないけど、、、確かにごっつく出来てます。
ありがたかったです。(古い汚いポンコツなんて、決して言いません(笑)誓います)
2月に最愛の母を亡くして、少し元気がなかった自分でしたが、身が引き締まりました。
これからは、義母も猫ちゃんも 何があっても連れて逃げなくちゃ、弱々自分じゃダメだぞって思いました。
・・・・・・・・・・・・
この日から自分には何ができるのかをずっと考え続けました。
節電・・・やれる限りのところまで・・・やってみようと思いました。
エアコン切って おばあちゃんだけは暖かくして、
部屋の中のあかりも事ができる程度にしてとか
どうしたらいいかばかり考えていたのは私だけじゃなく皆んなだったと思います。
報道が辛すぎて、辛すぎて、涙が止まらなくなるし・・・
恐怖感が襲ってくるし、これも皆んな一緒だったと思います。
なんか 思い出してばかりじゃダメですよね。
みんなこの事があったからこそ得られたものも大きかったと教えてくれました。
私も あの日から心の中に太い杭(芯)を入れられたと思います。
明日(あす)はわが身かもしれないと実感したから。
生かされている今を大切にしなくては申し訳ないと思いました。
すみません、さらに長くなってしまって、実はもっと長かったんです。
あの日からのこと思っていたら色々あって、でも、もうやめますね。
・・・・・・・・・・・・
主人とも話しました。
今回主人とも兄とも携帯が繋がらず本当に連絡つくまで不安でした。
いざとなると通信など何の役にもたたないんですね。
災害時の避難に関しては
自宅にいるときの災害でしたら、町内会で指定されている避難場所は中学校ですから、まず先にそこに行きます。
出先で災害にあった時は、とりあえず避難してくださいと決められた場所に従うけれど、主人(仕事先)とは別々になっちゃうので、
移動して良いとなったら、避難場所の最終合流地点を決めました。
そこに辿り着いたらそこからは動かないという場所です。
3パターンくらい。
1. A地点が安全ならまずそこの◯◯。※
2. A地点がダメになってる時はB地点の◯◯。
3. AもBもダメなら C地点の◯◯。
Aの◯◯は、市民の避難場所に指定されてる建物です。
よく行く場所でもあるので、真っ先に近くのそこにしました。
そこに着いたのに移動命令が出た時は、伝言残せる場所でもあります。
いざという時は知り合い同士の声かけとか、伝言を紙に書いて貼っておくとか、
そういうことが堅実なのだと思いました。
人と人の結束が強い力になるんだと思います。
日頃顔見知りになって声かけあっている日常のふれあいが、いざという時「助け合える」。
ほっとけない、心配だよ。っていうお節介な関係 私は大好きです。
その次に、やっとシステム活用な気がします。
だって通信もメディアも使いたくったって、電源がない時どうにもならないから。
もって逃げるものは 日頃のカバンに入ってます。
財布(中に保険証も入ってるし)・iPhone・
メガネ・家鍵・タオル1本・ハンカチ1枚・エコバック1つ・
携帯充電コード(電源使える場所に行ってから役に立ちます)
以上です。
そして『火の元を止める』をしたいです。
もちろん時間のゆとりあれば、懐中電灯とか、長靴履くとか、水パック持っていくでしょうけど
とっさに持って行けるかわかりません(^^;
余計な不安感を持って生きるんじゃなくて、生かして頂いてる今を大切にしたいと思います。
『あの日を絶対忘れない』という 真摯な気持ちで生きて行きたいと思います。
東北だけでなく長野方面の被災地も含め、復興は年月がかかることと思いますが、
心を寄せ一人一人の出来ることで復興協力し合えたらと思っています。
かっこいいことできなくても、微力であっても。
たとえ人知れずとも 続けたい。
ハチドリのひとしずくのように・・・。
(長々読んでいただいてありがとうございました。)

あの日はいつものように職場で立ち仕事をしていました。
突如、仲間の携帯が異様な音を鳴らして、嫌な予感がした途端、次々に異常を示す音が鳴り・・・大きな揺れが襲ってきたのです。その瞬間が記憶に無い。
あまりの速さで準備など出来なかったし、ただ怖くて台につかまってしゃがむのがやっとでした。
私たちの居るところは震度5強だったと後に知りました。
1回目の大きな揺れの後、すぐに停電したので緊急時の自家発電中となり「お客様を安全な場所に移動してください」という館内放送が聞こえてきました。安全な場所へ案内してから従業員も避難していると、そこでもう一度大きな揺れが襲ってきました。こっちの揺れの方が大きかったと感じた記憶が、今も残っています。
揺れ(余震)が何度か来たましたが、なんとか収まってきてから、お客様を外に案内して店は閉店し、棚から落ちた物を片付けたりしていましたが、まだ停電したままで、私たちの担当はパソコンで(ネットを使って)仕事をするので、どうにもならず、時間が過ぎて行き・・・電話でお客様にその旨を知らせしたくても電話も不通になってて使えず、帰るに帰れない状況になっていました。
そんなことをしていたら、どこからか情報を得た上司が大変なことになっていると知らせてくれて、事の大きさがわかってくると・・・子供のいるパート従業員は泣き出してしまうし震えだす者も居て職場は大混乱になり子供のいる人たちはすぐに帰宅しましたが、電車が動いてなくてバスは満員で途中のバス停で待っていても停車も出来なくなっていましたから、気が急いている中を歩いて帰って行きました。
仕事場は停電が解除しないのでどうにもならないと判断され上司数名が残り、私も帰宅することになりました。歩いて帰宅中すれ違う反対方面から来る人と声かけあい情報交換しつつ歩きました。横浜駅からずっと歩いてきた人達、関内から来た人達・・・どんだけ歩いたんだろう・・・。
私も40~50分歩いたあたりで電気がついてるコンビニを見つけました。あ!この辺は停電は?と聞くとこっちは大丈夫でしたというので驚きました。変電所が分かれているからだそうです。でもコンビニは揺れで商品が落ちてダメになったのと、残りはすぐ売り切れてしまったので売るものは何もないという状況でした。
当然でしょうね、あれだけの人がこの店の前を通ったのですから。
暗くなった頃、自宅に着き部屋に入ると愛猫がすっ飛んできました。恐かったようで屁っぴり腰になってました。
義母は「今日すっごく揺れたよ~~!!!」と言っていましたが落ち着いていて、いつもの場所に座っててくれてとってもほっとしました。物は落ちた?と聞くと、洋ダンスの上のぬいぐるみが1つというので驚きました。
あんなに揺れたのに、・・・・不思議でした。
後日、この住居は昭和38年築で古いけど、丈夫なんだよ。と大家さんが自慢してました。
なるほど、古い建物で耐震などしてないけど、、、確かにごっつく出来てます。
ありがたかったです。(古い汚いポンコツなんて、決して言いません(笑)誓います)

これからは、義母も猫ちゃんも 何があっても連れて逃げなくちゃ、弱々自分じゃダメだぞって思いました。
・・・・・・・・・・・・
この日から自分には何ができるのかをずっと考え続けました。
節電・・・やれる限りのところまで・・・やってみようと思いました。
エアコン切って おばあちゃんだけは暖かくして、
部屋の中のあかりも事ができる程度にしてとか
どうしたらいいかばかり考えていたのは私だけじゃなく皆んなだったと思います。
報道が辛すぎて、辛すぎて、涙が止まらなくなるし・・・
恐怖感が襲ってくるし、これも皆んな一緒だったと思います。
なんか 思い出してばかりじゃダメですよね。
みんなこの事があったからこそ得られたものも大きかったと教えてくれました。
私も あの日から心の中に太い杭(芯)を入れられたと思います。
明日(あす)はわが身かもしれないと実感したから。
生かされている今を大切にしなくては申し訳ないと思いました。
すみません、さらに長くなってしまって、実はもっと長かったんです。
あの日からのこと思っていたら色々あって、でも、もうやめますね。
・・・・・・・・・・・・
主人とも話しました。
今回主人とも兄とも携帯が繋がらず本当に連絡つくまで不安でした。
いざとなると通信など何の役にもたたないんですね。
災害時の避難に関しては
自宅にいるときの災害でしたら、町内会で指定されている避難場所は中学校ですから、まず先にそこに行きます。
出先で災害にあった時は、とりあえず避難してくださいと決められた場所に従うけれど、主人(仕事先)とは別々になっちゃうので、
移動して良いとなったら、避難場所の最終合流地点を決めました。
そこに辿り着いたらそこからは動かないという場所です。
3パターンくらい。
1. A地点が安全ならまずそこの◯◯。※
2. A地点がダメになってる時はB地点の◯◯。
3. AもBもダメなら C地点の◯◯。
Aの◯◯は、市民の避難場所に指定されてる建物です。
よく行く場所でもあるので、真っ先に近くのそこにしました。
そこに着いたのに移動命令が出た時は、伝言残せる場所でもあります。
いざという時は知り合い同士の声かけとか、伝言を紙に書いて貼っておくとか、
そういうことが堅実なのだと思いました。
人と人の結束が強い力になるんだと思います。
日頃顔見知りになって声かけあっている日常のふれあいが、いざという時「助け合える」。
ほっとけない、心配だよ。っていうお節介な関係 私は大好きです。
その次に、やっとシステム活用な気がします。
だって通信もメディアも使いたくったって、電源がない時どうにもならないから。
もって逃げるものは 日頃のカバンに入ってます。
財布(中に保険証も入ってるし)・iPhone・
メガネ・家鍵・タオル1本・ハンカチ1枚・エコバック1つ・
携帯充電コード(電源使える場所に行ってから役に立ちます)
以上です。
そして『火の元を止める』をしたいです。
もちろん時間のゆとりあれば、懐中電灯とか、長靴履くとか、水パック持っていくでしょうけど
とっさに持って行けるかわかりません(^^;
余計な不安感を持って生きるんじゃなくて、生かして頂いてる今を大切にしたいと思います。
『あの日を絶対忘れない』という 真摯な気持ちで生きて行きたいと思います。
東北だけでなく長野方面の被災地も含め、復興は年月がかかることと思いますが、
心を寄せ一人一人の出来ることで復興協力し合えたらと思っています。
かっこいいことできなくても、微力であっても。
たとえ人知れずとも 続けたい。
ハチドリのひとしずくのように・・・。
(長々読んでいただいてありがとうございました。)