昨日の甲府での講座では、前置きが長過ぎて、肝心の『高瀬舟』の話がし足りなかったので、
ここで改めて、申し上げます。
この作品のお話は「いつの頃からであつたか。」から始まっています。
そしてお話は最末尾の一行「次第に更けて行く朧月夜に・・・」で終わります。
すなわち、その前、作品の冒頭の「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である」以下は、
実は、このお話以前の部分、ナレーターはお話のナレーション以前のいわば、
注を付け加えるところからこの小説を始めています。
ここにこの作品の仕掛けが隠れていたのです。
実に『高瀬舟』は話以前から始めて、注釈的なことを挿入して、
いわゆる話の筋(ストーリー・プロット)の枠組みを相対化しています。
そして、その奥に喜助の内面の秘密を描き出し、小説の神髄を示さんとしている画期的な小説だったのです。
こうした読み方が必要と考えます。
この小説は、江戸時代の寛政の頃の話を物語の舞台としてナレーターは語りながら、
実は、その背後にある明治・大正の時代の現代の官僚機構を相対化し、
時代の枠組みを超えて生きる、隠れた人間の内面の姿、
官僚機構の「オオトリテェ」を超える問題を提起しているのです。
罪人喜助の内面は奉行の半年の長い取り調べでも、護送する同心の庄兵衛にも見えない、
喜助はそうした内面の秘密を官僚機構の外部にあって生きていた、のです。
それを奉行も同心の庄兵衛も全く知りません。もちろん想像もできません。
語り手はその罪人の隠れた内面の姿を語って、これをリスナーである読者に示しています。
時代を超えて生きる者の尊さ、これを語っているのです。
この小説は陸軍軍医総監医務局長、官僚機構のトップにあった森林太郎の最後の小説です。
『寒山拾得』とともに。置き土産として。
視点人物の庄兵衛は知足の喜びと安楽死のまなざしで、罪人喜助を捉えています。
一方、奉行は喜助が弟の苦しみを取り除こうとして、誤って弟殺し、心得違いとの判決を下しています。
両者は食い違っています。
下級役人の庄兵衛は遠島の刑が妥当かどうか、若干の疑問を感じています。
お話はその疑問を持ったまま、終わっています。
だから、視点人物のまなざしがナレーターのまなざしであるかの様に読む論文が多数存在します。
しかし、対象人物の喜助はその視点人物のまなざしの外部にいます。
それを語り手・ナレーターは直接話法で喜助に語らせることによって、
視点人物を相対化し、喜助の内側からも語ることになるのです。
この直接話法で対象人物に語らせるのは、
語り手が視点人物のまなざしの外部にある対象人物のまなざしを語るための手段なのです。
ここがポイントのひとつ。
もう一度言います。
多くの『高瀬舟』論は視点人物を実質的なナレーターかの如く捉えて、
その外部の喜助のまなざしを捉えずに、視点人物のまなざしを特権化しています。
これをナレーターのごとく理解します。
しかし、喜助は直接話法で、自身の生涯を語るのです。
喜助は当時の社会の組織の枠組みの外部、秩序外存在だったのです。
喜助は入牢という刑罰を逆に満足に思っているのです。
刑罰という制度は喜助には通用しないどころか、入牢とか遠島とかは、
そもそも、喜助にはありがたいこと、働くなくて、食べられるからです。
それまで、そんな楽な生活はしてきませんでした。
喜助兄弟は孤児、二人は一人になって、やっとギリギリ生きてきたのです。
弟は病気になり、兄は二人分働かなればならず、それは不可能、
もう二人とも餓死するしかないところに追い込まれていたのです。
そのため弟は自殺をしようとして、剃刀で喉笛を切ったが死にきれず、
剃刀が刺さったまま苦しんでいたところ、そこに兄喜助が戻ってきた。
弟は剃刀を抜いてくれるように訴え、そこで、剃刀を抜いたところ、
誤って喉笛を切ってしまい、殺してしまった。
その殺した手ごたえはあり、それによって、兄自身の内面は死ぬ、
すなわち、兄は弟を殺した時、自身の内面も殺してしまった、
その後の喜助の内面は弟と共に生きるのです。弟は死んで兄の中で生きるのです。
これが当時の官僚機構の枠組みを超えて生きてるということです。
喜助の豪光のさすような生の在り方は、弟を安楽死させて安心しているのではなく、
弟と共にいったん内面的に死に、体は生きている兄の心の中に弟が生きている姿をナレーターは語っています。
このお話をナレーターは語りながら、このナレーターを超える、小説の語り手が全体を構成しています。
ここで改めて、申し上げます。
この作品のお話は「いつの頃からであつたか。」から始まっています。
そしてお話は最末尾の一行「次第に更けて行く朧月夜に・・・」で終わります。
すなわち、その前、作品の冒頭の「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である」以下は、
実は、このお話以前の部分、ナレーターはお話のナレーション以前のいわば、
注を付け加えるところからこの小説を始めています。
ここにこの作品の仕掛けが隠れていたのです。
実に『高瀬舟』は話以前から始めて、注釈的なことを挿入して、
いわゆる話の筋(ストーリー・プロット)の枠組みを相対化しています。
そして、その奥に喜助の内面の秘密を描き出し、小説の神髄を示さんとしている画期的な小説だったのです。
こうした読み方が必要と考えます。
この小説は、江戸時代の寛政の頃の話を物語の舞台としてナレーターは語りながら、
実は、その背後にある明治・大正の時代の現代の官僚機構を相対化し、
時代の枠組みを超えて生きる、隠れた人間の内面の姿、
官僚機構の「オオトリテェ」を超える問題を提起しているのです。
罪人喜助の内面は奉行の半年の長い取り調べでも、護送する同心の庄兵衛にも見えない、
喜助はそうした内面の秘密を官僚機構の外部にあって生きていた、のです。
それを奉行も同心の庄兵衛も全く知りません。もちろん想像もできません。
語り手はその罪人の隠れた内面の姿を語って、これをリスナーである読者に示しています。
時代を超えて生きる者の尊さ、これを語っているのです。
この小説は陸軍軍医総監医務局長、官僚機構のトップにあった森林太郎の最後の小説です。
『寒山拾得』とともに。置き土産として。
視点人物の庄兵衛は知足の喜びと安楽死のまなざしで、罪人喜助を捉えています。
一方、奉行は喜助が弟の苦しみを取り除こうとして、誤って弟殺し、心得違いとの判決を下しています。
両者は食い違っています。
下級役人の庄兵衛は遠島の刑が妥当かどうか、若干の疑問を感じています。
お話はその疑問を持ったまま、終わっています。
だから、視点人物のまなざしがナレーターのまなざしであるかの様に読む論文が多数存在します。
しかし、対象人物の喜助はその視点人物のまなざしの外部にいます。
それを語り手・ナレーターは直接話法で喜助に語らせることによって、
視点人物を相対化し、喜助の内側からも語ることになるのです。
この直接話法で対象人物に語らせるのは、
語り手が視点人物のまなざしの外部にある対象人物のまなざしを語るための手段なのです。
ここがポイントのひとつ。
もう一度言います。
多くの『高瀬舟』論は視点人物を実質的なナレーターかの如く捉えて、
その外部の喜助のまなざしを捉えずに、視点人物のまなざしを特権化しています。
これをナレーターのごとく理解します。
しかし、喜助は直接話法で、自身の生涯を語るのです。
喜助は当時の社会の組織の枠組みの外部、秩序外存在だったのです。
喜助は入牢という刑罰を逆に満足に思っているのです。
刑罰という制度は喜助には通用しないどころか、入牢とか遠島とかは、
そもそも、喜助にはありがたいこと、働くなくて、食べられるからです。
それまで、そんな楽な生活はしてきませんでした。
喜助兄弟は孤児、二人は一人になって、やっとギリギリ生きてきたのです。
弟は病気になり、兄は二人分働かなればならず、それは不可能、
もう二人とも餓死するしかないところに追い込まれていたのです。
そのため弟は自殺をしようとして、剃刀で喉笛を切ったが死にきれず、
剃刀が刺さったまま苦しんでいたところ、そこに兄喜助が戻ってきた。
弟は剃刀を抜いてくれるように訴え、そこで、剃刀を抜いたところ、
誤って喉笛を切ってしまい、殺してしまった。
その殺した手ごたえはあり、それによって、兄自身の内面は死ぬ、
すなわち、兄は弟を殺した時、自身の内面も殺してしまった、
その後の喜助の内面は弟と共に生きるのです。弟は死んで兄の中で生きるのです。
これが当時の官僚機構の枠組みを超えて生きてるということです。
喜助の豪光のさすような生の在り方は、弟を安楽死させて安心しているのではなく、
弟と共にいったん内面的に死に、体は生きている兄の心の中に弟が生きている姿をナレーターは語っています。
このお話をナレーターは語りながら、このナレーターを超える、小説の語り手が全体を構成しています。