〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

『高瀬舟』についてのコメントにお応えします。

2020-10-18 21:25:01 | 日記
10月7日の記事、「『高瀬舟』は読むことの問題が満載(5)」のコメント欄に、
石川さんから2回にわたって以下のようなコメントが寄せられました。
興味深い質問なので、皆さんにもやりとりを読んで頂きたく、
こちらの記事で取り上げることにしました。


喜助の新たな生について
田中先生、こんばんは。
弟殺しの喜助を、お奉行様は「心得違い」と判断し、庄兵衛は「安楽死」と見たわけですが、
喜助の生の語りから、読者にはその両者には見えることのない弟との愛のドラマが語られている、
という構造だと思うのですが、弟の死を経て、「今度は弟とさらに一体になって、
新たな生を生きていく」という喜助の心境が今ひとつ上手く理解できません。
弟が死ぬ前の二人の生活の苦しみは、
喜助自身が「これまでわたくしのいたして参ったような苦しみは、
どこへ参ってもなかろうと存じます」と言うほどの凄惨なもので、喜助の落ち着きは、
その苦しみから解放されたゆえという風に見えます。
誰も助けるものも縁故もいない、二人が二人だけの世界を築き、
それゆえ社会の秩序の外(或いは周縁)にいた時と比べれば、
弟殺しの罪で流罪になる今、「オオトリテエ」の判断によってやっと秩序の中に
「自分の居て好い所」ができた、というふうには考えられはしないでしょうか?


これに対して、以下のようにお応えしました。

石川さん、コメントありがとう。
もちろん、そう考えては庄兵衛にも及びません。庄兵衛は奉行の判決、
心得違いなら毫光のさすようなたたずまいはあり得ない、弟殺しを安楽死のためと考えます。
生活苦から解放されたため、喜助は落ち着いているのではありません。
彼が目に微かな輝きを放っている理由を、もう一度、拙稿を読み返して質問をし直してください。
待っていますよ。

これに対して石川さんから、以下のようなコメントが入りました。

喜助の新たな生について
喜助の頭から毫光がさすよう思ったのは庄兵衛ですが、
機能としての語り手もまた喜助を庄兵衛と同じく「神々しい」存在として描いているのでしょうか?
弟を死なせた(同時に自分も死んだと同様)という心境から転じて、
弟が自分の心の中に生きているという境地に達するその反転がどうしても腑に落ちません。
前のコメントで私がいいたかったのは、「生活から解放されたため」ではなく、
自らの生、生きる意志や目的を「オオトリテエ」の判断にゆだねたから、ではないか、
ということです。
生きるのではなく、生かされることによる落着き。
しかし、それは弟の死を犠牲にして得られたもののようにも思い、どうにも腑に落ちません。
語り手は、喜助を肯定しているのでしょうか?
三者三様の視点のうち、喜助に加担しているのでしょうか?
喜助のあり方もまた、他の二者によって相対化されているとは言えないでしょうか?




いずれも首尾一貫したお考えですね。
小生の言うこと、腑に落ちないのも当然です。

コメントに応える前に、昨日の甲府で話したことをもう一度、言っておきます。
昨日話したことは、村上春樹の『猫を棄てる』と『一人称単数』、
あまんきみこの童話『あるひあるとき』のこと、
そこには村上春樹の言葉で言えば「地下二階」、小生の言葉で言えば、
「第三項」を読み取るかどうかがキーです。
念のために言えば、「地下二階」とは、
意識の底の無意識という識域下のさらに外部のリアリズムを超えた領域です。
これとこれらの作品がどうかかわるか、それを読むことが鍵。
来月はその続きを話します。究極は『高瀬舟』もこれに関わります。
〈近代小説〉の本流ではなく、神髄の問題です。

石川さんは昨日は聴いてくださっていますか。

これから語ること、納得いかなければ、何度も質問してくださいね。

大事なことは、読み手を拘束している知性や感性の制度、
これをいかに「自己倒壊・瓦解」するかです。
これから、常に言い続けると思います。


結論だけにしますよ。
喜助と弟は秩序外存在です。牢獄が楽に感じるほどの生活なのですから。
その中で生きている弟は兄を生かすために自殺します。なぜか、
自分が生きていると、兄を巻き添えにして、
兄まで餓死させる結果になるからです。
その兄は自分のために死ぬ弟を図らずも、誤って殺してしまいます。
刺さっていた剃刀を抜く時、刃が外に向いてしまったのです。

兄と弟は、二人で一人でした。
ここがポイント、石川さんが見過ごしているところです。
これは比喩に止まりません。二人は一人なのです。
その兄が弟を誤って殺した時、兄に何が起こるでしょうか。
これを考えましょう。

石川さんは、喜助は生きる意志を「オオトリテェ」にゆだねたとお考えですよね。
「オオトリテェ」が生じるコンテクストを考えましょう。
秩序外存在の喜助にとって、奉行の権威は絶対です。
だから、喜助の言葉は実は、奉行の言葉と一致しています。

〈語り手〉は〈作品の意志〉を受けて語ろうとしていますから、
奉行を相対化して語らなければならないのです。
これを読むことが『高瀬舟』の読みの醍醐味です。

喜助にとって確かなことは、自分のために自殺しようとしている〈分身〉を
自身が殺してしまった手応えです。
いいですか、喜助と弟とは、二人で一人なのです。
その分身である相手を殺す手応えによって喜助に何が起こるか、
それはただ一つ、自身の内界が死ぬのです。
しかし、肉体は生きている。
護送の役人に喜助が毫光がさすように見えるのは、
もはやこれまでの主体の位相に喜助はいないからです。
いわば、喜助は庄兵衛と物理的には同じ空間に存在しながら、
その生の座標軸は転換しているのです。
喜助は弟を殺して罪悪感を感じるのとは逆、
何故なら、はるかに弟が自分の中に生き生きと生きているから、
生きていた時よりも深く、弟が自分に生きているから、
二人は共にある位相にあるから、輝いているのです。
これが松平定信の寛政年間の権威よりさらに生きているのです。
そう語っている〈語り手〉の〈語り〉の中に。

『一人称単数』と『あるひあるとき』

2020-10-13 21:17:24 | 日記
昨日の記事でご案内した17日の講座は、
村上春樹の最新短編小説『一人称単数』についてお話しする予定ですが、
その前に、あまんきみこの『あるひあるとき』についてもお話しします。
こちらは短いので特に読んでいなくても大丈夫です。

村上春樹の短編集『一人称単数』が刊行されたのは、7月20日、
一方、あまんきみこの『あるひあるとき』が刊行されたのは、7月10日です。
ほぼ同時期に発表された二つの作品は、一見全く何の関連もなさそうに見えますが、
そうとも言えません。
当日は、そのことについてお話します。


テーマ    村上春樹「一人称単数」(『一人称単数』所収)を読む
講師      田中 実(都留文科大学名誉教授)
日時      2020年10月17日(土)午後2時から午後3時半
会場      山梨県地場産業センターかいてらす
参加方法    会場での参加またはリモート参加
参加申込の締切 2020年10月16日(金)22時まで
参加費     会場参加の方は1000円

参加をご希望の方は、お名前、所属、参加方法を記入のうえ、
下記のアドレスに申し込んでください。申し込まれた方には折り返し返信します。
dai3kou.bungaku.kyouiku@gmail.com  (担当 望月)


主催   朴木(ほおのき)の会

講座のお知らせ

2020-10-12 21:22:38 | 日記
朴木(ほおのき)の会代表望月理子さんから、
以下の文面をブログに掲載するよう依頼されました。
オンラインでの参加が可能です。


テーマ    村上春樹「一人称単数」(『一人称単数』所収)を読む
講師      田中 実(都留文科大学名誉教授)
日時      2020年10月17日(土)午後2時から午後3時半
会場      山梨県地場産業センターかいてらす
参加方法    会場での参加またはリモート参加
参加申込の締切 2020年10月16日(金)22時まで
参加費     会場参加の方は1000円

参加をご希望の方は、お名前、所属、参加方法を記入のうえ、
下記のアドレスに申し込んでください。申し込まれた方には折り返し返信します。
dai3kou.bungaku.kyouiku@gmail.com  (担当 望月)


主催   朴木(ほおのき)の会

『高瀬舟』は読むことの問題が満載(5)

2020-10-07 15:58:51 | 日記
「『高瀬舟』は読むことの問題が満載」の最終回です。

最初から、結論はあらまし書いていたと思います。
もう一度、整理しておきますね。

要点は語られた出来事である視点人物の羽田庄兵衛のまなざしにも、
庄兵衛を支配する奉行のまなざしにも、
また罪人の喜助自身の意識の枠組みにも収まらない、
それらを超えて、
喜助とその弟の心が一つになって時代を超えて輝く姿を示すこと、
私はそう考えています。

これは研究史上の『高瀬舟』の読み方と、明確に違っています。
例えば、前に紹介した通り、現在使用されている中学校の光村図書の指導書は
『附高瀬舟縁起』で鷗外が語った「二つの大きな問題」である
「財産と云ふものの観念」と「ユウタナジイ」を作品の「主題」と指摘していますが、
これは鷗外の執筆動機であり、これを「主題」とすることは出来ません。
小説には小説の「主題」があります。
そこには小説の〈ことばの仕組み〉である〈仕掛け〉が隠されています。

例えば、冒頭の第一段落を読むと、
第二段落以降、これから「表向き」ならぬ〈裏向き・内向き〉の話が語られると思いきや、
喜助の弟殺しの説明は奉行の捉えた「表向き」の話と同じでしかありません。
つまり、ここにはその点での「表向き」も〈裏向き・内向き〉もない、その双方の話を超え、
幕藩体制の安定した寛政の改革の時代の枠組みを超えていく〈仕掛け〉があったのです。


少しだけ内容に触れます。
そもそも喜助とその弟の二人の兄弟は幼くして両親を喪い、
物心ついた時には、町内の人に助けられて育っていました。
喜助は自らをこう証言します。

  次第に大きくなりまして職を捜しますにも、なるたけ二人が離れないやうにいたして、
  一しよにゐて、助け合つて働きました。(中略)
  牢に入ると、「為事をせずに食べさせて戴きます。わたくしはそればかりでも、
  お上に対して済まないことをいたしてゐるやうでなりませぬ。

その喜助は「掘立て小屋」に住んでいた「住所不定」の「三十歳ばかり」の男、
今風に言えばホームレスです。
働いて得る日銭も、「右から左へ人手に渡さなくてはな」らず、
今回の遠島にあたってお上から下された銭二百文は、
喜助が生まれて初めて手にした財産でした。
これをたいそう喜助はありがたがっています。
そもそも喜助には庄兵衛の感服する「財産といふものの観念」の土台がなかったのです。
庄兵衛は一方的に勝手に喜助を偶像視し、感服していたのです。
これが庄兵衛に殺しの動機を「安楽死」と妄想させた所以です。
喜助の意識の底にこれがなければつじつまが合わない、
と庄兵衛は因果の合理性を作り上げていました。

他方、奉行は出来事の表層である喜助の意識を取り調べることが仕事、
誤って殺したことを「心得違い」、過失致死と判定し、喜助の意識は奉行の裁定の中にあります。
ところが、その喜助にとって入牢は申し訳ないほど楽、刑罰を楽と感じる、
司法行政の完全な秩序外存在だったのです。
弟殺しはそこで起こり、秩序の中の人間には喜助兄弟のドラマが見えなかった、
〈語り手〉はここを語っているのです。

〈語り手〉は当時の権威を位置的に「オオトリテエ」とフランス語で呼んで相対化します。
そして、喜助という罪人がその「オオトリテエ」でも裁けないこと、罰を与えたはずが、
かえって喜んでいる姿を描くことで、幕藩体制下の行政機構が法律が
その時代の相対的なものに過ぎないことことをあからさまにしているのです。

弟は「どうせ治りそうもない病気だから、早く死んで少しでも兄きに楽がさせたい」、
そう言います。
自分が病に倒れた今、兄に二人分稼ぐのは無理、このままでは共倒れ、
自殺決行は弟にとって唯一の選択肢なのです。
兄が弟の激痛を取り除こうとして、図らずも誤って弟の喉笛を切って死なせた、
それは兄にとって、自身の内奥を自身で殺す出来事でもあったのです。
つまり、兄と弟は二人で一人、二人の心も一つだったのです。
そして、今度は弟とさらに一体になって、新たな生を生きていくのです。
喜助の目が輝いているのはそのためです。

ここには兄弟愛の極致が語られていて、それは「表向き」〈裏向き・内向き〉も超えること、
これこそ時代を超える普遍的な価値であることを〈語り手〉は語っています。


京都での大正天皇の即位の際の儀式への列席を終え、陸軍軍医総監を退官するに際し、
鷗外は自らが日本で初めて二葉亭四迷とともに誕生させた〈近代小説〉創作をここに終息させます。
『高瀬舟』は『寒山拾得』共に鷗外最後の〈近代小説〉でした。
時代を超えるものを目指しているのです。

『高瀬舟』は読むことの問題が満載(4)

2020-10-03 12:24:15 | 日記
前回、分かりくいことを書きました。
何故なら、小説の中の物語は第一段落から始まるのでなく、第二段落から始まり、
第一段落はそれを相対化するための極めて戦略的な付置だった、
これを読み取ることの困難さを言う必要があったためです。
第一段落で語られていることは、高瀬舟で役人が聴き取ることが罪人の恨み言、
謂わば本音だということでした。
これは「表向き」の奉行所では話されないことを〈語り手〉は説明しています。
これを第一段落で〈語り手〉はまず〈聴き手〉にはっきりと伝えておいて、
第二段落、「いつの頃であったか。」とこの作品の物語を語り始めるのです。

庄兵衛が喜助から聴いたことは、喜助に金銭に関する不満の類が一切ないことです。
これは庄兵衛の日常では考えらないことで、敬服する思いで喜助の話をさらに聴くと、
奉行の取り調べ通りのことを喜助は語ります。
これを〈語り手〉は喜助に直接話法で語らせています。
実にここが〈語り手〉の巧妙なところ、喜助の話は通常の罪人と違って、
庄兵衛に語る〈裏向き〉であるはずのことが「表向き」のことと変わりがないのです。

これは第一段落の記述を裏切っています。
しかし、通常読者はそうは考えません。
わたくしも以前はそう考えていませんでした。
庄兵衛が聴き取って、解釈している弟殺しの事件の真相、安楽死が喜助の本音であろう、
これは単に「表向き」のことではない、〈裏向き〉の喜助の真意と捉えて、
不都合なく読み進めていくでしょう。

ところが、「表向き」も〈裏向き〉もない、その奥があったのです。
奉行の捉える過失致死という「表向き」も、庄兵衛の捉える安楽死という〈裏向き〉も、
いずれも時代の枠内で捉えたものに過ぎません。
しかし、喜助としては、剃刀を抜いたのは最愛の弟を苦しみから救いたい、
弟の願いに応えたいという一心からのことで、その弟を失った今、
過失致死だろうが安楽死だろうが、そんなことは意識には上りません。
意識ではお奉行に従うのみです。

喜助の顔が晴れやかで、その目が輝いているのは、肉体を失った弟の魂が喜助の内に宿り、
今や身一つになって生きているからです。
このことこそ喜助にとって全て、
この境地は庄兵衛にも奉行にも到底理解できないことなのです。

〈語り手〉が真に読者に伝えたいのはこのこと、
〈語り手〉から見れば、奉行と庄兵衛はフィフティーフィフティー、
彼らのメタレベルに立ち、奉行の権威も庄兵衛の足るを知るという人生の教訓も相対化し、
時代を越えて生き続ける真の価値を語ろうとしている、これが結論です。
〈語り手〉が語ろうとしていることは作中人物たちの思考や感性による意識、
時代がもたらす、ものの捉え方、ロジックを越えて、
弟殺しの喜助の意識の底、無意識の持つ普遍性へ向かうことだったのです。

ここに『高瀬舟』の〈近代小説〉の神髄たるゆえんがあります。

では、喜助が何故弟と身一つで生きることに喜びを感じるのか、
それについては次回の記事に書いて、終わりにしたいと思います。