〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

『高瀬舟』は「読むこと」の問題が満載(2)(更新)

2020-09-27 18:27:24 | 日記
前日の続きです。
(若干書き改めました。)

あらかじめ『高瀬舟』を読んできた読者に、意外と思われることを先に言っておきます。
『高瀬舟』の物語の核心であるはずの喜助の弟殺しの事件の真相は、
京都町奉行所が半年もかけて調べたこと、
ところが、奉行所の捉える枠組みのなかに事件の真相は実は、ない、
まだ隠れたままになっているのです。
いや、奉行が取り調べたこの不思議な事件、
何しろ犯人は毫光の指すように護送の役人には見える、
物語の視点人物である同心の羽田庄兵衛の捉えているパースペクティブ・まなざしにも
捉えられないものだったのです。
弟殺しの罪人喜助自身の内奥に何が起こっているのか、それは彼らには見えないのです。
そこに『高瀬舟』の仕掛け、構造があると考えます。
それでは『高瀬舟』とはいかなる小説なのか、
これから少しずつ、お話します。

喜助は羽田庄兵衛に問われ応える際、〈語り手〉はこれを喜助の長い直接話法で表現します。
それはその言葉の聴き手である物語の視点人物、羽田庄兵衛の枠組みに拘束されない、
喜助自身の内なる声を表現するためです。
そこには半年もかけて繰り返し繰り返し調べられた奉行たちとのやり取りの成果が表れています。
何度も考え抜かれたため、整いすぎるほど条理の整った説明でした。

ところが、その条理の整った説明は、誰が聴いても、同じように事態を再現できるかといえば、
そうはなりませんでした。
奉行は弟殺しの殺人この事件を喜助の「心得違い」、
誤って弟を殺してしまった過失致死だと捉え、
遠島という判決を下しました。
一方、護送の役人、同心の羽田庄兵衛の方は過失致死の考えを斥け、
楽に死なせるための安楽死による殺人と考えたのです。

それでは殺した当人の喜助はこの事件をどう捉えているか、と言えば、
お奉行様が「心得違い」であると判決を下しているので、
その通り、誤って弟を殺してしまった、といささかのわだかまりもなく受け止めています。
そこにはわずかの疑いも残していません。
〈語り手〉は、喜助は同心の庄兵衛にも「温順を装って権勢に媚びるのではない」、
「公儀の役人」を敬っていると語っていました。
喜助は、銭二百文を元手に島で働けるとの喜びを庄兵衛に告白します。
そこにもいささかの偽りはありません。
日頃金銭で不足を憶える庄兵衛から見ると、銭二百文で満足して喜ぶ喜助と自分とは、
まるでそろばんの桁が違うように違っているだけではない、
苛酷な境遇に不平不満がなく満足し、受け入れている、
偉大なる人物ではないかとの思いが起こり、
喜助の姿が仏のごとく、毫光がさすような立派な人物に見えます。
喜助を心から尊敬しているのです。
だからです。
そういうまなざしでこの弟殺しの事件のことを捉えているから、
当初から奉行らと見方が異なるのです。
次は庄兵衛の内なる声、庄兵衛の解釈です。

  弟は剃刀を抜いてくれたら死なれるだらうから、抜いてくれと云つた。
  それを抜いて遣って死なせたのだ、殺したのだとは云はれる。
  しかし、其儘にして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であつたらしい。
  それが早く死にたいと云つたのは、苦しさに堪へなかつたからである。
  喜助は其苦を見てゐるに忍びなかつた。苦から救つて遣らうと思つて命を絶つた。
  それが罪であらうか。

庄兵衛の解釈では喜助は弟殺しの罪を犯したのではない、
弟を殺したのは弟の苦から救うための行為、
今で言うユウタナジ―、安楽死させたのであり、
「心得違い」などをしていない、むしろ殺す形で苦から救った、「心得」てなしたのです。

それでは奉行はどう見ていたのか。
弟は喉に突き刺さった刃で苦しみ、喜助に早く抜いてくれと、
「敵の顔でも睨むやうな、憎々しい目」になって訴えます。
そこで、喜助は次のように言います。

  わたくしは剃刀を抜く時、手早く抜かう、真直に抜かうと云ふだけの用心はいたしましたが、
  どうも抜いた時の手応は、今まで切れてゐなかつた所を切つたやうに思はれました。
  刃が外の方へ向いてゐましたから、外の方が切れたのでございませう。

この喜助の発言・告白を奉行はしっかりと受け止めて、
事件の出来事を正確につかみ取っています。
すなわち、喜助は弟の苦痛を取り除くため、剃刀を手早く抜こうとして、
引き抜くとき、思わず刃が外に向いて喉笛を切ってしまった、
この後気づくと弟は死んでいた、弟の死はこれが決定した、
つまり、喜助が誤って喉笛を切ったことが致命傷となった、こう判断したのです。
喜助の発言には直接的に殺そうという意志や意識は現れていません。
喉に剃刀の刺さったままの状態はまだ死ぬかどうか、決まったわけではない、
弟の要求に応じて剃刀を抜いた際の手違いで弟は死んだのです。
喜助は図らずも殺したのだから、それは「心得違い」、過失致死なのです。
奉行は庄兵衛のような先入観はありません。
奉行に敬意を抱きながらも、今回の件では「腑に落ち」ない庄兵衛が、
もし、実際奉行に聞いて見たら、奉行は庄兵衛の勘違い、思い込みを
理路整然と「条理」に基づいて説明できるはずです。


ところが、これを語っているナレーターはその奉行とも、庄兵衛とも異なる、
もちろん喜助当人の意識とも異なる、別の解釈に基づいて、
この物語を語り始めていたのです。
いわば、この物語は語られている登場人物たち、
すなわち、奉行・喜助、庄兵衛、ナレーター、この四つのまなざし、
四つの時空のコンテクストがすれ違いながら交差していたのです・・・。

後は次回にしましょう。
 

『高瀬舟』は「読むこと」の問題が満載(1)

2020-09-25 19:58:10 | 日記
しばらく、ブログの記事執筆を怠っていました。
お許しください。

前回の記事では『高瀬舟』は「読むこと」の問題が満載と書きましたので、
それについて、お話します。

先週の19日、甲府の講座で話したことです。
そもそも小説の面白さの醍醐味とは、筋(ストーリー・プロット)を通して、
その筋を筋たらしめるメタ筋、〈メタプロット〉を読み解く過程で、
自身の世界観・価値観が揺すぶられ、これまでの思考の制度性、
感受性の在り方が瓦解・倒壊し、自身がその作品の力に拉致されていく、
そうすることで、新たな価値・感動に出会う体験をしていく、
こうした類のことかと思われます。

私にはこの『高瀬舟』もまた、そうした地平へ、位相へと誘ってくれる傑作と感じます。
したがって、それは前回述べました、指導書がテーマとする『縁起』で言う二つの問題、
「財産というものの観念」」が「面白い」、
「安楽死」のことが「ひどく面白い」ことに帰着しません。
それは『翁草』の「流人の話」を読んだ鷗外の感想であり、
小説『高瀬舟』の中では視点人物、羽田庄兵衛のまなざしに映るものでしかありません。

小説『高瀬舟』を読み、この醍醐味を捉えるには、
『高瀬舟』のメタ筋、メタ〈プロット〉、すなわち、作品の構造性である、
〈語り―語られる〉、〈語りの仕組み〉を読み解き、これを解き明かす必要があるのです。
それには視点人物羽田庄兵衛とその対象人物喜助とが
如何にナレーター(語り手)から語られているか、これを読み取ることが、基本です。

ナレーターはリスナーに出来事のすべてを語り、その中に登場人物たちが登場します。
そのお話の中で、登場人物たちが語り合うのですが、それはナレーターに支配されています。
ナレーターは傀儡師、登場人物は傀儡の人形に匹敵するのです。
その意味で、ナレーターはほとんど、関係概念である作品の作者と同じですが、
作者はタイトルや署名にまで関わっているところが、ナレーターとは異なります。

そこで、視点人物とその視点人物の捉えている対象人物の相関が問題になります。
視点人物羽田庄兵衛にとって、自分の向き合っている相手、
対象人物喜助の主体は視点人物のまなざしの外部にあり、
喜助の内側は捉えることは出来ません。
それに対して、ナレーターは視点人物、対象人物双方とも、
その内側から語っているのです。
ナレーターは視点人物を語り、且つ、その視点人物の捉える対象人物のことをも語るのであり、
この重層性を捉えることが肝要です。

この物語の核心は対象人物として登場する喜助の内奥に隠れていて、
ナレーターは喜助当人から直接それを語らせています。
しかも、喜助はお奉行所で異例の長丁場、半年もの間、役人たちに向かって、
弟殺しの現場の様子を何度も何度も反芻させられています。
そこで、その出来事のあらましはナレーターが断わっているように、
条理が整いすぎているかのように整い、過不足なく語られています。
長くなったので、続きは次の記事で具体的に説明します。

『高瀬舟』について(更新)

2020-09-17 09:07:04 | 日記
この記事は9月14日に公開したものを若干書き改めました。

8月30日の記事では、森鷗外の『高瀬舟』を取り上げ、その後、
あまんきみこの童話『白いぼうし』や『あるひあるとき』を取り上げました。
このように対象の作品は違っても、論じようとする私の姿勢、
語られた出来事を語る主体との相関で読む、
「読むことを読む」態度に違いはありません。

あまんきみこの童話を読む際も、
語られた出来事、お話の筋(ストーリー・プロット)を読むだけでなく、
その語られた出来事を語る主体である〈語り手〉との相関関係を読むことを論じました。
見えにくいナレーターに目を向けることをお勧めしています。
一人称の「わたし」の背後には、
その「わたし」を「わたし」と語る〈機能としての語り手〉を読み、
全体を構造化していくことです。
この〈語り―語られる〉相関関係に〈作品の仕掛け〉が隠れていますから。
それがその作品の〈仕組み〉を読むことになります。

もう一度、申します。
読者は作品の筋(プストーリー・プロット)を読みますが、
読者にその筋(ストーリー・プロット)をそう読ませた読み手の中の力学、
メタ筋、〈メタプロット〉の力学を読むことが肝心です。
筋を筋として対象化し、その筋を語る主体である〈語り手〉との関係を読み、捉え直すのです。
その際、読み手自身の主体、その世界観が対象化されていき、自己発見が起こると同時に、
思いがけない〈作品の仕組み・仕掛け〉の方が現れてきます。
それは読み手を思いがないところに拉致し、
新たな世界に連れて行く可能性があります。
読む前の読み手の主体はこのとき、一旦何らかの〈瓦解・倒壊〉が起こっています。

語られた出来事、その筋(ストーリー・プロット)と
そう語っている主体との相関関係を読むことが
〈近代小説・童話〉を読む基本です。
それらは我々読者である読み手の内部に起っている力学(メカニズム)、
出来事の現象なのですが、これが我々読者の主体を新たに〈再構築〉させていく、
そうした可能性が近代小説を読む喜びだとわたくしは考えています。

昔から言っていることですが、「語り手」という用語は流布しましたが、
その用語、この関係概念が実体概念として理解されている面があります。
〈語り手〉は何らかの出来事を語って、はじめて、〈語り手〉・ナレーターであり、
しばしば視点人物を〈語り手〉と捉えている論文を目にします。
視点人物も〈語り手〉に語られて、視点人物として作中に現れるのです。
視点人物とは、〈語り手〉によって語られた存在でしかありません。
すなわち、その視点人物のまなざしによって現れた出来事を〈語り手〉が語っているのです。
その際、〈語り手〉は視点人物の背後、外部、メタレベルにいます。
小説を読むにはそうした作品のの仕組みである構造性を捉えることが必要なのです。

『高瀬舟』では作中のお話に登場する京都町奉行所の同心羽田庄兵衛は視点人物であり、
お話の〈語り手〉であるナレーターではありません。
ナレーターはこのお話の大要を同心の羽田庄兵衛のまなざしによって語っていきます。
お話の核心は、弟を殺したにも関わらず、
晴れやかな表情をした不思議な兄喜助の心の奥に起こった出来事、
その内奥に隠されています。
喜助は庄兵衛に向かって、直接話法で、これを語るのですが、
これが実は大変に分かりにくいのです。
読者だけが分かりにくいのではありません。
作中の聴き手たち、喜助の話を聴く聴き手の同心の役人羽田庄兵衛にとっても、
奉行にとってもそうでした。
弟殺しのこの事件に京都町奉行所は実に、半年もかかって、判決を出しました。
この弟殺しの下手人の喜助と高瀬舟護送の同心の羽田庄兵衛、
両者の相関関係、互いが互いにとって、〈わたしのなかの他者〉同士の関係です。
同心の庄兵衛も奉行の判決にどこか「附に落ちぬもの」を感じ取り、
「お奉行様に聞いて見たくてならなかつた。」のです。
高瀬舟は黒い水面を滑っていきます。
このあたりに関しては後日、お話します。


ところで、『高瀬舟』は中学校の学校教材でもあります。
光村図書から出版されている指導書には、主題として次のようにあります。

  「高瀬舟」が江戸時代の随筆集「翁草」から類を得て書かれた小説であることは、
  「附高瀬舟縁起」に述べられている。この中で鷗外は、「財産というものの概念」と
  「ユウタナジイ」(安楽死)とを「二つの大きい問題」と書いている。
  つまり「高瀬舟」は知足(自らの分をわきまえて、それ以上のものを求めないこと。)
  と安楽死を主題とした作品といえる。
   しかし、中学生の読書指導としては、あまり微視的な読解作業に陥ることを
  避けて、書き手(語り手)や登場人物の考え方や生き方を読み取らせることに重点を置きたい。
  一読者として、今の自分の生き方や考え方と比べながら読み進めることで、 
  小説を読む楽しさや価値を実感し、そこから、他の小説にも心が開かれていくことだろう。

これを読んで驚愕しました。
何に驚愕したかと言えば、指導書では「附高瀬舟縁起」の原典、
『翁草』のなかの「流人の話」で鷗外が読んだことをそのまま、
小説『高瀬舟』の「主題」、テーマとしていることです。
これでは「流人の話」で鷗外が面白いと思ったことがそのまま書き写されたものが
『高瀬舟』ということになります。
「附高瀬舟縁起」とは鷗外が小説『高瀬舟』を執筆する際、
その「縁起」、きっかけ、いきさつを語ったものでしかありません。

現在、この「流人の話」は岩波書店の『鷗外歴史文学集第三巻』に参考資料として、
須田喜代次さんの「解題」とともにありますから、
簡単に読むことができ、とても助かります。

素材の面白さがどう書かれるかが、
文学の芸術表現『高瀬舟』を読むことであるはずです。
「流人の話」で「財産と云ふものの観念」と「ユウタナジイ」、
これを「面白い」、「ひどく面白い」と読んだ鷗外が、
それらを『高瀬舟』にどう書いているのか、
小説の方が読まなければなりません。

これに関心を持って読んでいくと、そこには実は、意外なことが起こっています。
もちろん、意外なことと読むのは、わたくし個人の感想に過ぎません。
「読むこと」は読み手の主体に応じて、さまざまに現れてくることですが、
少なくとも、それは小説『高瀬舟』を読んでのこと、
先の指導書が「あまり微細な読解作業に陥ることを避け」ようとする姿勢は理解できますが、
まず、まず、作品の〈本文〉を読むことが基本でしょう。
小説の『高瀬舟』のナレーターの〈語り手〉は江戸時代寛政の頃、
松平定信の時代の弟殺しの話を語って、どこに読者を連れて行くのか、
これが小説の領域、「縁起」は「縁起」。
指導書に言う「小説を読む楽しさや価値を実感」するには、
小説が読み手をどこに連れて行くか、どこに拉致するのかを読むこと、
これが望ましいのではないでしょうか。
『高瀬舟』には「読むこと」の問題が満載です。

村上春樹の「地下二階」から近代小説・童話に向けて

2020-09-11 14:08:19 | 日記
村上春樹が自分の小説を解説する際、彼はどう解説・説明しているか、
これを前回論じました。
敢えて、復習をします。我慢してお読みくださると嬉しいです。
実は、すぐに中学の教材『高瀬舟』の読みの肝、
〈近代小説〉の「構造分析」を具体的にお見せしたいのですが、自分でも我慢しています。

作者である村上の中には自分の意識の下に無意識が隠れている、
これをえぐり出していくのみでは足りない、
えぐり出された無意識の領域の外部、虚空まで抱え込んでいたのです。
村上文学はその虚空=「void」を、
作中の主人公にして視点人物に抱え込ませていたのです。
だから主人公は「壁抜け」だの、月が二つある世界だのを行き来してしまう、
これが描かれることを言いました。
あまんきみこの童話も同様です。
そして実は、そこに近代小説の神髄があるのです。
しかし、それがなぜか大変に分かりにくいし、捉えにくい。
いや、当然です。

それはなぜかと言えば、そこには世界観の転換、
座標軸の転換、時空・次元を超える表現の飛躍が隠れているからです。
それは読者共同体の世界観の常識に反しているのですから、分かりにくいのは当然です。
しかし、そに〈近代小説・童話〉の魅力の源泉が隠れています。
そこに読むことの秘密の鍵である〈読み〉の秘鑰(ひやく)があります。
その秘密の扉を少しづつ、開けていきましょう。
何年もかかるかと思われますが。世界観認識の転換が要求されています。
実は、それは「ポストモダン」、「ポスト真実」と呼ばれている
二十世紀後半から世紀末の世界観の転換の問題でもありました。


読みの問題、「読むことを読む」を問題にしましょう。そこには具体的には何が待っているか。
先に述べた例で、まず、言っておきます。
あまんきみこの童話『おにたのぼうし』なら、女の子の家は極めて貧しく、
女の子は結果的におにたを自殺に追い込んで、
おにたが変身した黒い豆を「おにはそと」と豆まきをします。
お母さんのためですが、おにたを自殺に追い込んだことなど、当人は全く知りません。
おにたの女の子への知られざる愛、その献身の悲しさ、その深さ、
犠牲の大きすぎるその愛を読み取ることがこの童話の言い知れない魅力です。
女の子の母への愛は結果としておにたに対しての無自覚の罪を作っています。

当人は知らなくても罪は生まれます。それがどう働くかは、ここには書かれていません。
あまんきみこの童話は無意識の罪を雄弁に語っています。
ここには世界観の転換はなくても理解できます。
しかし、ポイントは互いが相手とは、すべて、自分が捉えた相手でしかない、
このすれ違いに劇・ドラマが生まれています。
相手は自分の捉えた相手でしかない、相手そのものは捉えられません。

『白いぼうし』なら、松井さんや幼稚園児のたけお君、
彼ら人間たちはチョウである女の子を白いぼうしの中の地獄の檻(おり)に閉じ込め、
苦しめていたことを全く知りません。
人間たちはチョウを採っては楽しんでいます。
人間たちはその罪を全く自覚していません。

車を運転している松井さんはたけお君に魔法を掛けて、一人遊んでいました。
ところが〈語り手〉はその松井さんに魔法を掛けでいるのです。
チョウである女の子が仲間からの「よかったね」、「よかったよ」の喜びの声を
人間の松井さんに聴かせたのです。
実は、奇跡のごとく、〈語り手〉はチョウを採って遊ぶ人間の罪を救済していた、
だから、松井さんにチョウの声が聴こえたのです。

何故そんな魔法、マジックが可能になったのか、
それが『白いぼうし』のお話の醍醐味です。
詳しくは来年明治図書から出版される予定の出版物に書きました。
これはその予告編、宣伝広告でもあります。

しかし、肝心なことは語っておきます。
〈近代小説〉を読む要諦、ポイント、です。
『白いぼうし』に限らないこと、お話とは、語られた出来事なのです。
語られた出来事の中のお話、松井さんとチョウである女の子とは、
互いに相手は自分たちの捉えた相手でしかない、〈第三項〉である、
そこには、自分の意識を超える無意識をえぐり取って相手を捉えたとしても、
相変わらず、相手は自分の捉えた相手でしかありません。
こうしたことを抱えて、〈語り〉が現象しているのです。
〈語り〉には背理が伴います。
〈語り〉には背理を孕みます。

何故「背理」なのか。
自身が無意識までえぐり出して捉えた対象の相手でも、
所詮、相手は自分の姿に応じて現れた相手・外界でしかないからです。
この背理と格闘して初めて〈近代小説・童話〉の領域・本領が現れます。
またこれから時空を転換させて、神髄の地平が現れます。


先月に続いて今月も、以下の通り、甲府での文学講座で話をします。

テーマ    あまんきみこ童話から森鷗外『高瀬舟』を読む
講師      田中 実(都留文科大学名誉教授)
日時      2020年9月19日(土)午後2時から午後3時半
会場      山梨県立文学館
参加方法    会場での参加またはリモート参加
参加申込の締切 2020年9月18日(金)22時まで
参加費     会場参加の方は1000円

参加をご希望の方は、お名前、所属、参加方法を記入のうえ、
下記のアドレスに申し込んでください。
申し込まれた方には折り返し返信します。
dai3kou.bungaku.kyouiku@gmail.com  (担当 望月)

田中実文学講座は、10月17日(土)にも開催します。

主催   朴木(ほおのき)の会


村上春樹の「地下二階」を生の領域にするとは?

2020-09-09 09:51:49 | 日記
前回の記事で、次のようなことを書きました。

あまんきみこの『あるひあるとき』の〈語り手〉の老婆である「わたし」は、
意識の下の無意識のさらにその外部の虚空=「void」、了解不能の領域を抱え込んで、
意識・無意識の日常的現実の領域を相対化し、
村上春樹の唱える「地下二階」までを抱え込んでいる。

だから、お話は五歳の幼女が次の瞬間、一気に現在の老婆として現れ、
長い年月の日常的現実が空白のまま、お話は閉じられます。
ここでは日常の現実はメタレベルで捉えられ、その枠組みが対象化されて、
その外部が見抜かれているのです。そうした点、村上文学と共通しています。

こう言っても、訳が分からない、何を言っているのだと叱られそうです。


村上春樹の文学、小説は世界中で大変な人気を誇っていても、
アカデミズムを含めて、賛否両論激しいと言わざるを得ません。

村上文学には主人公が「壁抜け」をしたり、月が二つあったりする、
この全くの非現実の架空の出来事が毎回何らかの形で描かれています。
常識人はこれを小説だから、当然フィクションでしょ、とごく当たり前に考えます。

ここに落とし穴が隠れています。

村上春樹はしばしば自身の小説について説明をしています。
その一つとして、人間の生の領域を一軒の家に喩えています。
一階はリビング、二階は寝室、地下一階は無意識の領域とし、
ここまでは誰でも、降りていけます。
「地下一階」、すなわち意識できない無意識の領域までは、
フロイトやユングのおかげで一般に掘り下げることが流布しているので、
例えば夜見る夢の世界がそうか、とか無意識領域をイメージできますよね。
ここまではリアリズムの範疇の世界です。

しかし、そのさらに下には「地下二階」があって、
これはもはや通常の頭では理解できない、と村上春樹は唱えるのです。
この意識・無意識の外部の「地下二階」は、了解不能の虚空=を「void」を抱えている、
などと言っても、なんだそれ?と面食らう方も多いでしょう。


論点の岐路は以下の点にあります。
我々が生活している場は、目に見え、耳に聴こえ、手で触れる世界、
この世に生を享け、気が付くと、我々は空気を吸い、モノを食べ、排せつし、
子孫を残し、やがて死んで行きます。
そこには確かに「客観的現実」が事実としてある、実体としてあると感じられます。
近代社会になると、これを科学的知識が裏打ちし、
我々人類は「客観的現実」を信じる、信じないなどと迷うことなく、
その存在を前提にして、生きています。
意識することなく、無前提に、
主観的現実の外部に「客観的現実」が事実として厳然と存在している、
と受け入れて生活しています。

確かに我々の前には、空があり、海があり、陸があり、山があり、都市が見えます。
我々はこの外界から空気を吸収し、生きています。
これは我々人類の生命の根源を支える「客観的現実」と言えます。
ところが、他の生き物、例えばコウモリは超音波を出して外界を把握するそうですが、
コウモリは我々とはずいぶん違った外界を現実の世界としているでしょうね。
それぞれの生命体に応じて外界は現れているのです。
生命が生きるために。

人類に言葉があるように、鳥なら鳥に、魚なら魚に、それぞれの伝達手段があります。
それを媒介にして、外界の世界が現れます。
しかし、人類は、人類の言葉で捉えたものだけを客観的事実、
科学的に真実に値する対象と信じているのです。
何しろ、人間の言葉、人類の言語で捉えたものを通して、外界が現れ、
それに対応して生命を維持・存続しているのですから、当然です。

ところが、同じ人間でも、その外界は天動説から地動説、
さらにアインシュタインの相対性理論が登場し、量子力学が登場すると、
世界の在り方それ自体がまるで変わってしまいます。
外界の現実は全く異なってくるのです。

つまり、科学的なリアリズムも、
実は人類が人類の言語を持って人類が生きられるように、
外界を切り分けて創り出したもの、
はじめに言葉があった、からです。

ことばが世界を創り、神を創り、通貨・お金を創り、
人類の文明を創り出したのです。
人間は人間にふさわしい世界を人間の言語で捉えていたのです。


〈言語以前〉を想像してみましょう。想像できません。
イメージできない壁にぶつかります。
つまり、人類の捉えている外界は、人類の捉えている外界でしかない、
一種の上げ底です。

〈言語以前〉を強いて想像すると、それは死の世界に似ています。
生の裏側には常に死が張り付いていて、
その向こうには目のくらむような果てしない虚無、
了解しようのない虚空=「void」が広がっています。
わたくし個人はこれを了解不能の《他者》=〈第三項〉と呼んでいます。
本ブログのタイトルにもしています。


我々人類は近代社会になると、科学の進歩と相俟って、
主観的真実の外部に客観的真実、客観的現実があると信じてきました。

日本の近代文学は、自然主義文学以降、私小説、戦後文学も、
いわばこの上げ底の中で書かれています。
だから悪いとは100%考えていません。
むしろ逆、これこそ近代小説の本流、これを踏まえなければまず始まりません。

それに対して、私が近代小説の神髄と呼んでいる作品群は、
分かりにくい「地下二階」を抱え込んであるのです。
あまん文学も村上春樹の文学も漱石、鷗外の文学も、
リアリズムの権化と考えられている志賀直哉の文学もそうです。
しかし、この近代小説の神髄と呼ぶべき作品の作家たちの中には、
芥川龍之介や太宰治、三島由紀夫、川端康成など、
自死を選んだ者も少なくありません。

長くなったので今日はここまでにしましょう。