〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

『木野』の難問

2022-08-25 08:21:39 | 日記
 土曜日の講座には、中国・台湾の方々も参加されます。そこで、申し上げておきます。
  
 日本の近代文学研究界ではいまだ伝統的、旧来の実体論、私を育ててくれたものでもありますが、三好作品論から決別できずに、現在もその亜流に留まっています。
 敬愛する批評家加藤典洋氏もこの実体論の世界観認識から抜けられず、蓮實重彦氏がその著書『小説から遠く離れて』(1989・4)で提唱していた「表層批評」には向かわず、『テクストから遠く離れて』(1994・1)というコースに戻ってしまいました。
 これでは村上春樹の小説も出来事の上澄みを掬い上げるに留まります。
 本講座で開講以来述べていることは、日本文学協会の機関誌『日本文学』に2013年から6年間連続して8月号に書いた「主体の構築」シリーズを基本文献にしています。
 その原理・原則はいわば「シュレディンガ―の猫」です。
 客体の対象そのものは未来永劫、永遠に我々人類の主体である〈私〉には捉えられない、主体と客体の相関の二元論では捉えられない、〈第三項〉を必要としている、これに尽きます。
 と言って、我々の生の場はリアリズムの働くところにいます。毒キノコを食べては死んでしまいます。生命存続の場はリアリズムが必要です。
 新しく参加される方々のために、いや、当初から参加されている方々には一層申し上げておかなければならないことです。〈表層批評から深層批評へ〉、これが本講座で申し上げていることです。

 『木野』を読むには、肝心なところ、読者の誰もが理解できにくいなとわたくしから見て思える箇所に関して、先にここでお伝えしておきます。ここが突破できないと村上春樹の文学は相変わらず、捉えられません。こうした細部・ディテールが村上文学には散らばっています。これを全体の文脈・コンテクストと結びつけることが必要です。
 その難解な箇所とは、カミタが木野に指示した言葉、伯母への絵葉書を匿名にし、メッセージを書かず、移動しながら、週二回、送り続けること、そしてカミタからもう戻ってきてよいと言われるまで、この旅を続けること、これらのキーセンテンスを本文でご確認ください。
 思うことを述べるとそれは常に自己弁護、ミミクリ(擬態)になります。生物はそう生きています。人は自分に都合のいいように言ってしまいます。そうやって毎日を送っているのです。それは「正しくないこと」ではないのですが、「正しい」ことでもありません。生きるためにそう生きている、ミミクリ・擬態を取っているのです。
 それでは何が起こるか、村上春樹はこれを問題にしています。もちろん、生きるためにナンデモするとか、何が悪いかと居直ることはそれぞれ勝手です。いろんなことは言えますが、ここでは村上文学を問題にしましょう。
 
 バー「木野」を休業して、旅に出て、自身の中の蛇の両義性(性欲のもたらすものの両義性、講座でお話しします)と格闘し、これを克服すると、営業再開が可能です。猫が戻ってきます。これがカミタの木野に求める要求、指示です。ところが、木野は旅の途中の熊本で、伯母への絵葉書にメッセージと自身の名前を書き、約束を破ってしまいます。
 木野は言いたいことを言えないでいることによって、自分が現実との関わりを失い、身体が透明になってしまう危機感、限界・境界状況に陥ります。
 思うことを表明できず、自分を空っぽにし、空白・真空にすることは出来ないことを知り、言うべきことを言い、関わることを真に求める境地に達します。やっと、木野は自分を相対化する地平を手に入れるのです。熊本のビジネス・ホテルで心の扉を叩く音を聴き続け、新たな時空に向き合います。末尾、物語は木野が泣くところで終わります。
 視点人物木野を語る〈語り手〉を捉え、作品全体の仕組みを振り返りましょう。

 自分が「正しくないことをしない」のはもちろん基本です。しかし、「正しくないことをしない」だけでもない、そもそも「正しいことは出来ない」、人類は本来的に根源的に「正しいことは出来ない」のです。その意味で「原罪」から逃れられません。宗教とはかかわりなく、世界そのものは人類には捉えられません。客体の対象の外界、相手の男、あるいは女、世界それ自体は捉えられないのです。〈第三項〉です。
 男にとって、女にとって、世界は・・・、土曜日ご一緒しましょう。

盟友からの便り

2022-08-22 10:38:18 | 日記
久しく会っていない友人、二十日間ほど寝込んでいたという友人から電話があった。
その前日それとは知らず、『木野』を今度講座で話すからとメールで連絡していた。
すると、驚いた。
1990年に書いた拙稿「数値のなかのアイデンティティ―『風の歌を聴け―』」を
送ってほしいとのことだ。
友は寝込みながらもその間ずっと、百回くらい繰り返し、
村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』を読んでいたそうだ。
そんなに読めるはずはないと思ったが、友はこれを図や絵にしたりしていたと言う。

拙稿はもう32年も昔のもの、これを読み返してみると、
自分が成長・成熟していないことが分かる、この間、私は何をしていたのか・・・。
しかし、そう言えば村上春樹もデビュー作『風の歌を聴け』から最新作『一人称単数』まで、
実に同じようなことにこだわって書き続けていると思う。

友人からの電話の後、周非さんから、その拙稿を中国語に翻訳したと聞いた。
あんな昔の拙稿を。
深く感謝する思いが起こった。

拙稿「数値のなかのアイデンティティ」を読みたいとご希望の方がいらしたら、
ご連絡くださいね。
すぐ添付して送りますよ。

『木野』を今読み返すのは

2022-08-19 11:01:38 | 日記
六年前の『女のいない男たち』及び『木野』を今、再び読み返すのは、二年前の村上の『一人称単数』及び『猫を棄てる』とは何だったかををもう一度、呼び起こしたいからです。あの時、鴻巣友希子さんたちには伝わらなかったなと思って、昨年論じたことを改めて、皆さんにお見せしたいと思っているからです。

そして、『一人称単数』も『猫を棄てる』もこれが「地下一階」までの出来事として読まれているからです。そこでは当然ながら「私」は「私」と捉えられています。「私」は「集合的無意識」の枠組みで捉えられています。「私」は反「私」という背理には向き合われていません。〈向こう〉という外部が必要です。これを『木野』で考えてみましょう。
 背理である「パラレルワールド」=「同時存在」を読むとどうなるか。『木野』は祟ります。
「地下二階」や「うなぎ」、また「壁」に対する「卵」などの譬喩・メタファーで語って来た、村上春樹の文学世界とはいかなるものか、『木野』を読み返してみましょう。
 

『木野』のこと

2022-08-18 09:20:27 | 日記
『木野』に当分、こだわっておきたい。

短編小説『木野』はお話の最後、木野が不倫で裏切った妻を心から赦し、涙を流して終わるお話です。だからすっきりしそうです。しかし、そうはいかない・・・。
 朝日新聞の書評でも、「個人的に呪うのではない。類として、読者に祟るのである。」と言うように。
 この根拠、この秘密を解き明かしたい、そこに何がどうあるのか、これをお聞きの方々と考えたいと思っています。
 評者水無田気流氏は適切にして鋭利、「パズルは完成せず、物語は完了せず、ただ読者は一切が共振する。」と指摘しています。

『女のいない男たち』の『木野』

2022-08-17 22:06:27 | 日記
 ズームでの朴木の会の27日、
『木野』の話を本気で講義をしようかと思っています。

 そこで、本年度三月『都留文科大学研究紀要』に発表した、
 拙稿「近代小説の《神髄⦆―「表層批評」から〈深層批評〉へ」を
 予め読んでおいてくださいと言おうと思っていましたが、
 それでは済まなくなったな、との思いが実感です。
 そこで、
 2011年ひつじ書房場馬場重行・佐野正俊共編『〈教室〉の中の村上春樹』掲載の
 拙稿「村上春樹の「神話の再創成」―「void=虚空」と日本の「近代小説」―」を
 読んで頂くと助かります。
 あるいは、ネットで、
 拙稿の「現実は言葉で出来ている―『金閣寺』と『美神』の深層批評  
 ―」を御覧ください。
 
 『木野』という一種、不気味、祟る小説を読むには、
 まず、三島の「小説論」、役に立ちますよ。

 思うに、
 驚かれるでしょうが、
 文学研究の専門家や批評家にとってこそ
 三島文学は理解しがたい逆説があります。
 いや、そういえば、
 大江健三郎は村上春樹の小説をまるっきし
 認めていなかったし、
 蓮實重彦は「結婚詐欺」と言う言い方で春樹を罵倒していました。
 やはり、世界観認識の問題は避けて通れません。

 講座、まずご覧ください。