前回の記事でご紹介した山梨の坂本さんから寄せられた、『走れメロス』の内容に関する感想、ご質問も頂いていますので、以下に掲載し、お答えしたいと思います。
田中実先生
このたびは、またもや驚嘆・驚愕のご講演でした。
メロスは地上1階を生きていて、王はメロスの無意識。メロスとセリヌンティウスは分身関係。三位一体のひとりの物語。
というところも勿論ですが、志賀直哉の「生きることと死ぬことは等価」
という言葉が出てきたことに私は驚かされました。
特に面白かったのは、メロスが、王の意識(メロス自身の無意識)に変わり、
さらにそこから後半走っているときメロスは元のメロスではないというところです。
生徒の疑問にも、「命のために走っているのに、なぜ間に合う間に合わないが問題ではないというのか」
というのがあり、「命より信頼の方が大事」とその生徒が読んだ時、
どう考えればいいのかわからなくなってしまいました。
先生の読みは、全く凄いもので、メロスは元のメロスではなく、
王とメロスとの正反合、高次の別のメロスになっている、
その次元は、『范の犯罪』の裁判官、『なめとこ山の熊』の熊と小十郎の世界、
「生きることと死ぬことは等価」の世界である、と受け止めました。
常の価値観を覆し、日常の生の領域の外部に立つことで見える世界でした。
日常の世界を超えたところのメロス、メロス自身には意識もされないことですが。
「フイロストラトスは急にどこからなぜ現れたのか」という疑問も生徒から出されました。
先生のご講義ではっきりしました。
メロスが、全く異なるメロスとして異なる時空にいるメロスとして走っていることをフイロストラトスが際立たせています。
命を問題にしながら命以上のもののところに語り手は連れていこうとしている。
しかし、この世界に立つことは並みの人間にはできません。
先生のご講義により、そうだったのかとただただ驚嘆するばかりです。
それを分かって語る〈語り手〉であることを見抜くのも凄いことです。
「人を殺して自分が生きる」は「悪徳」ですか。
通常の世界では「悪徳」です。
王がいた世界(メロスの無意識)は、「気が狂った」メロスによって、
そことは異なる高次の「人を殺して自分が生きる」=「生きることは死ぬことと等価」に行くのですか。
奇跡が行き着く先は「信頼」の世界、『なめとこ山の熊』の熊と小十郎の世界ですか。
最後の場面がよくわかりません。
メロスとセリヌンティウス(分身)は「疑う」という自身の心の問題を、
両者とも「一度」と言い、疑い続けた自身に気づいていません。
語り手がそれを承知しているとしても、
それで王(メロス自身の無意識)を別の次元に連れていけるのでしょうか。
すみません。混乱しているようです。
さらに録音を聞いて考えようと思います。
先生がご自分を壊していくということを身を以て示してくださっていることを
深く深く尊敬いたします。
本当にありがとうございました。
ご質問その1
「「人を殺して自分が生きる」は「悪徳」ですか。通常の世界では「悪徳」です。王がいた世界(メロスの無意識)は、「気が狂った」メロスによって、
そことは異なる高次の「人を殺して自分が生きる」=「生きることは死ぬことと等価」に行くのですか。」
もし、志賀直哉の『范の犯罪』なら、「人が人を殺して自分が生きる」ことが完全に快活ならば、完全に無罪、これこそが究極の人間の定法だと私は個人的に考えています。
ここでは、人の命も問題ではない、わけのわからない世界、奇跡の生じた世界にメロスは転換ンさせられています。『走れメロス』の物語はそこに突き進んでいます。
ご質問その2
「奇跡が行き着く先は「信頼」の世界、『なめとこ山の熊』の熊と小十郎の世界ですか。」
究極的には両者は通底している、少なくともその可能性の中にある、と思います。
(ブログの読者の皆さんにお断りしておくと、『なめとこ山の熊』については最近拙稿を書いてまだ発表していないのですが、坂本さんは既に拙稿を読んでいらっしゃるので、このようなご質問を頂きました。)
ご質問その3
「メロスとセリヌンティウス(分身)は「疑う」という自身の心の問題を、
両者とも「一度」と言い、疑い続けた自身に気づいていません。
語り手がそれを承知しているとしても、
それで王(メロス自身の無意識)を別の次元に連れていけるのでしょうか。」
はい、連れて行けます。メロス自身は相変わらず、自己省察や自己認識などのない、単純な男でしかありませんが、彼の生の在り方はゼウスの神に適う生を生きています。
王はこれを目にしているのです。
メロスは一旦、己の無意識である猜疑心の世界、つまり王の生きている世界に堕ち、これをセリヌンティウスに告白、懺悔し、約束を果しました。
王は自身の「人を殺して自分が生きる」、その人間世界の定法に堕ちたメロスが今、そこから脱皮しているのを見て、心底改心しているからです。
田中実先生
このたびは、またもや驚嘆・驚愕のご講演でした。
メロスは地上1階を生きていて、王はメロスの無意識。メロスとセリヌンティウスは分身関係。三位一体のひとりの物語。
というところも勿論ですが、志賀直哉の「生きることと死ぬことは等価」
という言葉が出てきたことに私は驚かされました。
特に面白かったのは、メロスが、王の意識(メロス自身の無意識)に変わり、
さらにそこから後半走っているときメロスは元のメロスではないというところです。
生徒の疑問にも、「命のために走っているのに、なぜ間に合う間に合わないが問題ではないというのか」
というのがあり、「命より信頼の方が大事」とその生徒が読んだ時、
どう考えればいいのかわからなくなってしまいました。
先生の読みは、全く凄いもので、メロスは元のメロスではなく、
王とメロスとの正反合、高次の別のメロスになっている、
その次元は、『范の犯罪』の裁判官、『なめとこ山の熊』の熊と小十郎の世界、
「生きることと死ぬことは等価」の世界である、と受け止めました。
常の価値観を覆し、日常の生の領域の外部に立つことで見える世界でした。
日常の世界を超えたところのメロス、メロス自身には意識もされないことですが。
「フイロストラトスは急にどこからなぜ現れたのか」という疑問も生徒から出されました。
先生のご講義ではっきりしました。
メロスが、全く異なるメロスとして異なる時空にいるメロスとして走っていることをフイロストラトスが際立たせています。
命を問題にしながら命以上のもののところに語り手は連れていこうとしている。
しかし、この世界に立つことは並みの人間にはできません。
先生のご講義により、そうだったのかとただただ驚嘆するばかりです。
それを分かって語る〈語り手〉であることを見抜くのも凄いことです。
「人を殺して自分が生きる」は「悪徳」ですか。
通常の世界では「悪徳」です。
王がいた世界(メロスの無意識)は、「気が狂った」メロスによって、
そことは異なる高次の「人を殺して自分が生きる」=「生きることは死ぬことと等価」に行くのですか。
奇跡が行き着く先は「信頼」の世界、『なめとこ山の熊』の熊と小十郎の世界ですか。
最後の場面がよくわかりません。
メロスとセリヌンティウス(分身)は「疑う」という自身の心の問題を、
両者とも「一度」と言い、疑い続けた自身に気づいていません。
語り手がそれを承知しているとしても、
それで王(メロス自身の無意識)を別の次元に連れていけるのでしょうか。
すみません。混乱しているようです。
さらに録音を聞いて考えようと思います。
先生がご自分を壊していくということを身を以て示してくださっていることを
深く深く尊敬いたします。
本当にありがとうございました。
ご質問その1
「「人を殺して自分が生きる」は「悪徳」ですか。通常の世界では「悪徳」です。王がいた世界(メロスの無意識)は、「気が狂った」メロスによって、
そことは異なる高次の「人を殺して自分が生きる」=「生きることは死ぬことと等価」に行くのですか。」
もし、志賀直哉の『范の犯罪』なら、「人が人を殺して自分が生きる」ことが完全に快活ならば、完全に無罪、これこそが究極の人間の定法だと私は個人的に考えています。
ここでは、人の命も問題ではない、わけのわからない世界、奇跡の生じた世界にメロスは転換ンさせられています。『走れメロス』の物語はそこに突き進んでいます。
ご質問その2
「奇跡が行き着く先は「信頼」の世界、『なめとこ山の熊』の熊と小十郎の世界ですか。」
究極的には両者は通底している、少なくともその可能性の中にある、と思います。
(ブログの読者の皆さんにお断りしておくと、『なめとこ山の熊』については最近拙稿を書いてまだ発表していないのですが、坂本さんは既に拙稿を読んでいらっしゃるので、このようなご質問を頂きました。)
ご質問その3
「メロスとセリヌンティウス(分身)は「疑う」という自身の心の問題を、
両者とも「一度」と言い、疑い続けた自身に気づいていません。
語り手がそれを承知しているとしても、
それで王(メロス自身の無意識)を別の次元に連れていけるのでしょうか。」
はい、連れて行けます。メロス自身は相変わらず、自己省察や自己認識などのない、単純な男でしかありませんが、彼の生の在り方はゼウスの神に適う生を生きています。
王はこれを目にしているのです。
メロスは一旦、己の無意識である猜疑心の世界、つまり王の生きている世界に堕ち、これをセリヌンティウスに告白、懺悔し、約束を果しました。
王は自身の「人を殺して自分が生きる」、その人間世界の定法に堕ちたメロスが今、そこから脱皮しているのを見て、心底改心しているからです。