六年前の『女のいない男たち』及び『木野』を今、再び読み返すのは、二年前の村上の『一人称単数』及び『猫を棄てる』とは何だったかををもう一度、呼び起こしたいからです。あの時、鴻巣友希子さんたちには伝わらなかったなと思って、昨年論じたことを改めて、皆さんにお見せしたいと思っているからです。
そして、『一人称単数』も『猫を棄てる』もこれが「地下一階」までの出来事として読まれているからです。そこでは当然ながら「私」は「私」と捉えられています。「私」は「集合的無意識」の枠組みで捉えられています。「私」は反「私」という背理には向き合われていません。〈向こう〉という外部が必要です。これを『木野』で考えてみましょう。
背理である「パラレルワールド」=「同時存在」を読むとどうなるか。『木野』は祟ります。
「地下二階」や「うなぎ」、また「壁」に対する「卵」などの譬喩・メタファーで語って来た、村上春樹の文学世界とはいかなるものか、『木野』を読み返してみましょう。
そして、『一人称単数』も『猫を棄てる』もこれが「地下一階」までの出来事として読まれているからです。そこでは当然ながら「私」は「私」と捉えられています。「私」は「集合的無意識」の枠組みで捉えられています。「私」は反「私」という背理には向き合われていません。〈向こう〉という外部が必要です。これを『木野』で考えてみましょう。
背理である「パラレルワールド」=「同時存在」を読むとどうなるか。『木野』は祟ります。
「地下二階」や「うなぎ」、また「壁」に対する「卵」などの譬喩・メタファーで語って来た、村上春樹の文学世界とはいかなるものか、『木野』を読み返してみましょう。
『木野』という作品では,「木野」と「妻」の離婚の意味を読み手が丁寧にたどる必要があると感じます。視点人物の「木野」から見れば,それは「そのとき」,偶然のタイミングで知ってしまったこと,「もしたまたま一日早く出張から戻らなければ,いつまでも気づかないまま終わったかもしれない」ことでした。しかし,「妻」の側は,「でも私たちの間には,最初からボタンの掛け違いみたいなものがあったのよ」と述べており,離婚は二人のスタートラインからある種必然のものだったとしています。つまり,「木野」はある一点のボタンが決定打になっていると思っているのに対し,「妻」はその前提から関係性がうまくいっていないことを伝えているのです。なお,「木野」自身は「夫婦仲はうまくいっていると思っていたし,妻の言動に疑念を抱いたこともなかった」としています。また,「妻」は「木野」に対し謝罪をしましたが,「木野」の側は作品の末尾近くまで,自分の罪を捉えきることができていません。「木野」はどのような問題を抱え込み,「妻」の内面の出来事を捉え損ねているのでしょうか。
まず,「木野」は「妻」との離婚の事実に関し,「別れた妻や,彼女と寝ていたかつての同僚に対する怒りや恨みの気持ちはなぜか湧いてこなかった。もちろん最初のうちは強い衝撃を受けたし,うまくものが考えられないような状態がしばらく続いたが,やがて「これもまあ仕方ないことだろう」と思うようになった。」と受け止めています。ここで問題になるのは,はじめ受けた衝撃を「これもまあ仕方ないこと」として思うようになったことです。「妻」と自分自身との関係性を見つめ直すことから目をそらしてしまっています。「かろうじて彼にできるのは,そのように奥行きと重みを失った自分の心が,どこかにふらふらと移ろっていかないように,しっかりと繋ぎとめておく場所をこしらえておくくらいだった」のです。その繋ぎとめておく場所こそ,【木野】(店名を指す)だったと考えます。この作品では,登場人物の「木野」の内面と空間としての【木野】がリンクするように語られています。「猫」や「蛇」が彼のお店に出入りすることは,「木野」の内面の出来事を象徴するものでもありました。
さて,離婚の事実を「木野」の身近で最初に知った人物は彼の「伯母」でした。「伯母」は「木野」の離婚の意味についてあまり深く尋ねませんでした。しかし,「木野と伯母はそれほど多くを語り合ってきたわけではないが(彼がその伯母と親しくすることを母親は歓迎しなかった),昔からお互いを不思議に理解し合っているところがあった」と語られていることから,「伯母」は「木野」のことを幼い頃から熟知していることが分かります。したがって,「妻」と「木野」がどうして離婚することになったのか,おおよその予想がついていたのではないでしょうか。それは,「木野」の二つの内面的な弱さを知っていたからです。一つ目は,先ほど述べた「自分の内面の問題に向き合わず,自閉してしまう性質」,もう一つは作品の中盤,「カミタ」の次の直接話法に関わっています。
カミタは言った。「木野さんは自分から進んで間違ったことができるような人ではありません。それはよくわかっています。しかし正しからざることをしないでいるだけは足りないことも,この世界にはあるのです。そういう空白を抜け道に利用するものもいます。言っている意味はわかりますか?」
この「二重否定」のかたちで提起されている「正しいこと」が「木野」にはできません(第三項の問題と深く関わっていると思います)。だからこそ,「伯母」は「カミタ」を「木野」のもとに送りました。「木野」のそうした性質を利用する者がやって来ると分かっていたからです。その人物たちが「二人の男」と「火傷の女」です。まず,「二人の男」たちは「店に入ってくると紙袋からワインの瓶を取り出し,「コルク・フィーとして五千円払うから,これをここで飲んでかまわないか?」と言」いました。これに対し,「木野」は「前例のないことだったが,断わる理由もなかったので,いいですよ」と返事をします。彼は【木野】というお店に入ってくる二人の人物がこの後どんな行動にでるか,十分に察知することができていません(なお,「「なんにせよ、どこに行けとか行くなとか,おたくにいちいち指図されたかねえな」とポニーテイルが言った。そして唇を長い舌でゆっくりと舐めた。獲物を前にした蛇のように」とあるように,男は「蛇」と重ね合わされるように語られています)。
また,「火傷の女」と出会った時は,「木野はその女とはあまり関わり合いにならないように注意して」いました。語り手は次のように「木野」の内面を語っています。
木野はその手の面倒からできるだけ距離を置くように常日頃から心がけていた。人間が抱く感情のうちで,おそらく嫉妬心とプライドくらいたちの悪いものはない。そして木野はなぜかそのどちらからも,再三ひどい目にあわされてきた。おれには何かしらそういう暗い部分を刺激するものがあるのかもしれない,と木野はときどき思うことがあった。
このことについても語り手は詳細には語っていません。思うに,この「嫉妬心とプライド」の問題は「妻」との離婚とも深く関わっているでしょう。「木野」はそうした問題から逃げてきました。しかし,彼は,警戒しているにも関わらず,その女性を抱いてしまいます。「木野は彼女が雨の夜に一人きりで店にやってくることを恐れ,同時に心の奥でそれを密かに求めてもい」るからです。この「火傷の女」は「妻」とオーバーラップしています。この作品は「両義性」の問題を一貫して通底させています。「木野」の中で二人の女性は表と裏の関係です(ちなみに,この作品は何度も「二」という数字が出ています。これも「両義性」と深く関わっていると考えます)。その彼の内面に女性はつけ入るのです(この女性の「舌」も「蛇」の動きと重なるように語られています)。
このように,「木野」の弱さを利用するように,二人の人物が現れました。そして,最後に「妻」が現れます。「妻の代理人によれば,彼女は木野と二人だけでじかに話し合うことを望んでい」ました。このことから,「妻」は「木野」と直接会って話したいことがあったと分かります。そして「妻」は謝ります。ただし,これは「妻」の表の面です。裏側には,「木野」に気づいてほしいことがあったのです。それは,「傷ついたんでしょう,少しくらいは?」という直接話法の中にヒントがあります。本当は,「妻」は「木野」に深く傷ついてほしかったのだと思います。しかし,「木野」は「僕もやはり人間だから,傷つくことは傷つく。少しかたくさんか,程度まではわからないけど」と伝えます。「木野」は無意識に隠している問題に向き合わないまま,自身の傷を見せません。結果として,「木野」と「妻」の「ボタンの掛け違い」はこの時点でも直らないのです。
以上のように,3人に人物が【木野】に訪れました。この後,「猫」が消え,3匹の「蛇」を「木野」は目撃します。なお,この三匹の「蛇」は先の3人の来訪者とそのまま重なるように語られています。1匹目は「紙袋」,2匹目は「ぬめった感じ」,3匹目は「最も危険」なのに「はじけ飛ぶように雑草の中に消え」ます。3人は「両義性」を備えた「蛇」と重なるように語られています。
こうした事態の中で「カミタ」(「伯母」と繋がっています。二人は一つ,両義的です)は「木野」の前に姿を現わします。そして,「遠くのところ」に行くようにいいます。この「遠く」とは,物理的な距離だけを意味しているのではないと思います。「木野」は内面の「蛇」と対峙しなければなりません。彼は,【木野】という自身を繋ぎとめていた空間を離れ,「遠く」を目指す必要があります。「木野」は「二重否定」の意味で「正しいこと」を考えなければなりません(第三項の問題に通じます)。したがってこの旅行は逃亡ではありません。例えば,「木野」はビジネス・ホテルの中で,オフィス・ビルで働く人々を目にします。それは,彼がスポーツ用品を販売する会社で働いていた時の自分とそのまま重なっています。彼は,離婚前の自分と正対せざるを得ず,次第に「不安」になるのです。そして,ついに「カミタ」との「宛先意外,はがきには何ひとつ書いてはいけません。そのことを忘れないようにしてください」という葉書の約束を破ることになります。それは,「どこかで現実と結びついていなくてはならない。そうしないとおれはもうおれでなくなってしまうだろう。おれはどこにもいない男になってしまう」からです。この「カミタ」との約束を破ってしまうことは,「木野」にとってよかったことなのかどうなのか,私にはまだよくわかっていません。しかし,このことをきっかけに,作品末尾の出来事が引き起こされるように語り手は誘います。すなわち,深夜2時15分の出来事です。この末尾に現れたのは「妻」だと私は考えます(ただし,この「妻」は「両義的」な意味としての「妻」です)。「木野」はこの「妻」と向き合い,「内側から木野自身の手によって開けられなくてはな」りません。そして,「木野」は自身の「傷」に少しずつ向き合います。彼は次第に「傷つくべきときに十分に傷つかなかった」ことに気づきます(しかし,これは後に明らかになりますが,真実彼は「傷ついてい」たました。まだ根っこまで問題に迫ることができていません)。それにもかかわらず,彼はまた自らの枠組みに閉じこもろうとしてしまいます。彼は心の扉を閉ざしたままなのです。
やがて,一度ノックの音はやみました。「あたりは月の裏側のように静まりかえってい」ます。しかし,再びノックが始まります。まさに両義性のもう一側面の問題です。今度は「空には枯死した星座が黒々と浮かんでいる」ことから「火傷の女」が連想されます。ここでの「彼ら」とは「火傷の女」の両義性だと考えます。「妻」と「火傷の女」は表と裏の関係です。この両義性が「木野」の内面に迫ってきます。「木野」はこの問題から逃れられません。
ここから,「木野」はある種,飛翔していきます。「木野」は「想像」を消し去り,「おれの心」を超えていくことに向かいます。「木野」は「カミタ」が言った「記憶は何かと力になります」という言葉と向き合い,自身を超える存在,「柳の木」,「猫」等を想像します。そして,最後に「妻の姿」を想像し,彼女の幸いを願います。その時です。「目を背けず,私を真直ぐ見なさい,誰かが耳元でそう囁いた。これがお前の心の姿なのだから」という声が彼方から聞こえます。すると,「木野の内奥にあるくらい小さな一室」(無意識)に,「誰かの温かい手が彼の手に向けて伸ばされ,重ねられようとし」ます。恐らく,この一文は,「妻」と「木野」が再会した際,「彼女は木野の手にやさしく手をかさねた。「ごめんなさい」と彼女は言った。「本当にごめんなさい」」というセンテンスと結びつくように語られていることから,「妻」の手と考えられます。そして,「そう,おれは傷ついている,それもとても深く。」と自らに語ります。末尾の「そのあいだも雨は間断なく,冷ややかに世界を濡らしていた」とはそうした「木野」の内奥の出来事を雨が洗い流すかのように語られています。