古守さん、石川さんに引き続きコメントありがとう。
私が今回テキストとしたエッセイ『猫を棄てる 父親について語るとき』と
短編小説『一人称単数』です。この二つは、それぞれジャンルを異にしながらも、
ベテラン作家村上春樹が「小説を語るとは何か」を語り明かしています。
そのポイントは〈語り手〉の「僕」及び「私」が、
「私」=反「私」という等式を語り、村上文学の秘鑰(ひやく)を
見せてくれていることです。
と言っても、この等式自身は見てすぐ分かる通り、不合理で反常識、
原則として矛盾し、成立するはずはありません。
がしかし、その矛盾に見え、過ちに見えることは物語の表層の字面を読むからであり、
実は恐ろしいほど、人間という生き物の奥の深い生命の在り方の秘密を
垣間見せているのです。
「私」=反「私」とはパラドックス、この一種奇跡的表現によって、
村上文学の内奥の秘密を露わにしています。
と私が言ったからと言って、この逆説の世界観を安直に信じられると困ります。
そうした知的了解は作品の感動、読み手の既存の枠組みを逆に
温存させることになるからです。
村上のこの不合理で反常識な等式の秘密は容易には見えません。
私は今年三月、都留文科大学の研究紀要に発表した『猫を棄てる』に関する拙稿を
お読みいただくにあたって、
身近な方々には、『文學界』に掲載された翻訳家にして批評家の鴻巣友希子氏の批評文と
朝日新聞に掲載された早稲田大学のマイケル・エメリック氏のそれを
同時に読むようにとお願いしました。
それはそれぞれに感情移入して読み比べていくと、
それぞれの世界観の相違が見えてくるはずだからです。
読者は自身のまなざしによって、対象の出来事を読み取ります。
ここではどう読んだらよいのでしょうか。
エッセイ『猫を棄てる 父親について語るとき』は
「猫を棄てる」話で始まって「猫が消える」話で終わります。
冒頭の棄てた猫は家に戻ってきますが、
末尾の消えた猫はこの世の現実ではどうなったか理解できないまま話は終わっています。
鴻巣氏は、村上がこれまで語ってきた虚構の物語はは「地下二階」を語っていたが、
ここでは父親との実際の現実に回収される話と捉え、
虚構と現実が交換されるところにこのエッセイの妙味を捉えるのです。
エメリック氏はこの話にそうした個人的な出来事を斥け、
「宇宙の残虐な偶然の姿」を捉えます。
両者は大きく異なります。
鴻巣氏は無意識の「地下一階」、
エメリック氏は「地下二階」でこれを捉えています。
このブログの7月15日の記事で、村上のエルサレム賞受賞のあいさつ、
「壁と卵」について取り上げました。
そこで「壁」と「個人」が闘っているのではない、
「個人」も「壁」の一部であり、「壁」と「卵」が闘っているのだと述べました。
村上は「個人」の自我・自己に依拠するのではなく、
意識の奥底に隠れている「魂」を求め、そこに依拠しているのです。
そこでは当然、近代的自我史観の真の自己、本当の自我の発見という
近代の通念・理念は通用しません。
「個」の意識の底に降り、その降り切った「地下一階」の、
その底、その底ははもちろん「個人」に見えるはずはありませんが、
村上春樹はそこを降り切ったとして、
その外部の「地下二階」という現実には存在しない虚空=voidを措定して
物語を続けるのです。
すると、エッセイ形式の『猫を棄てる』の「僕」の物語を描く主体の手は
透明になる気がするのです。
物語の末尾、高い松の木に登って降りられない子猫は消えてしまい、
「僕」はそこから「死について考え」、地上を見るまなざしで世界を見ます。
すると、目に見えるリアリズムの領域の外部、
目に見えない〈向こう〉からこちらを見ると、
外界はパラレル・ワールドが広がり、「壁抜け」が起こっているのです。
『一人称単数』であれば、「私」が物語の終わり、バーを出てみると、
そこはもう春ではなく、通る男女は顔ももありません。
語る「私」自体が、実は、宇宙の極みと重なるような「私」ならざる「私」を
生きていた、これが表に現れたのです。
ここにこのお話の〈ことばの仕掛け〉があります。
意識の底の無意識、その無意識の底から登場させられたのが村上春樹の小説です。
『猫を棄てる 父親について語るとき』は、父親の戦争責任を
息子の「僕」がこれをどう引き受けるかが話題の中心です。
父親が無抵抗の中国人の捕虜の兵隊の首を斬った、
あるいはその場に居合わせた罪、
この父の罪を日本の軍隊という組織、「集合的無意識」の所為(せい)にするのではなく、
村上春樹は自身が作家であるため、書くことで自身の責任を取ろうとします。
そこに自身の抱え込んでいる「地下二階」のブラックボックスと向き合い、
作家としての表現を模索するのです。
『騎士団長殺し』は、実は、その表れでもあります。
小説家である村上春樹の「責務」、その戦争責任の取り方とは、
傑作を残すしかないのです。
そうしたことは、直接かかわりのない、宮沢賢治や漱石も鷗外、
志賀直哉に限らない、それぞれの作家の作品を通して果たしていくのです。
ちょっと、長くなりましたね。ごめんなさい。
またコメント下さいね。
私が今回テキストとしたエッセイ『猫を棄てる 父親について語るとき』と
短編小説『一人称単数』です。この二つは、それぞれジャンルを異にしながらも、
ベテラン作家村上春樹が「小説を語るとは何か」を語り明かしています。
そのポイントは〈語り手〉の「僕」及び「私」が、
「私」=反「私」という等式を語り、村上文学の秘鑰(ひやく)を
見せてくれていることです。
と言っても、この等式自身は見てすぐ分かる通り、不合理で反常識、
原則として矛盾し、成立するはずはありません。
がしかし、その矛盾に見え、過ちに見えることは物語の表層の字面を読むからであり、
実は恐ろしいほど、人間という生き物の奥の深い生命の在り方の秘密を
垣間見せているのです。
「私」=反「私」とはパラドックス、この一種奇跡的表現によって、
村上文学の内奥の秘密を露わにしています。
と私が言ったからと言って、この逆説の世界観を安直に信じられると困ります。
そうした知的了解は作品の感動、読み手の既存の枠組みを逆に
温存させることになるからです。
村上のこの不合理で反常識な等式の秘密は容易には見えません。
私は今年三月、都留文科大学の研究紀要に発表した『猫を棄てる』に関する拙稿を
お読みいただくにあたって、
身近な方々には、『文學界』に掲載された翻訳家にして批評家の鴻巣友希子氏の批評文と
朝日新聞に掲載された早稲田大学のマイケル・エメリック氏のそれを
同時に読むようにとお願いしました。
それはそれぞれに感情移入して読み比べていくと、
それぞれの世界観の相違が見えてくるはずだからです。
読者は自身のまなざしによって、対象の出来事を読み取ります。
ここではどう読んだらよいのでしょうか。
エッセイ『猫を棄てる 父親について語るとき』は
「猫を棄てる」話で始まって「猫が消える」話で終わります。
冒頭の棄てた猫は家に戻ってきますが、
末尾の消えた猫はこの世の現実ではどうなったか理解できないまま話は終わっています。
鴻巣氏は、村上がこれまで語ってきた虚構の物語はは「地下二階」を語っていたが、
ここでは父親との実際の現実に回収される話と捉え、
虚構と現実が交換されるところにこのエッセイの妙味を捉えるのです。
エメリック氏はこの話にそうした個人的な出来事を斥け、
「宇宙の残虐な偶然の姿」を捉えます。
両者は大きく異なります。
鴻巣氏は無意識の「地下一階」、
エメリック氏は「地下二階」でこれを捉えています。
このブログの7月15日の記事で、村上のエルサレム賞受賞のあいさつ、
「壁と卵」について取り上げました。
そこで「壁」と「個人」が闘っているのではない、
「個人」も「壁」の一部であり、「壁」と「卵」が闘っているのだと述べました。
村上は「個人」の自我・自己に依拠するのではなく、
意識の奥底に隠れている「魂」を求め、そこに依拠しているのです。
そこでは当然、近代的自我史観の真の自己、本当の自我の発見という
近代の通念・理念は通用しません。
「個」の意識の底に降り、その降り切った「地下一階」の、
その底、その底ははもちろん「個人」に見えるはずはありませんが、
村上春樹はそこを降り切ったとして、
その外部の「地下二階」という現実には存在しない虚空=voidを措定して
物語を続けるのです。
すると、エッセイ形式の『猫を棄てる』の「僕」の物語を描く主体の手は
透明になる気がするのです。
物語の末尾、高い松の木に登って降りられない子猫は消えてしまい、
「僕」はそこから「死について考え」、地上を見るまなざしで世界を見ます。
すると、目に見えるリアリズムの領域の外部、
目に見えない〈向こう〉からこちらを見ると、
外界はパラレル・ワールドが広がり、「壁抜け」が起こっているのです。
『一人称単数』であれば、「私」が物語の終わり、バーを出てみると、
そこはもう春ではなく、通る男女は顔ももありません。
語る「私」自体が、実は、宇宙の極みと重なるような「私」ならざる「私」を
生きていた、これが表に現れたのです。
ここにこのお話の〈ことばの仕掛け〉があります。
意識の底の無意識、その無意識の底から登場させられたのが村上春樹の小説です。
『猫を棄てる 父親について語るとき』は、父親の戦争責任を
息子の「僕」がこれをどう引き受けるかが話題の中心です。
父親が無抵抗の中国人の捕虜の兵隊の首を斬った、
あるいはその場に居合わせた罪、
この父の罪を日本の軍隊という組織、「集合的無意識」の所為(せい)にするのではなく、
村上春樹は自身が作家であるため、書くことで自身の責任を取ろうとします。
そこに自身の抱え込んでいる「地下二階」のブラックボックスと向き合い、
作家としての表現を模索するのです。
『騎士団長殺し』は、実は、その表れでもあります。
小説家である村上春樹の「責務」、その戦争責任の取り方とは、
傑作を残すしかないのです。
そうしたことは、直接かかわりのない、宮沢賢治や漱石も鷗外、
志賀直哉に限らない、それぞれの作家の作品を通して果たしていくのです。
ちょっと、長くなりましたね。ごめんなさい。
またコメント下さいね。