〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

ハン・ガン『京都、ファサード』読みました

2025-01-19 16:44:35 | 日記
年が改まり、2025年、最初の記事となります。
今年もよろしくお願いします。

昨年ノーベル文学賞を受賞した韓国の作家ハン・ガン氏の『京都、ファサード』を読みました。
初読では内容がわかりづらかったのですが、繰り返し読んでみると、
これはなかなかの傑作ではないかと思うに至りました。

まず、タイトルの「京都、ファサード」、このファサードとは、
建物正面部のデザインを指す言葉で、フランス語に由来するそうですが、
作品中、人の外面、表層の譬喩として象徴的に使われています。
物語は「私」という一人称の書き手によって1章から10章、
そして10章の後は11章ではなく何故か0章として綴られ、終わっています。

「私」は韓国人で、同じく韓国人である友人のミナの訃報を
その日本人の夫から一斉メールで受け取ります。
「私」は弔いには行かず、夢の中で「どうして来なかったの」とミナに責められます。
そこから過去のことを回想していきます。
まず、大学時代のミナとの出会い、ミナは恋人と親友が恋に落ちるという裏切りに遭い、
失意の底にいた時で、ミナは「私」に悩みを打ち明けますが、
「私」は自分の悩みを話すことはできませんでした。

その後ミナは日本に留学し、日本人男性と結婚して大学の教職も得ますが、
一度も帰国しません。
別れてから七年後、二人は京都で再会します。
ミナは「私」を海辺の寺に案内したりしますが、自宅に招くことも夫を紹介することもなく、「私」は寂しく思います。
そして帰国前日、「私」は待ち合わせに40分も遅刻し、
ミナを怒らせ、二人は気まずく別れます。
その後13年間会うことはないまま、「私」はミナの訃報を受け取るのです。

「私」はミナとの過去の出来事を振り返る過程で、
自分がミナにファサードしか見せていなかった、表面的な付き合いしかしていなかった、
それに引き換えミナは「私」に何でも打ち明けていたと思っていたけれど、
そうではなかったことに気付いていきます。

あらすじとしてはこんなところですが、細部に様々な仕掛けがあり、
一筋縄では行きません。
特に〈語り手〉が自身の〈語り〉を相対化する重層的な構造になっているところが興味深く、
機会があれば本格的に論じてみたいと思います。
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今年最後の講座、今思うこと(その2)

2024-12-30 21:23:51 | 日記
28日の続き、です。 

28日夜の10時、NHKの番組は「量子もつれ」の話でしたが、
その二日前26日にはユヴァル・ノア・ハラリさんの番組があり、
これがとてもよかった。
ハラリさんの『サピエンス全史』は全世界でベストセラーとなり、
これを原案として『漫画 サピエンス全史』なども出版されました。
ハラリさんがマスコミに登場したのは久しぶりで、嬉しく思いました。

ハラリさんの考え、主張は実は、日本の近代小説を読む際の基本の基本と
私は考えています。
前世紀の拙著『小説の力 新しい作品論のために』、
『読みのアナーキーを超えて いのちと文学』の根底にある世界観は
〈第三項〉論ですが、これは私から見れば、ハラリさんと通底しています。

世界は主客相関の二項では捉えられない、世界は常に人類の主体に応じて現れ、
世界そのものは未来永劫、了解不能の《他者》でしかありません。
客体そのものを捉えているのではないのです。
人類の識閾下の集合的無意識が世界観を形成し、文明を生み出しました。
近代が信じてきた「客観的現実」もイデア、人類の想念、イデオロギーだったのです。
量子力学が誕生すると、量子もつれがこれを根底的に相対化しました。
世界が物語だったことを見せ付けてくれた、ハラリさんの世界観もここにあります。

しかし、相変わらずリアリズムを根底にしている近代社会は
古代文明の延長の物語世界にあり、〈第三項〉と対峙できずにいます。
そのため二度の世界戦争をし、現在も第三次世界大戦、核戦争の危機を
一方で抱えています。

文学文学作品の文脈(コンテクスト)も全てその主体に応じて現れます。
我々が捉える客体の文章、そのコンテクストは全て、
〈その時その場所〉での〈私〉の文脈・意味なのです。
しかし、近代文学研究の学問界の主流はいまだ近代的リアリズム、
「客観的現実」を根強く信じています。

何故なら、近代小説は近代的リアリズムをベースにして誕生したからです。
これを私は近代小説の〈本流〉と呼んでいます。
そして、そのリアリズムをベースにしながら、
そのリアリズムの原理それ自体を根源的に相対化して登場した小説群を
近代小説の《神髄》と呼んで区別しています。

その代表が森鷗外や夏目漱石といった文豪の作品です。
鷗外の場合、生命が擬態を取る姿を物語の中で描き出しながら、
そこに自身の生きる意味と価値を感じ取る、
これが彼の生き方だったと思います。

ところで私の方は、前世紀末に単著を出した後、
単行本にまとめられないまま、二十一世紀も四半世紀が過ぎてしまいました。

今、世界はAIの台頭によって、大きく転換しようとしています。
アメリカでは、アメリカファーストを掲げるトランプが、
低所得者層の支持を受け、再び大統領に選出されました。
マスメディアの大勢はハリスを支持していましたが、
SNSがそれを覆した形です。
マスメディアの中にあるジャーナリズムの脆弱性、
虚妄性のある面が露呈したとも言えるでしょう。
世界中が実は民主主義の在り方という根源の問題に直面しています。
これはポストモダンの文化運動の課題でもありましたが、
これが昏迷のまま終焉したことが、アメリカ大統領選挙にも露呈しているのです。

日本でも同様で、表層だけが変容したジャーナリズムが形成されて落ち着いています。
先に述べたように、「客観的現実」を真実と信じる世界観はそのまま、
近代文学研究の学問界でも信仰されています。
近代的自我の根幹が問われていないのです。

鷗外の『舞姫』の一人称の〈語り手〉の問題は、
平野啓一郎のような現代を代表する傑出した現代作家にとっても
いまだに大きな課題としてのしかかっているのです。

こうした問題をここで共に考えていきませんか。
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今年最後の講座、今思うこと(その1)

2024-12-28 10:56:03 | 日記
ずっとブログを休んでいました。今月28日の今日が、
甲府での今年の最後の講座になります。
そこで、これまでの総括として、あらかじめブログを認めておきます。
小難しくなりますが、お許しください。
ご質問を年末・年始に頂きながら、これを広く、みんなで考えたいと思っています。
小説の読み方を研究対象にすると、その内容が読者に全く変わって現れると
私は考えています。
現在の文学研究の研究状況と私のそれとが
ずれたままになっているため、
この六年間、ずっと鬱屈し、自閉してきました。

12月は第2週目に中国の西安と蘭州で講義をしました。
やっと決心して出かけたのです。
すると予想以上に聴講の方々との交流も出来、
いよいよこの六年余りの閉塞を転換させようと勇気をもらってきました。
これから、ブログでも交流が出来ればと期待しています。

そんな思いでいるところ、今日、28日の夜10時から
NHKで「アインシュタインの最後の謎・量子もつれがノーベル賞で一躍脚光
時空ワープさえ実現」が放映されると知りました。
タイムリー、2年前の都留の紀要に、拙稿「近代小説の《神髄》
―「表層批評」から〈深層批評〉へ―」
を発表し、近代小説の本流を突き抜けたその《神髄》を読むことを論じましたが、
その際、「量子のもつれ」の世界観を必須としていたのです。
これは都留文科大学のリポリトジ、「トレイル」でお読み頂けます。
こちらをご覧頂ければと願っています。

アインシュタインの晩年、量子力学、「シュレデンガーの猫」の世界が現れて、
アインシュタインの原理は相対化され、彼はその苦悩の中で亡くなります。
二ュートンの万有引力の発見、コペルニクスの天動説から地動説への転換、
アインシュタインの相対性原理、こうした世界観をもう一度、
相対化し直す現代の量子力学、この世界観と
新約聖書の「はじめに言葉があった」を踏まえていくと、
近代的リアリズムの世界もまた、原理的に相対化されることを前提に
私の近代小説の読みが始まります。
近代小説の本流ならぬ《神髄》とはいかなるものか、これが問われるのです。

そこでは客観的対象と信じられた外界の対象世界が
人類・サピエンスの捉えている対象世界でしかなく、
人類・サピエンスに制作された記号表現を媒体にした現象の「あり様」を
我々は捉えていたに過ぎなかったのです。
近代小説はリアリズムをベースにしていますから、
これが小説の根幹に関わっていたのです。

そこでもし、近代小説というジャンルそれ自体を問うとすれば、
リアリズムをベースにしながら物語が語られている近代小説の
〈本流〉ならぬ《神髄》を捉えようとするならばの話ですが、
我々の主体に現れた外界の世界を一旦根源的に相対化することが必須です。

我々人類に現れている外界の客体の対象世界、
その宇宙の中の全ての出来事は皆、実はサピエンスである我々の主体に
現れているに過ぎないのです。
そのため、客体の対象の出来事を直接捉えるのでなく、
その客体を客体とする主客相関のレベルを対象化する、
すなわち、メタレベルとする位相から捉えることが要求されていると
考えています。

ナラトロジー(語り手論)という用語は一般化しても、
例えば視点人物のまなざしとこれを語るまなざしとが区別されず読まれてきたのが、
近代小説研究の実情であります。
「客観的現実」と信じられたものは人類の想念、イデオロギーなのです。


 我々人類・ホモサピエンスに現れている世界は全て我々人類の
言語記号によって制作され、その主体を介在して現れた外界の領域のなかに
我々サピエンスの主体もあります。
客体の対象世界は全て主体を介在して現れ、客体そのものではないのです
そこで、私はこの客体そのものを主客二項の外部、〈第三項〉と名付けました。

続きは明日以降に。
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8月の文学講座のお知らせ

2024-08-27 20:33:24 | 日記
猛暑が続きます。
今月の朴木の会、いつものように係の方から
以下のように連絡が来ましたので、お知らせします。
『藤野先生』の問題、魯迅の問題は実に、村上春樹の根源とも深く関わっています。


8月31日(土)に、田中実文学講座を開きます。
今回のテーマは 「『藤野先生』再論」です。「近代小説の〈本流〉と《神髄》―童話『白』論と芥川の自殺―」を傍らにおいて。
はじめて方も歓迎します。大勢の皆さんのご参加をお待ちしています。

※下記時間は日本時間です。
作品 魯迅『藤野先生』、芥川龍之介『白』など
講師 田中実先生(都留文科大学名誉教授)
日時 2024年8月31日(土)13:30~15:30
参加方法 zoomによるリモート
申込締切 2024年8月30日(金)19:00 まで
参加をご希望の方は、下記申込フォームから申し込んでください。申し込まれた方には、締め切り時間後に折り返しメールでご案内します。
https://forms.office.com/r/BXVJRx2d06
問い合わせ:dai3kou.bungaku.kyouiku@gmail.com
主催 朴木(ほおのき)の会
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明日の講座のこと

2024-07-26 11:13:20 | 日記
明日の講座は魯迅の「『藤野先生』再論 ―『狂人日記』を踏まえて―」
と題しましたが、芥川龍之介の『羅生門』や『白』についても話をします、
と前の記事でも書きました。

それについて補足をしておきます。

魯迅の『藤野先生』と芥川の『羅生門』や『白』とは一見無関係のように見えますが、
文学の根底を問題にすると、メタプロットで繫がっています。
すなわち、通常、小説はストーリーを読み、プロットを捉えますが、
それを支えるメタプロットまで読み込むと、近代的リアリズムを超える
近代小説の神髄の問題が浮上してくるのです。

メタプロットを読み込むと、哲学や宗教あるいは最先端の科学、
そうしたことも視野に入ってきて、ポストモダンの問題に突き当たります。

これを乗り越えて、ポスト・ポストモダンを拓きたいと
『小説の力―新しい作品論のために』から考えて来ました。
明日もそうした話になります。

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