ご連絡遅くなりました。
前回まで鷗外の『鷄』、魯迅の『藤野先生』の作品などを取り上げて来ましたが、
拙稿の『鷄』論は来月の森鷗外記念館発行の『鷗外』誌に、
『藤野先生』論は10月に『都留文科大学研究紀要』に発表します。
今度の土曜日は2015年3月『都留文科大学大学院第19号』に発表した
「現実は言葉で出来ている―『金閣寺』と『美神』の深層批評―」で論じた
『金閣寺』について新たに触れながら、これまで論じてきた「近代小説の未来」について、
お話しする予定です。
朴木の会から今月の文学講座のお知らせが来ました。
以下に掲載します。
6月24日(土)に、田中実文学講座を開きます。
今回のテーマは「近代小説の未来―『金閣寺』のことなど―」
です。
はじめての方も歓迎します。大勢の皆さんのご参加をお待ちしています。
※下記時間は日本時間です。
講師 田中実先生(都留文科大学名誉教授)
日時 2023年6月24日(土)13:30~15:30
参加方法 zoomによるリモート
申込締切 2023年6月23日(金)19:00 まで
参加をご希望の方は、下記申込フォームから申し込んでください。
申し込まれた方には、締め切り時間後に折り返しメールでご案内します。
https://forms.office.com/r/BLXrPkihNq
問い合わせ:dai3kou.bungaku.kyouiku@gmail.com
主催 朴木(ほおのき)の会
前回まで鷗外の『鷄』、魯迅の『藤野先生』の作品などを取り上げて来ましたが、
拙稿の『鷄』論は来月の森鷗外記念館発行の『鷗外』誌に、
『藤野先生』論は10月に『都留文科大学研究紀要』に発表します。
今度の土曜日は2015年3月『都留文科大学大学院第19号』に発表した
「現実は言葉で出来ている―『金閣寺』と『美神』の深層批評―」で論じた
『金閣寺』について新たに触れながら、これまで論じてきた「近代小説の未来」について、
お話しする予定です。
朴木の会から今月の文学講座のお知らせが来ました。
以下に掲載します。
6月24日(土)に、田中実文学講座を開きます。
今回のテーマは「近代小説の未来―『金閣寺』のことなど―」
です。
はじめての方も歓迎します。大勢の皆さんのご参加をお待ちしています。
※下記時間は日本時間です。
講師 田中実先生(都留文科大学名誉教授)
日時 2023年6月24日(土)13:30~15:30
参加方法 zoomによるリモート
申込締切 2023年6月23日(金)19:00 まで
参加をご希望の方は、下記申込フォームから申し込んでください。
申し込まれた方には、締め切り時間後に折り返しメールでご案内します。
https://forms.office.com/r/BLXrPkihNq
問い合わせ:dai3kou.bungaku.kyouiku@gmail.com
主催 朴木(ほおのき)の会
しかし、先日田中先生と直接お話ができたことが、私にとって本当に貴重な時間となりました。
田中先生のお話において一貫して重要だったこと、それは「知的了解を如何に超えるか」ということにあったのだと強く感じております。田中先生が「「背理の輝き」の問題が黒瀬の身体の中にスッと理解されると困る」」とおっしゃっていたことの意味をその後もずっと考えていました。「私」=「反私」という田中先生のご指摘は、「知的了解」をその根底から否定しています。「私」=「反私」というパラドックスを全身で引き受けることは、自らの「知的了解」と闘い、主体を壊し続けていくことを要請するのだと思います。だからこそ、黒瀬は「背理の輝き」の問題をスッと理解してはならないとおっしゃったのだと思いました(田中先生がなさったことは「頭の働きを頭で消す」というカミタの仕掛けを想起させられます)。
そして、この上記の問題について考えたとき、改めて衝撃が走ったのは、昨日話題にした秋枝美保さんの『注文の多い料理店』論を含めて、田中先生の「背理の輝き」以外の論考の全てが「紙くずの顔」の「紳士」を「知的了解」していたということです(その日の話題でいえば芥川龍之介『鼻』の「内供」の捉え方においてもそうなのかもしれません)。読み手のとらえた「紳士」を超える眼差しが先行研究において欠落していたのです。
他方、子どもたちが「死んだ犬が犬が生きて返ってきたのはおかしい」ということをめぐって授業で論争になったのは、こうした「知的了解」を超えて、作品の深層へと向かっていったからだったのだと思います。徹底して知的に了解しない。そのことを潜り抜けていくと、末尾の「紳士」の顔の意味もまた深い次元で問題にされていったのだと思います。
今、必要なのは、黒瀬が捉えた『注文の多い料理店』、黒瀬が捉えた田中先生のご論考の意味を,「知的了解」を超えて、絶えず瓦解倒壊させていくことにあります。そして、そのことの鍵は、私の場合、作品や先行研究との対峙はもちろん、子どもたちとの授業という場にあることを確信します。
こうした闘いに身を置こうと改めて決意しました。
コメントありがとう。
黒瀬君の今、向き合っていることは文学研究・国語教育研究の陥ったポストモダンの昏迷と明確に対峙することで、「希望」の光を感じます。村上春樹の『木野』は当人の言うとおり、書き上げるのが困難だったもの、木野がバーを休業して格闘していたことに、黒瀨君自ら取り組まれているように感じます。