〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

丸山さんからの『城の崎にて』の質問

2018-10-31 19:11:43 | 日記
新潟の丸山さんから、『城の崎にて』に関する質問がコメント欄に寄せられましたが、
重要な問題だと思いますので、ここで取り上げます。

『城の崎にて』葉っぱのヒラヒラについて (丸山義昭)

ここ何週間も先生の『近代小説の一極北ーー志賀直哉『城の崎にて』の深層批評』を繰り返し読んでいます。この一週間は「一つの葉だけがヒラヒラヒラヒラ」の場面についての御論の箇所を繰り返し読みました。この場面は、「そんなことがあって、またしばらくして」とありますから、確かに、これは鼠の動騒の場面と深い関わりがあると読めます。鼠の動騒から「自分」は、自分にも死の恐怖が自分の識閾下にあったことを自覚します。そして、それは「仕方のないこと」と受け入れています。それで、葉っぱのヒラヒラの場面の最初で、「もの静かさがかえってなんとなく自分をそわそわとさせた」とあるのは、自分のそういう識閾下イコール死の恐怖があったことに気がついたから、と読めます。
次の、「原因は知れた。何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った。」とあるのは、このように一見「不思議で」「多少怖い気」もするようなことが起こる場合を既に知っていたと思ったということで、自分の識閾下に気がつき、既にそうした事態を受け入れていたことにあらためて気づく、というこの「自分」という人の認識パターンを、この葉っぱのエピソードが示しているーーという理解で宜しいでしょうか。


これに対する私の回答が以下の通りです。

丸山さんへ (実)

ご質問ありがとうございます。『城の崎にて』で、魚串の刺さった鼠が全力を尽くして逃げ回っている箇所の問題、丸山さんはその鼠の動騒を契機に自分にも死の意識が識閾下にあったことを自覚したとお読みになっています。これを自明の前提にしておられますが、私はそうは読んでいません。「死後の静寂に親しみを持つ」のですが、その死が来る前にあの動騒があることが恐ろしいと感じているのであり、死に対する親しみが消えてなくなっているわけではありません。この恐ろしさこそ受け入れなければならないと「自分」は思っています。何故ならあの鼠のあがき、動騒はそう努力することが生き物として当たり前のこと、生き物が生きようとする必然の動きだからです。
 ヒラヒラと風のないのに目の前で一枚だけ動く葉の問題は、「不思議」で「コワイ」と思うのですが、「自分」は「暫く」これを見ています。そのうちに風が吹いて葉は動くのやめます。「原因」はそう難しいことではありません。理由は以前にすでにこうした一枚の木の葉の眼に見えないかすかな風の力の関係、その相関関係の動きを知っていたと感じることで、「自分」は深く、静かに識閾下に降りて行っています。死に対する親しみ、死を受け入れていく気持ちでもあります。
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中村龍一さんへの応答(その2)

2018-10-19 14:29:17 | 日記
 昨日に続いて、中村龍一さんに応答をします。

 中村さんはやはり私の盟友馬場重行さんの論文を引用し、次のように評しています。


2 馬場重行「文学と教育の結節点 ―川端康成「夏と冬」を読む ― 」
  一
① まず、「田中理論」がいかに根源的であり、かいなでの受け止めを最も厳しく峻拒するかという点である。「主体を生かすにはその主体自体を瓦解させること、〈自己倒壊〉を生きることである。芸術の極意はここにあり、言わば「末期の眼」を獲得することであると」と氏は言うが(3)、ここに叩きつけられた激しいことばを真摯に受け止めるには相当の覚悟が必要である。・・・・・ 実に怖ろしい尋常ならざる世界認識の形である。だが、常識からすると甚だ危うい世界観がなくては、真に「主体を生かす」ことはできないと氏は指摘する。これは、長きに亘る氏の理念であって既に血肉化している。

 同じ問題を馬場重行はこう受け止めている。馬場は「田中の境地」に到らない者は、「田中理論」で自分を生かすことはできない、「覚悟の境地」にある者だけが見ることのできる読みの世界だと述べている。
 しかし、「田中理論」は「いのちの文学」である。そこでは、「この世を生きる弱者のいのち」が問われているのではなかったか。田中実は「覚悟」、「悟り」といった絶対境地で作品と向き合っているのではなかろう。田中実自ら永遠の「自己倒壊」を行為している姿が、私にとって第三項論の読書行為そのものであり、それが私の田中実への根元的信頼である。誤解を怖れず言えば、「田中の弱さ」が〈第三項〉の想定なのだと、私は考えるようになっている。己の自己弁護(語ることの虚偽)を抱え込み田中実は〈原文〉という起源へ壊れ続けていく。しかし、田中を起源へ向かわせているエネルギーは馬場の言う「覚悟」ではないだろう。



 ここで、馬場さんが「「田中理論」がいかに根源的」か、これを受け止めるには「相当の覚悟が必要」と述べられていることに対して、中村さんは「田中実は「覚悟」、「悟り」といった絶対境地で作品と向き合っているのではなかろう。」、「「田中の弱さ」が〈第三項〉の想定なのだ」と両者は対立、中村さんは馬場さんに反論されています。
 
 そこで、まず馬場さんが言おうとしていることを見てみましょう。
 馬場さんは、「〈自己倒壊〉を生きる」とか「「末期の眼」を獲得する」などということが容易ならざること、それは言うまでもない当然のことであり、馬場さんが言いたいことの深層は、思うに、おそらく認識行為が自己許容や自己弁護という陥穽をもたらす、それが我々人間の性(さが)であり、これが我々の前に立ちふさがっている、これを強く意識・警戒され、これに対抗しようとされ、これを克服することで芥川が求め、川端の言う「芸術の極意」に触れたい、この欲求を馬場さんの叙述からわたくしは感じます。
 従って、もちろん、私田中実が「悟り」の境地に至っていることを馬場さんが言いたいのでのはない、馬場さんご自身の内なる世界に隠れているこれに向かう際の恐れが言いたいのであり、「覚悟」を言えば、中村さんの仰る通り」、私田中は「悟り」どころか、「覚悟」さえ正直、持っていないのです。もちろん、馬場さんも田中が悟っているなど思ったりされていないと思います。だから馬場さんは「悟り」という中村さんが言う言葉を田中に向けて使っていませんよね。
 中村さんの言う、「「田中の弱さ」が〈第三項〉の想定なのだ」という指摘は、確かに田中の急所を衝いているとわたくし自身も思います。常日頃、そうしたことは皆さんに申し上げています。しかし、その「弱さ」を指摘するのでは〈第三項〉の世界観は現れません。問題の要はその「弱さ」の意識、自覚の甚だしさ、これが〈第三項〉の扉の可能性へと通じていると私自身は考えています。
 言い換えると、立っている基盤の底は抜ける、だから脅える、恐れる、そう捉えた時です、その認識装置として〈第三項〉の時空が誕生した、とわたくし自身は了解してます。
 自分に捉えられるものとは地獄の底まで客体の対象そのものではない、この一種の強迫観念が世界観認識の基盤なのです。
 ええぇ、と言われるかもしれませんが、これが前回の『羅生門』の〈読み〉の問題、作品末尾の改稿の所以、その〈語り〉の捉えとは相似形をなしているのです。認識はそれ自体が闇だというパラドックスの問題です。

 〈近代小説〉の〈読み〉のあるべき場とは読み手の「弱さ」と言えば「弱さ」、それも徹頭徹尾の「弱さ」が要杞憂されます。思考の制度の瓦解、〈自己倒壊〉を引き受けること、一言で言えば、そう、あれこれ言う主体、その主体を主体自体が殺すこと、アクロバットが必要なのです。
 捉えている自身の対象領域を自身が剥ぎ取ることがわたくしの基本の構図です。

 「底抜け」板に坐って〈近代小説〉を読んでいる・・・、田中は人が世界を知覚する自然主義リアリズムを人類誕生以後の物語、方便として括弧に括ます。わたくしは近代文学研究の学問界、学会が近代の物語文学を〈近代小説〉と捉えていることを認めていません。それを〈読み〉の前提としています。馬場さんが田中の「覚悟」を言いたいとすれば、そうした知覚作用である自然主義リアリズムを斥ける田中の「底抜け」を馬場さんと共有しているからでしょう。
 

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中村龍一さんへの応答(その1)

2018-10-18 13:41:50 | 日記
 私は今年の8月、日本文学協会が発行している雑誌『日本文学』に、拙稿「〈近代小説〉の神髄は不条理、概念としての〈第三項〉がこれを拓く ―鷗外初期三部作を例にして―」を発表、これを読んだ私の盟友の一人、中村龍一さんから、「「自己倒壊・瓦解」し切れない自分の弱さと向き合う 三つの論文から私が浮上させた諸問題は、そのことを私自身が問われているのである」というタイトルの長い文章、ほとんどどこかの掲載誌に発表すべき、読み応えのある論文を頂き、改めて中村さんに敬意を抱きました。中村さんはこれを私のブログに載せてほしいとのことでした。
 多くの方からわかりにくいと言われている私にとって、極めてありがたく、シリーズ化し、これから少しずつ中村さんの文章を取り上げて応答していきたいと思います。但し、全文を載せると長くなり過ぎますので、部分的な掲載になります。中村さんには快諾を得ています。


 1 私の問題意識のありどころ
私は昨年の大会で『羅生門』(『日本文学』2018.3)を論じる機会が与えられた。近代
文学の論文は、私にとって初めての挑戦であったといってよい。しかし、八月号の「田中論文」は、私が『羅生門』から何処へ向かわねばならないかを示唆してくれている。少し長くはなるが「田中論文」の『羅生門』の部分を辿ってみたい。
                      (以下① ②・・・・、傍線、太字、下線は中村)

① 下人が自身の観念の外部、《他者》に出会えず、強盗になれないと語る「作者」は、こうしたことを対象化し、問題化したのですから、そうである以上、自身はどうか、いかにして自身の観念の外部と出会えるのか、こうした疑問が起こります。それが改稿された末尾の意味です。すなわち、定稿『羅生門』とは、生身の〈語り手〉自身の運命を語っているのです。 
②「作者」を相対化する〈機能としての語り手〉は無教養な下人とは異なる知識人「作者」が下人と同様の観念の上澄みにあることを知ったからこそ、「作者」を含めた「誰も知らない」と語り終える物語を構造化するのです。

③ 視点人物の下人が対象人物の老婆の言うことを捉えていないように、結果として(作中の)知識人の生身の「作者」の認識もまた、いかに対象に到達し得ないか、客体の対象そのもの(、、、、)=〈第三項〉に辿り着けないかを捉え、これを〈機能としての語り手〉が構造化して語り終えているのです。

④ そこでは認識が認識の闇を抉り出し、認識の陥穽、あるいは一種の逆接とも言えそうな認識に辿り着きます。しかし、それは不条理ではありません。むしろそれは明晰な認識ですから条理と言うべきでしょう。 
⑤ 不条理はさらに認識の瓦解・自己崩壊を要します。主体の観念である認識を自己許容している限り、不条理は現れません。ここは死肉を啄む鴉や死者の髪の毛を抜く世界はあっても、自分が死ぬか相手を殺すかの究極の選択、「カルネアデスの板」の闘いはありません。そこから生と死の等価の世界が拓きますが、ここにはスタティックな一方的な略奪があるのみです。認識の拒絶・認識それ自体の及ばない領域に踏み込む認識の否定が必要です。『羅生門』の構造は認識それ自体の闇は抱えていますが、まだ、不条理の領域の手前に留まっています。 (p10)

「主体の観念である認識を自己許容している限り、不条理は現れません」と田中が述べたことは、如何に人が自己化し、自身の枠組みでしか捉えないかを言っているのです。世界は知覚し、条理の自己倒壊と不条理の問題、〈近代小説〉の問題に、今後私も自覚的に踏み込んでいきたい。
 生身の私といえば、「自分が死ぬか相手を殺すかの究極の選択」に向き合えず、「自己許容」を捨てきれない自分の弱さをよく知っている。人は己の不条理に向き合うことはそんなに容易なことではない。「条理と不条理の世界で人はどうすれば対象人物の老婆と出会うことができるのか」、この「問い」こそ、田中実が〈近代文学〉で格闘してきた難問であり、その究極の産物が〈第三項〉の想定と自己倒壊がもたらす「真実(愛)」である。



 中村さんが実に真剣に拙稿を読んで下さり、いかに自分の問題として受け止めて下さっているかが伝わってきます。あらためて感謝申し上げます。
 条理か、不条理かの問題は極めてそれ自体が難解な問い、条理・不条理の両者はそれぞれ別の次元にあると私は考えています。時空間・次元が別にあると考えているのです。すなわち、いまだ条里に至らないレベルと条理であるレベルとの間にはそれなりの困難な問題があり、これと不条理の問題は別、次元を異にしています。
 私見では、『羅生門』それ自体不条理の時空間に関係しているとは捉えていません。不条理は条理、すなわち、認識それ自体を拒む領域に属します。その問題に『羅生門』は至っていないと考えているのです。あくまでも条里のレベルで問題を突き止めようとしていると考えています。
 上記③にあるように、認識するということは条理に落とし込むこと、自己倒壊とは自身が理解している認識世界が壊れることですが、それは不条理の領域と相克にあるとは限らず、芥川の場合、その逆、条理の世界がさらに深くなるのです。
 我々は通常、認識の自己許容の中にいて、それは生存本能に直結するものであり、それが壊れるということは危険なことでもあります。芥川が不条理を描き出したのは、『藪の中』、一つの傷で致命傷の死者に真犯人が三人いること、これは不条理です。これに芥川が出会うには、漱石のエッセイ『人生』にある、人生とは「二辺並行せる三角形」、「底なき三角形」という認識のレベル、『行人』の主人公哲学者の一郎が自身の生を、死ぬか、宗教に入るか、気が狂うか、そのどれかしか道がないとの苦悩に立っているレベルに向き合う必要があります。或いは、『城の崎にて』の生と死は等価という認識、これが不条理、ここと格闘することです。
 
 芥川の内なる世界は強い自己化作用の自意識の強さにあり、認識の闇を認識で越えて行こうと条里の世界に襲われていると私は考えています。
 「カルネアデスの板」のような殺すか、殺されるかの命に係わる決定的な出来事への飛躍に向き合うのでなく、『羅生門』はスタティック、死肉を啄む鴉の世界の延長、死者の髪の毛を抜く行為を問題化し、『范の犯罪』の如き、「カルネアデスの板」との相克は起こりません。
 不条理という異次元空間への飛躍・飛翔ではなく、その末期まで条里・認識を突き詰めるのが芥川だと田中は考えています。
 『羅生門』定稿まで、認識を深めていくと如何に対象の領域が自己化して対象を捉えているか、インテリの「作者」も究極ではセンチメンタリストで極から極へと一瞬にして世界観を変えてしまう、面皰の少年「下人」と変わらないのです。認識が如何に自己化でしかないかを捉えて、その闇を深くするパラドックスを生きるのです。
 透徹した認識がその認識の闇を顕わにするという認識のパラドックスを生きる生き地獄です。

 ブログを読んで下さった皆さん、益々解り難くなりましたか。ごめんなさい。
 明治図書の新刊書に収録した「『羅生門』の読みの革命―〈近代小説〉の神髄を求めて―」を読んで下さると、必ず分かります。
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丸山さんからの質問にお応えします

2018-10-15 10:47:32 | 日記
丸山さん、
 丸山さんのコメントは私にとって、前回の張さん同様、有難いものです。基本的に丸山さんの御理解を私も支持します。〈語り手〉は現在、事故から三年以上経っていて、これが死の危険を予告された療養期間を実況中継していますから、〈語りの現在〉はしっかり押さえてください。〈機能としての語り手〉ではなく。しかし、そこまではまだ理解しやすいですよね。

 ここで、少し、解り難いことを敢て踏み込んで申し上げます。
 
 もう一度言いますと、『城の崎にて』の〈語りの現在〉は事故から三年以上経って、致命傷になる憂いのない時期、そこから事故後すぐの時期の但馬の城崎温泉での三週間のことを実況中継している、すなわち、まだ致命傷になる可能性のある時のことを語るところに、この稀有の〈近代小説〉の一極北が誕生する秘鑰が隠れています。
 この〈語り手〉「自分」は通常はあり得ない、生と死を等価に捉える『范の犯罪』の裁判官のまなざしを抱えて語っていますから、生と死の相関における意識と識閾下との相関を総体として捉えやすい、見えやすい位置にいることになります。それを可能にするのは意識と無意識の双方の外部に立つ位相であり、これを可能にした位置を手に入れていたのが〈語りの現在〉です。

 謂わば、拙稿「〈近代小説〉の神髄は不条理、概念としての〈第三項〉がこれを拓く」の図で言えば、生と死を等価とみなして、自身の意識・無意識の生の領域の外部、「地下二階」にある〈語り手〉が自身の「地上一・二階」の意識と「地下一階」の無意識の双方を相対化を捉えさせているのです。ここから「地下二階」の次元が現れます。
 
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丸山さんからの質問

2018-10-14 22:00:00 | 日記
丸山さんからコメントを頂きましたが、長いので、これをブログに回させていただきます。

 以下はまず丸山さんのコメントです。

今回の先生のご講演を伺って(そして今現在1年生の授業で『城の崎にて』を実際にやっていて)『范の犯罪』抜きでは、『城の崎にて』は読み得ない、と強く感じています。
「背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねない致命傷になりかねないが、そんなことはあるまいと医者に言われた。二、三年で出なければ後は心配いらない、とにかく要心は肝心だからと言われて、それで来た」とあります。普通なら、不安や恐怖で、落ち着かない気持ちになるところです。あるいは、不安や恐怖を忘れようとして、仕事に打ち込んだり遊興に走ったりするところです。ところが、「自分」は「一人で但馬の城崎温泉」にやって来て、「しかし気分は近年になく静まって、落ち着いたいい気持ちがしていた」と言い、「しかし妙に自分の心は静まってしまった。自分の心には、何かしら死に対する親しみが起こっていた」と述べています。この通常では考えにくい「自分」の心境を説明するのに、私小説である点に寄りかかって作品外から、「近年」の父親との対立・確執などの伝記的事実を持ってきて説明しようとしたり、この大変な事故によって初めて死を意識し、そういう気持ちになったのだという、実は説明にならない説明を今まではしてきたような気がします。しかし、考えてみれば、自分の死を意識するのに、青山の土の下に寝ている自分の死骸を想い浮かべたり、蜂の死骸の静かさに着目したりというのは、やはり「妙」です。自分の死骸など思い浮かべたくない、蜂の死骸など見ていたくないというのが自然な反応のように考えられるからです。
ここはやはり先生がおっしゃるように、事故前に『范の犯罪』を書いていた、その『范の犯罪』の内容をおさえないと「自分」の気持ち、心境は説明できないと思います。『范の犯罪』を書いた時点で、生と死は等価(生と死は〈類〉の内に収まる)という認識を「自分」は得ており、事故前に、すでに殺された范の妻の静かさに「自分」は立っている、と読むと、「自分」の城崎温泉における前述の気持ち、心境も初めて理解されてきます。
「それは范の気持ちを主にして書いたが、しかし今は范の気持ちを主にし、しまいに殺されて墓の下にいる、その静かさを自分は書きたいと思った」とあります。通常、殺された人間は怨みや悔恨などで死後静かにはいられないはずですが、「自分」は前述のような認識を持って、作中の裁判官と同じ目で、范の妻を捉えているからこそ、「静かさ」ということが言えるのだと思います。それを事故後の「今」、あらためて書きたいと思った、そう読めるわけですね。
山手線の事故→心境の変化、と読むのは易しいし、一見分かりやすそうですが、それは結局、出来事を読むだけのものであり、語り手「自分」を、その外側の〈機能としての語り手〉から捉えると、「自分」の識閾下にあって、自分の気持ちを動かしているものが見えてきます。それは『范の犯罪』を書いた「自分」がすでに持っている認識です。それは当初「自分」には意識化されていませんでしたが、蜂の死骸を見てその静かさに親しみを感じた、その時点で「自分」の意識に浮かび上がってきた、そこで『范の犯罪』について触れた、というように読んで宜しいのでしょうか。

これについては、次の記事でお応えします。
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