昨日の朴の木の会の講座では、読みの原理の問題を問題化しようとし、
ご質問を戴くつもりでしたが、話し始めたら、ご質問の時間が少なくなり、
失礼しました。その点、お詫びします。
昨日は、私が大学生の時、祖母が亡くなってその遺体を目にした際、
それでも祖母は私のなかでは死んでいないという強いリアリティをに囚われた体験を
お話しました。
死者はわたしのなかで生きている・・・。
死という客体の出来事、あるいは対象そのものは厳然とした事実としてありながら、
これを主体が捉えようとすると、それは了解不能の沈黙と化していて、
これを主体の感受性がどう捉えるかが問われます。
例えば、『高瀬舟』なら、弟を殺してしまった兄の喜助が視点人物の庄兵衛に
毫光の輝きを放つように見えるのは前回論じたように、安楽死と捉えたからですが、
『高瀬舟』はそうしたリアリズムの領域では捉えられません。
そうしたことを超えているのです。
『舞姫』なら、豊太郎は免官になって直ちに母の唐突な死(諌死)の知らせ、
その理由を認(したた)めたはずの遺書を受け取って、何故、エリスと恋愛関係に入り、
それを手記を書く今、どう感じているのか。
こうしたことも私見では、死者が生者の中でいかに生きているかという問題、
これは〈第三項〉論と不可分にあります。
しかし、昨日はこうしたことを十分どころか全く申し上げられないままに終わり、
甲府から戻る車中で、己の拙さに臍を噛む想いをしました。
ご質問頂ければと思いますが、ここでは拙稿の『注文の多い料理店』論を補っておきます。
この童話はこれまでこぞって、現実・非現実・現実という枠組みで捉えられていました。
ところが、その現実こそ大宇宙の自然を内包した「山奥」から見ると、
貨幣という文明の創り出した虚構の虚妄、幻想だったのです。
これがこの童話が表わしていること、これを語る〈語り手〉の主体、
その仕掛け、仕組みである自己表出を読むのが田中の読み方、「背理の輝き」です。
現実に戻ったはずの二人の紳士は東京に戻っても自身の虚構の幻想、
その非現実から逃れることは出来ず、恐怖のどん底にいます。
二人は虚妄の幻想の中、生きることとは殺し殺されることであることを
全身全霊で体感したのです。
これまで文明社会の産物の金銭・貨幣が邪魔をして、これが見えずいました。
ふたりの「紳士」は生き物の命の在り方、殺し殺されることで生命が存在するという
厳粛な生命の存在の所以が金銭に還元されていることなど全く知らなかった。
これに気付かされたのです。
これを知った彼らは、そうした世界の外に向かざるを得なかったのです。
東京の人達が知らない世界でいす。
〈語り手〉は彼らをここに追い込んでいくことをリスナーに伝えます。
すなわち、そここそ「山奥」の声に通じる大宇宙の自然、
生命とはが殺し殺されることで生成する働きなのです。
二人はこの恐怖のどん底で震え、究極的に救いを求めます。
それは彼らが彼らでありながら、彼らではなくなることを意味します。
彼らはもはや宇宙の微塵と化すのです。
二人の生き物(「紳士」)はこの大宇宙の声と化します。
その時です。二人は震えながら、それゆえに輝やくのです。
どうぞご批判、ご質問を賜れば、と願っております。
ご質問を戴くつもりでしたが、話し始めたら、ご質問の時間が少なくなり、
失礼しました。その点、お詫びします。
昨日は、私が大学生の時、祖母が亡くなってその遺体を目にした際、
それでも祖母は私のなかでは死んでいないという強いリアリティをに囚われた体験を
お話しました。
死者はわたしのなかで生きている・・・。
死という客体の出来事、あるいは対象そのものは厳然とした事実としてありながら、
これを主体が捉えようとすると、それは了解不能の沈黙と化していて、
これを主体の感受性がどう捉えるかが問われます。
例えば、『高瀬舟』なら、弟を殺してしまった兄の喜助が視点人物の庄兵衛に
毫光の輝きを放つように見えるのは前回論じたように、安楽死と捉えたからですが、
『高瀬舟』はそうしたリアリズムの領域では捉えられません。
そうしたことを超えているのです。
『舞姫』なら、豊太郎は免官になって直ちに母の唐突な死(諌死)の知らせ、
その理由を認(したた)めたはずの遺書を受け取って、何故、エリスと恋愛関係に入り、
それを手記を書く今、どう感じているのか。
こうしたことも私見では、死者が生者の中でいかに生きているかという問題、
これは〈第三項〉論と不可分にあります。
しかし、昨日はこうしたことを十分どころか全く申し上げられないままに終わり、
甲府から戻る車中で、己の拙さに臍を噛む想いをしました。
ご質問頂ければと思いますが、ここでは拙稿の『注文の多い料理店』論を補っておきます。
この童話はこれまでこぞって、現実・非現実・現実という枠組みで捉えられていました。
ところが、その現実こそ大宇宙の自然を内包した「山奥」から見ると、
貨幣という文明の創り出した虚構の虚妄、幻想だったのです。
これがこの童話が表わしていること、これを語る〈語り手〉の主体、
その仕掛け、仕組みである自己表出を読むのが田中の読み方、「背理の輝き」です。
現実に戻ったはずの二人の紳士は東京に戻っても自身の虚構の幻想、
その非現実から逃れることは出来ず、恐怖のどん底にいます。
二人は虚妄の幻想の中、生きることとは殺し殺されることであることを
全身全霊で体感したのです。
これまで文明社会の産物の金銭・貨幣が邪魔をして、これが見えずいました。
ふたりの「紳士」は生き物の命の在り方、殺し殺されることで生命が存在するという
厳粛な生命の存在の所以が金銭に還元されていることなど全く知らなかった。
これに気付かされたのです。
これを知った彼らは、そうした世界の外に向かざるを得なかったのです。
東京の人達が知らない世界でいす。
〈語り手〉は彼らをここに追い込んでいくことをリスナーに伝えます。
すなわち、そここそ「山奥」の声に通じる大宇宙の自然、
生命とはが殺し殺されることで生成する働きなのです。
二人はこの恐怖のどん底で震え、究極的に救いを求めます。
それは彼らが彼らでありながら、彼らではなくなることを意味します。
彼らはもはや宇宙の微塵と化すのです。
二人の生き物(「紳士」)はこの大宇宙の声と化します。
その時です。二人は震えながら、それゆえに輝やくのです。
どうぞご批判、ご質問を賜れば、と願っております。