10月7日の記事、「『高瀬舟』は読むことの問題が満載(5)」のコメント欄に、
石川さんから2回にわたって以下のようなコメントが寄せられました。
興味深い質問なので、皆さんにもやりとりを読んで頂きたく、
こちらの記事で取り上げることにしました。
喜助の新たな生について
田中先生、こんばんは。
弟殺しの喜助を、お奉行様は「心得違い」と判断し、庄兵衛は「安楽死」と見たわけですが、
喜助の生の語りから、読者にはその両者には見えることのない弟との愛のドラマが語られている、
という構造だと思うのですが、弟の死を経て、「今度は弟とさらに一体になって、
新たな生を生きていく」という喜助の心境が今ひとつ上手く理解できません。
弟が死ぬ前の二人の生活の苦しみは、
喜助自身が「これまでわたくしのいたして参ったような苦しみは、
どこへ参ってもなかろうと存じます」と言うほどの凄惨なもので、喜助の落ち着きは、
その苦しみから解放されたゆえという風に見えます。
誰も助けるものも縁故もいない、二人が二人だけの世界を築き、
それゆえ社会の秩序の外(或いは周縁)にいた時と比べれば、
弟殺しの罪で流罪になる今、「オオトリテエ」の判断によってやっと秩序の中に
「自分の居て好い所」ができた、というふうには考えられはしないでしょうか?
これに対して、以下のようにお応えしました。
石川さん、コメントありがとう。
もちろん、そう考えては庄兵衛にも及びません。庄兵衛は奉行の判決、
心得違いなら毫光のさすようなたたずまいはあり得ない、弟殺しを安楽死のためと考えます。
生活苦から解放されたため、喜助は落ち着いているのではありません。
彼が目に微かな輝きを放っている理由を、もう一度、拙稿を読み返して質問をし直してください。
待っていますよ。
これに対して石川さんから、以下のようなコメントが入りました。
喜助の新たな生について
喜助の頭から毫光がさすよう思ったのは庄兵衛ですが、
機能としての語り手もまた喜助を庄兵衛と同じく「神々しい」存在として描いているのでしょうか?
弟を死なせた(同時に自分も死んだと同様)という心境から転じて、
弟が自分の心の中に生きているという境地に達するその反転がどうしても腑に落ちません。
前のコメントで私がいいたかったのは、「生活から解放されたため」ではなく、
自らの生、生きる意志や目的を「オオトリテエ」の判断にゆだねたから、ではないか、
ということです。
生きるのではなく、生かされることによる落着き。
しかし、それは弟の死を犠牲にして得られたもののようにも思い、どうにも腑に落ちません。
語り手は、喜助を肯定しているのでしょうか?
三者三様の視点のうち、喜助に加担しているのでしょうか?
喜助のあり方もまた、他の二者によって相対化されているとは言えないでしょうか?
いずれも首尾一貫したお考えですね。
小生の言うこと、腑に落ちないのも当然です。
コメントに応える前に、昨日の甲府で話したことをもう一度、言っておきます。
昨日話したことは、村上春樹の『猫を棄てる』と『一人称単数』、
あまんきみこの童話『あるひあるとき』のこと、
そこには村上春樹の言葉で言えば「地下二階」、小生の言葉で言えば、
「第三項」を読み取るかどうかがキーです。
念のために言えば、「地下二階」とは、
意識の底の無意識という識域下のさらに外部のリアリズムを超えた領域です。
これとこれらの作品がどうかかわるか、それを読むことが鍵。
来月はその続きを話します。究極は『高瀬舟』もこれに関わります。
〈近代小説〉の本流ではなく、神髄の問題です。
石川さんは昨日は聴いてくださっていますか。
これから語ること、納得いかなければ、何度も質問してくださいね。
大事なことは、読み手を拘束している知性や感性の制度、
これをいかに「自己倒壊・瓦解」するかです。
これから、常に言い続けると思います。
結論だけにしますよ。
喜助と弟は秩序外存在です。牢獄が楽に感じるほどの生活なのですから。
その中で生きている弟は兄を生かすために自殺します。なぜか、
自分が生きていると、兄を巻き添えにして、
兄まで餓死させる結果になるからです。
その兄は自分のために死ぬ弟を図らずも、誤って殺してしまいます。
刺さっていた剃刀を抜く時、刃が外に向いてしまったのです。
兄と弟は、二人で一人でした。
ここがポイント、石川さんが見過ごしているところです。
これは比喩に止まりません。二人は一人なのです。
その兄が弟を誤って殺した時、兄に何が起こるでしょうか。
これを考えましょう。
石川さんは、喜助は生きる意志を「オオトリテェ」にゆだねたとお考えですよね。
「オオトリテェ」が生じるコンテクストを考えましょう。
秩序外存在の喜助にとって、奉行の権威は絶対です。
だから、喜助の言葉は実は、奉行の言葉と一致しています。
〈語り手〉は〈作品の意志〉を受けて語ろうとしていますから、
奉行を相対化して語らなければならないのです。
これを読むことが『高瀬舟』の読みの醍醐味です。
喜助にとって確かなことは、自分のために自殺しようとしている〈分身〉を
自身が殺してしまった手応えです。
いいですか、喜助と弟とは、二人で一人なのです。
その分身である相手を殺す手応えによって喜助に何が起こるか、
それはただ一つ、自身の内界が死ぬのです。
しかし、肉体は生きている。
護送の役人に喜助が毫光がさすように見えるのは、
もはやこれまでの主体の位相に喜助はいないからです。
いわば、喜助は庄兵衛と物理的には同じ空間に存在しながら、
その生の座標軸は転換しているのです。
喜助は弟を殺して罪悪感を感じるのとは逆、
何故なら、はるかに弟が自分の中に生き生きと生きているから、
生きていた時よりも深く、弟が自分に生きているから、
二人は共にある位相にあるから、輝いているのです。
これが松平定信の寛政年間の権威よりさらに生きているのです。
そう語っている〈語り手〉の〈語り〉の中に。
石川さんから2回にわたって以下のようなコメントが寄せられました。
興味深い質問なので、皆さんにもやりとりを読んで頂きたく、
こちらの記事で取り上げることにしました。
喜助の新たな生について
田中先生、こんばんは。
弟殺しの喜助を、お奉行様は「心得違い」と判断し、庄兵衛は「安楽死」と見たわけですが、
喜助の生の語りから、読者にはその両者には見えることのない弟との愛のドラマが語られている、
という構造だと思うのですが、弟の死を経て、「今度は弟とさらに一体になって、
新たな生を生きていく」という喜助の心境が今ひとつ上手く理解できません。
弟が死ぬ前の二人の生活の苦しみは、
喜助自身が「これまでわたくしのいたして参ったような苦しみは、
どこへ参ってもなかろうと存じます」と言うほどの凄惨なもので、喜助の落ち着きは、
その苦しみから解放されたゆえという風に見えます。
誰も助けるものも縁故もいない、二人が二人だけの世界を築き、
それゆえ社会の秩序の外(或いは周縁)にいた時と比べれば、
弟殺しの罪で流罪になる今、「オオトリテエ」の判断によってやっと秩序の中に
「自分の居て好い所」ができた、というふうには考えられはしないでしょうか?
これに対して、以下のようにお応えしました。
石川さん、コメントありがとう。
もちろん、そう考えては庄兵衛にも及びません。庄兵衛は奉行の判決、
心得違いなら毫光のさすようなたたずまいはあり得ない、弟殺しを安楽死のためと考えます。
生活苦から解放されたため、喜助は落ち着いているのではありません。
彼が目に微かな輝きを放っている理由を、もう一度、拙稿を読み返して質問をし直してください。
待っていますよ。
これに対して石川さんから、以下のようなコメントが入りました。
喜助の新たな生について
喜助の頭から毫光がさすよう思ったのは庄兵衛ですが、
機能としての語り手もまた喜助を庄兵衛と同じく「神々しい」存在として描いているのでしょうか?
弟を死なせた(同時に自分も死んだと同様)という心境から転じて、
弟が自分の心の中に生きているという境地に達するその反転がどうしても腑に落ちません。
前のコメントで私がいいたかったのは、「生活から解放されたため」ではなく、
自らの生、生きる意志や目的を「オオトリテエ」の判断にゆだねたから、ではないか、
ということです。
生きるのではなく、生かされることによる落着き。
しかし、それは弟の死を犠牲にして得られたもののようにも思い、どうにも腑に落ちません。
語り手は、喜助を肯定しているのでしょうか?
三者三様の視点のうち、喜助に加担しているのでしょうか?
喜助のあり方もまた、他の二者によって相対化されているとは言えないでしょうか?
いずれも首尾一貫したお考えですね。
小生の言うこと、腑に落ちないのも当然です。
コメントに応える前に、昨日の甲府で話したことをもう一度、言っておきます。
昨日話したことは、村上春樹の『猫を棄てる』と『一人称単数』、
あまんきみこの童話『あるひあるとき』のこと、
そこには村上春樹の言葉で言えば「地下二階」、小生の言葉で言えば、
「第三項」を読み取るかどうかがキーです。
念のために言えば、「地下二階」とは、
意識の底の無意識という識域下のさらに外部のリアリズムを超えた領域です。
これとこれらの作品がどうかかわるか、それを読むことが鍵。
来月はその続きを話します。究極は『高瀬舟』もこれに関わります。
〈近代小説〉の本流ではなく、神髄の問題です。
石川さんは昨日は聴いてくださっていますか。
これから語ること、納得いかなければ、何度も質問してくださいね。
大事なことは、読み手を拘束している知性や感性の制度、
これをいかに「自己倒壊・瓦解」するかです。
これから、常に言い続けると思います。
結論だけにしますよ。
喜助と弟は秩序外存在です。牢獄が楽に感じるほどの生活なのですから。
その中で生きている弟は兄を生かすために自殺します。なぜか、
自分が生きていると、兄を巻き添えにして、
兄まで餓死させる結果になるからです。
その兄は自分のために死ぬ弟を図らずも、誤って殺してしまいます。
刺さっていた剃刀を抜く時、刃が外に向いてしまったのです。
兄と弟は、二人で一人でした。
ここがポイント、石川さんが見過ごしているところです。
これは比喩に止まりません。二人は一人なのです。
その兄が弟を誤って殺した時、兄に何が起こるでしょうか。
これを考えましょう。
石川さんは、喜助は生きる意志を「オオトリテェ」にゆだねたとお考えですよね。
「オオトリテェ」が生じるコンテクストを考えましょう。
秩序外存在の喜助にとって、奉行の権威は絶対です。
だから、喜助の言葉は実は、奉行の言葉と一致しています。
〈語り手〉は〈作品の意志〉を受けて語ろうとしていますから、
奉行を相対化して語らなければならないのです。
これを読むことが『高瀬舟』の読みの醍醐味です。
喜助にとって確かなことは、自分のために自殺しようとしている〈分身〉を
自身が殺してしまった手応えです。
いいですか、喜助と弟とは、二人で一人なのです。
その分身である相手を殺す手応えによって喜助に何が起こるか、
それはただ一つ、自身の内界が死ぬのです。
しかし、肉体は生きている。
護送の役人に喜助が毫光がさすように見えるのは、
もはやこれまでの主体の位相に喜助はいないからです。
いわば、喜助は庄兵衛と物理的には同じ空間に存在しながら、
その生の座標軸は転換しているのです。
喜助は弟を殺して罪悪感を感じるのとは逆、
何故なら、はるかに弟が自分の中に生き生きと生きているから、
生きていた時よりも深く、弟が自分に生きているから、
二人は共にある位相にあるから、輝いているのです。
これが松平定信の寛政年間の権威よりさらに生きているのです。
そう語っている〈語り手〉の〈語り〉の中に。