〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

坂本さんの感想、続きです

2019-04-09 00:00:01 | 日記
前回の記事でご紹介した山梨の坂本さんから寄せられた、『走れメロス』の内容に関する感想、ご質問も頂いていますので、以下に掲載し、お答えしたいと思います。

田中実先生

このたびは、またもや驚嘆・驚愕のご講演でした。

メロスは地上1階を生きていて、王はメロスの無意識。メロスとセリヌンティウスは分身関係。三位一体のひとりの物語。

というところも勿論ですが、志賀直哉の「生きることと死ぬことは等価」
という言葉が出てきたことに私は驚かされました。

特に面白かったのは、メロスが、王の意識(メロス自身の無意識)に変わり、
さらにそこから後半走っているときメロスは元のメロスではないというところです。
生徒の疑問にも、「命のために走っているのに、なぜ間に合う間に合わないが問題ではないというのか」
というのがあり、「命より信頼の方が大事」とその生徒が読んだ時、
どう考えればいいのかわからなくなってしまいました。
 
先生の読みは、全く凄いもので、メロスは元のメロスではなく、
王とメロスとの正反合、高次の別のメロスになっている、
その次元は、『范の犯罪』の裁判官、『なめとこ山の熊』の熊と小十郎の世界、
「生きることと死ぬことは等価」の世界である、と受け止めました。
常の価値観を覆し、日常の生の領域の外部に立つことで見える世界でした。
日常の世界を超えたところのメロス、メロス自身には意識もされないことですが。
「フイロストラトスは急にどこからなぜ現れたのか」という疑問も生徒から出されました。
先生のご講義ではっきりしました。
メロスが、全く異なるメロスとして異なる時空にいるメロスとして走っていることをフイロストラトスが際立たせています。
命を問題にしながら命以上のもののところに語り手は連れていこうとしている。
しかし、この世界に立つことは並みの人間にはできません。
先生のご講義により、そうだったのかとただただ驚嘆するばかりです。
それを分かって語る〈語り手〉であることを見抜くのも凄いことです。

「人を殺して自分が生きる」は「悪徳」ですか。
通常の世界では「悪徳」です。
王がいた世界(メロスの無意識)は、「気が狂った」メロスによって、
そことは異なる高次の「人を殺して自分が生きる」=「生きることは死ぬことと等価」に行くのですか。
奇跡が行き着く先は「信頼」の世界、『なめとこ山の熊』の熊と小十郎の世界ですか。

 最後の場面がよくわかりません。
 メロスとセリヌンティウス(分身)は「疑う」という自身の心の問題を、
両者とも「一度」と言い、疑い続けた自身に気づいていません。
語り手がそれを承知しているとしても、
それで王(メロス自身の無意識)を別の次元に連れていけるのでしょうか。

 すみません。混乱しているようです。
さらに録音を聞いて考えようと思います。
 先生がご自分を壊していくということを身を以て示してくださっていることを
深く深く尊敬いたします。
本当にありがとうございました。



ご質問その1
「「人を殺して自分が生きる」は「悪徳」ですか。通常の世界では「悪徳」です。王がいた世界(メロスの無意識)は、「気が狂った」メロスによって、
そことは異なる高次の「人を殺して自分が生きる」=「生きることは死ぬことと等価」に行くのですか。」


もし、志賀直哉の『范の犯罪』なら、「人が人を殺して自分が生きる」ことが完全に快活ならば、完全に無罪、これこそが究極の人間の定法だと私は個人的に考えています。
ここでは、人の命も問題ではない、わけのわからない世界、奇跡の生じた世界にメロスは転換ンさせられています。『走れメロス』の物語はそこに突き進んでいます。


ご質問その2
「奇跡が行き着く先は「信頼」の世界、『なめとこ山の熊』の熊と小十郎の世界ですか。」

究極的には両者は通底している、少なくともその可能性の中にある、と思います。
(ブログの読者の皆さんにお断りしておくと、『なめとこ山の熊』については最近拙稿を書いてまだ発表していないのですが、坂本さんは既に拙稿を読んでいらっしゃるので、このようなご質問を頂きました。)


ご質問その3
「メロスとセリヌンティウス(分身)は「疑う」という自身の心の問題を、
両者とも「一度」と言い、疑い続けた自身に気づいていません。
語り手がそれを承知しているとしても、
それで王(メロス自身の無意識)を別の次元に連れていけるのでしょうか。」


はい、連れて行けます。メロス自身は相変わらず、自己省察や自己認識などのない、単純な男でしかありませんが、彼の生の在り方はゼウスの神に適う生を生きています。
王はこれを目にしているのです。
メロスは一旦、己の無意識である猜疑心の世界、つまり王の生きている世界に堕ち、これをセリヌンティウスに告白、懺悔し、約束を果しました。
王は自身の「人を殺して自分が生きる」、その人間世界の定法に堕ちたメロスが今、そこから脱皮しているのを見て、心底改心しているからです。



坂本さんの感想

2019-04-08 16:33:03 | 日記
3月30日の山梨県立文学館の私の講演を聞いて下さった坂本まゆみさん(3月末まで県立高校で教師をされていました)から、メールで感想を頂きました。
私が錯綜しながら、辿り着いた地平に、既に坂本さんの生徒さんはとっくに辿り着いています。
坂本さんと生徒さんの感想に大変感銘を受けましたので、是非こちらで広く紹介したいと思います(ご本人には是非、ブログとの了解を得ています)。

田中実先生

『故郷』の「私」はルントウの内なる世界に気づきませんが、
だからこそというべきか、ルントウを支えていた「希望」をはぎ取ります。
そして、未熟な人間のまま、内側にある「鉄の部屋」の鍵を外から開ける、という先生の御論にどれほど驚かされたことか。

メロスも自分の未熟さに気づきません。
しかし、〈語り手〉は承知していながら、奇蹟の物語として、「命の行方」「命以上のもの」を語っていると、先生はおっしゃいました。

先生のご講義の中に、こういうところがありました。

「王は深い傷を負って、人間が何者であるかという、彼としてはリアリストになったつもりでいる。
そういう王とメロスの関係が、両者が元のメロスに戻るのではなくて、
王から見れば自分が今まで考えてきたことが全然通用しない世界になってきた。
セリヌンティウスもお詫びをし、メロスもお詫びをすることで、
そこをくぐって、両者が手を握り合うという姿は、
王からみると、自分の今までのものが超えられてしまっているから。
そう語っていて、最後は完結するというふうにお話は進んでいる。」と。

(生徒のレポートに、「王がいかに傷つき孤独であったか」を述べるものがありました。)

王=メロスの無意識は、奇蹟を起こすメロスによって超えられている、ということですね。

「3人の人物はひとりだった。
この小説の中にはそういう意味では他者との関係性が基本的に出てこない話になっている。
というところにこの小説が物語文学として完結することが十分可能になっている。」とも。

こう考えると、他者性を追究し、人間の内なる罪を追究するという近代小説として読むのではなく、奇蹟の物語としての行方を読むことでこの作品の価値は引き出される、
ということが説得力をもって迫ってきます。


生徒のレポート

「王の心は孤独であった。そんな心になってしまったのには何があったのだろうか。
王は「人間は私欲の塊」と言っている。ここから推測するに、王の地位に立ち、あるいは王になるまえから、家臣に、一族に、その身を利用されてきたのかもしれない。
私欲のために利用され、その中で幾度となく命の危険にあったのだろうか。
そして、一族や重臣を虐殺するような決定的な離反にでもあったのだろうか。
人質を差し出させてもなお人を信じることができない心を抱き、「疑うのが正当の心構え」と家臣や一族に教わったのだ。
しかし、メロスが約束通りに帰ってきたとき、王は初めて人に約束を守ってもらえたのかもしれない。
その感動が王の「孤独の心」を変えたのだ。
しかし、たった一回で心が変わるような感動を得るほど心が傷ついていたということだ。」



坂本さんからはさらに『走れメロス』の内容に踏み込んだ感想を頂いていますので、
それは次回の記事でご紹介します。

古守さんのコメントにお答えします

2019-04-05 20:44:15 | 日記
 古守さんが、先日私が山梨で行った講座の内容を要約して下さって、質問を頂いていますので、そのまま以下に再掲させて頂き、これにお答えしたいと思います。

「走れメロス」の講座 (古守やす子)
2019-04-04 09:32:58
 3月30日の山梨県立文学館での講座は、良い意味で呆然としてしまうような衝撃的な内容でした。
 この講座で「走れメロス」を取り上げると伺って以来、田中先生の過去の「走れメロス」論を再読し、メロスが一度ならず刑場に戻りたくないというセリヌンティウスへの裏切りの気持ちを持っていたこと、そのことに無自覚なまま語り終える〈語り手〉を、先生が〈迂闊な語り手〉と呼び、〈語り〉の破綻を指摘されたことを、私なりに理解して臨みました。
 しかし、この講座で先生は〈迂闊な語り手〉を撤回、〈語り手〉は全て承知で「いのちの行方」を語っていたとされる御論を展開され、「作品の価値を引き出す」と論じられ、驚きました。

 メロスの「無意識」の領域が王であるということ、そして、メロスとセリヌンティウスは立場は「意識」が共通の同一人物(分身)ということ、(つまり〈メロス・セリヌンティウス〉と〈王〉は、キャラクターこそはっきり分けて描かれているものの、三位一体=一人の人物であるということ)、この捉え方は目から鱗でした。

 メロスは疲労困憊で動けなくなった時、「人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法」と無意識の領域が表面化します。まさに王の意識です。この領域にあるのが「しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れ」祝宴に興じ、「少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていた」いと思い、「そんなに急ぐ必要も無い」と「ぶらぶら歩いて」行くメロスです。安藤宏氏や田近氏が不問にしようとしたメロスの心ですが、やはりこの部分は重要だと再確認しました。

〈語り手〉は、王と表裏一体のメロスが、王になった後、元のメロス(セリヌンティウスの「命」を救うためという、命を問題にする王と表裏一体の次元のメロス)に戻らせるのではなく、「人の命も問題でない」「もっと恐ろしく大きいもの」という、命以上の大切なもの(命を超えるもの)を問題とする奇跡の世界、異次元空間にメロス(同時にセリヌンティウス、王)を連れて行くのだ、という御論にただただ圧倒されました。
 命を超えるものとは、永遠の信頼でしょうか、魂でしょうか、神でしょうか…。

 ただ、最後にメロスとセリヌンティウスが交わす言葉の「途中で一度」「たった一度だけ」は、私の中ではやはりまだひっかかるのですが…。メロスは(セリヌンティウスも)「単純な男」のままで、変わっていないのではないかと。二人の言葉がぴったり一致していることはまさに二人が一心同体であることを表していると思います。


 先生は、この作品は「近代の物語小説」として読むことが必要(そう読むことが作品の価値を引き出す)とおっしゃって、近代小説(の真髄)を読む読み方とは峻別することを強調されました。そこのところがまだよく理解できなかったので、詳しくお聞きしたいと思いました。

 なお、講座の中で「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカンパネルラは次元を超越したところで結びついていると話されたのが、断片的にですが強烈に印象に残っています。


 以上が古守さんの文面です。



ご質問の第一は、「命を超えるものとは何か」です。直接的には絶対的に信頼されていると感じることですが、私はここではそれはギリシャの神ゼウスの心に適うものと考えます。それが奇跡を起こさせ、太陽の沈むより十倍早くメロスを走らせます。絶対的に信頼されると感じる事とは、奇跡を可能にします。それがギリシャの神、ゼウスの心に適うのです。
 
第二はメロスとセリヌンティウスがそれぞれ「途中で一度」、「たった一度だけ」と告白する場面がまだ引っかかると言われています。
 はい、私もこれと格闘しました。メロスの妹の結婚披露宴の宴席での「一生このままここにいたい」という「心」は、実は、セリヌンティウスの死を意味します。それにつながるのです。確かに、末尾の刑場でセリヌンティウスに詫びる場面で、これが不問に付されています。単に忘れたで済む問題ではありません。これをどう考えればよいのか、わたくしは以前、「迂闊な語り手」を問題にし、今回、これを撤回しましたが、確かに、難問ですよね。行為で裏切るだけでなく、「心」で裏切ること、これが問題のはずです。〈語り手〉がこの「心」に対し単に「迂闊」でなかったとすれば、どう考えたらよいのか、今はこう考えています。

 メロスは冒頭から結末まで、自分自身の無意識の欲望の在り処を捉える機会はなかった、自己省察とは無縁な存在として語られています。〈語り手〉はメロスが奇跡を起こすのに、端的に鮮明に向かわせたい、これを分かりやすく明快に語りたいのです。
 披露宴の席で、メロスが故郷にそのまま残りたいと思うことが実は、セリヌンティウスを見殺しにすることになる、これは極めて重要な問題ですが、メロスの無意識の領域なので、メロス自身は最後まで意識化できません。『走れメロス』の〈ことばの仕掛け〉とは、メロスの無意識を王の意識が顕在化しているところにあります。
 王は「命が大事だったら、おくれて来い。」とささやきます。王にはメロスの気付いていないメロスの無意識、「人を殺して自分が生きる」を「人間世界の定法」として生きていたのです。恐らく二年前までは王はほとんどメロス的人物だったはずです。それが己の信頼する人物にしたたかに裏切られ、その傷の深さが激しい憎悪となって、相手を殺すのです。王は強く人を信頼したい、その思いの裏返しが現在の王なのです。メロスの意識の底、無意識にはこの王の意識があり、これが宴会の席で「一生ここにいたい」という意識として現れます。翌日、川を渡り山賊と戦って、精魂尽き果てた後、身体が動かなくなると、それまで隠れていた無意識が意識に浮上し、「人を殺して自分が生きる」のが人間の定法だと世界を捉えることになります。
 〈語り手〉はそうしたメロスの隠れた無意識の領域を王に体現させてこの物語を語っているのです。この点が今回私の解釈が変わった点です。
 疲労困憊の極、眠りこけていたメロスは目が覚め、身体が動くようになります。すると、今度はセリヌンティウスに信じられているという思いが体中にみなぎります。ここからメロスの頭は「からっぽ」、「わけのわからない大きな力」が働き、間に合う、間に合わなないという世の掟も、いや、「人の命も問題ではない」世界にメロスは入り込み、奇跡が起こります。
 刑場に着いたメロスがセリヌンティウスに「一生ここにいたい」と言う自身の無意識を不問に付していても、既に王は「人を殺して自分が生きる」という人間の定法を体現しているために、「途中で一度悪い夢を見た」とメロスが告白すると、王も改心さえすれは、王とメロスは条件は同じ、仲間です。〈語り手〉はメロスのみならず、王の改心を語りたいのです。すなわち、メロスの無意識の裏切りは不問に付されているように見え、〈語り手〉は既にこれを王によって体現させていて、その王が改心する条件を揃えて、この問題を語っていたのです。
 メロスが極度に単純でのんきに過ぎる人物として語られているのは、王との相関関係として仕掛けられていたのです。


三番目の問題はまたの機会にしましょうね。

周さんの『きつねの窓』の質問から始めます。

2019-04-02 21:36:27 | 日記
 3月30日、山梨県立文学館で、『走れメロス』について、お話しました。

 前回の記事で、周非さんからの質問に、講演の中でお答えすると書きましたが、安房直子の『きつねの窓』には言及できませんでした。そこで、ここでお答えしたいと思います。
 

 先に言いますが、2015年の『都留文科大学研究紀要第81集』に収録の拙稿で「「物語」の重さ、「心」のために」と題して論じましたように、『きつねの窓』の〈読み〉の課題なるものは、遠くハンナ・アーレント著『イェルサレムのアイヒマンー悪の陳腐さに無関する報告』に連なる、私自身の陳腐に巣食う、他者のことを考えられない性(さが)であり、悪の問題であって、これは近代文学研究に携わる際、実は絶えず根底に横たわっている、蔑ろにできない決定的な課題と考えています。

 小学校の安定教材の一つ、『きつねの窓』は現在まで、生身の〈語り手〉にして主人公の「ぼく」のまなざし、パースペクティブからだけで読まれています。それではまずい。〈語り手〉の「ぼく」のまなざしを読むのみならず、母を「ぼく」に殺さた子ぎつねのまなざしで読むことで、はじめて「ぼく」が如何なる存在であるかが相対化できます。

 染物屋の小僧に化けた子ぎつねは親の仇を撃ち、復讐する代わりに、「ぼく」に懐かしい人を浮かび上がらせる不思議な「きつねの窓」を提供します。その代償としては、親殺しの因縁の鉄砲をもらい受け、さらに「なめこ」を「ぼく」にあげます。その後「ぼく」は染めてもらった指をいつもの習慣で洗ってしまい、不思議な「窓」を失い、以来人から変な癖があると言われます。この童話はそんな話です。この作品の際立った特徴は、語り手の「ぼく」が母を殺された子ぎつねの哀しみに思いを馳せることが全くなく、自分自身のことだけしか考えていないで物語が終わるところにありますが、教育界でもそうした自覚や意識は持たれていません。殺される側の領域、母を殺された子ぎつねの痛みは対象化されることがないのです。

 母を撃った鉄砲を受け取って「なめこ」を渡す子ぎつねの思い、あたかも高僧のごときふるまいが、作中の「ぼく」に全く無視されている現状こそ問われるべき問題であり、子ぎつねにとって「ぼく」とは何者かを問うと、これはハンナ・アーレントがアイヒマンを問題にした「悪の陳腐さ」に遠く、しかも、しっかりと繋がっているようにわたくしには思われます。

 こうした作品を評価して教科書に採用し続けている国語教育界を私は認めることはできません。
 そのことについては、さらに児童言語研究会の『国語の授業No.260』掲載の拙稿「安房直子の『初雪のふる日』と『きつねの窓』」で論を重ねています。


 ここで、ようやく周さんの田中への疑問に移れます。
 この童話に対して、田中実という読者は『きつねの窓』を前述のように批判しているが、作品は語り手の「ぼく」をそう批判させるために書かれていると何故理解できないのか、何故そう読んではいけないか、と言うものです。
 つまり、周さんから見れば、田中の読みを誘うように『きつねの窓』は書かれている、その田中の批判は必然、ごく当たり前のこと、ならば、『きつねの窓』という作品がそう「ぼく」を批判しているのではないか、というものです。周さんはこれを評価されているのです。

 田中が読む限り、『きつねの窓』には〈語り手〉の「ぼく」への批判は全く書かれていません。「ぼく」は子ぎつねの母を撃った鉄砲をもらい受ける子ぎつねの心情に対し、その内面を思いやることは全くしません。それに対して、批判しているのは読者であるわたくし田中です。田中の読みは『きつねの窓』の文章の記述を田中の読み込んだコンテクストに応じて相対化し、この相対化が田中に批判をさせているのです。アプリオリに田中の批判が『きつねの窓』に内包されているのではないのです。


 周さんは作品の記述が客観的記述として実体としてあるとお考えです。これは基本的に間違いです。久しく田近洵一先生とわたくしが論争していることもこのことです。田近先生はわたくしの最も尊敬する国語教育の先生なので論争を続けていますが、私とは違って、我々が読む客体の対象の文学作品を客観的に実体として存在するとお考えです。「言語的資材」と名付け、これを読者が本文Ⅰ、本文⒉・・と意味付けていくとお考えです。通常文学作品はそう考えられているでしょうが、これは原理的な誤り、わたくしはそう考えています。

 文学作品は読み手が言語の概念(シニフィエ)を視覚映像(シニフィアン)によって、コンテクスト(文脈)を造りだして生成されるのです。『きつねの窓』を田中が批判していることを周さんは当たり前、それは作品に内包されているとお考えのようですが、それは原理的に誤りと言わざるを得ません。
 第一、わたくしの読み方は例外中の例外です。主人公主義で読むのが、通例です。つまり、視点人物にして語り手の「ぼく」のまなざしでのみ物語童話が読まれる、まだナラトロジーですら、読まれていないところに日本の国語教育があるのです。

 周さんはナラトロジーを駆使するのは当たり前と思われていますから、『きつねの窓』を批判する田中をごく当たり前だと勘違いされています。しかも、作中の文章の記述がアプリオリにそうなっていると誤解されていますが、〈読み〉は全て、読み手のフィルターによって現象します。長くなりましたので、『きつねの窓』に物語の力がないことは次の記事、『走れメロス』について述べる際に、申します。