今回の投稿は、私の極端に偏った郷土史的嗜好に終始する。
もっと端的に言えば、南北朝時代、九州を駆け抜けた英雄達の墓巡りである。
悪い事は言わない。
今のうちに、このページから離れられる事をお勧めする。
先ず最初は、黒木の大藤に立ち寄る。
後征西将軍宮良成親王手植えの藤が、丁度見頃を迎えていた。
樹齢約620年である。
黒木町字木屋へ。
木屋行實墓所。
教科書には出てこない、黒木地方のこの名将は、
大保原合戦の折りは、南朝方先鋒を務め、
黒木氏の分流でありながら、一門の支柱とも言うべき存在であった。
手前の小さな石積みの墓は、家臣の物らしい。
その奥の基壇の中央が、木屋行實の墓との事。
かなり分りづらい場所である。
何とか見つける事が出来たのは、幸いと言うべきである。
合掌
星野へ移動。
大円寺
名門星野氏の菩提寺だ。
征西将軍宮懐良(かねなが)親王が晩年を過ごし、その波瀾万丈の生涯を終えた寺でもある。
この寺の裏山と言うべき山中に、親王の御陵がある。
今回こそ、訪ねてみたい。
大円寺から山側に進み、細い林道を登って行く。
暫くすると、道路工事の為、車両通行止めの表示あり。
工事現場の少し手前に、車が停められる空き地を見つけ駐車する。
後は歩いていくしかない。
工事現場。
大雨被害によるものか、法面が崩落している。
どのくらい歩いたろう。
突然、スマホアプリが『目的地に着きました』と言う。
バカ言え。
どう考えてもここじゃないだろう。
もっと先、この山の頂上付近にある筈だ。
自分の勘を信じ、更に数キロ林道を歩くと、
あった!
ほーらね。
つい最近、作り替えられたであろう親王の御陵は、
林道から右に折れた奥まった所に、ポツンと鎮まっていた。
懐良親王の御陵は数カ所あり、中でも八代にあるものが正式とされる。
だがしかしだ。
晩年を過ごした大円寺から、毎日眺めていた山に埋葬されたと考える方が、寧ろ合理的ではなかろうか。
そう考えながら、誰もいない山中で、一人手を合わせた。
合掌
帰路は、耳納連山を山越え。
星野氏の居城がある鷹取山へ向かう途中に、懐良親王御手負いの水がある。
木戸を抜け、広い芝地を行くと、
どん詰まりに、もう一つ木戸があり、その向こうには水たまりが見える。
これが、御手負いの水である。
大原合戦の折り、懐良親王は白兵戦に巻き込まれ、深手を負っている。
療養のため星野へ下る途中、この水で傷口を洗ったと伝えられている。
御手負いの水の前を通るこの山道。
鷹取越え古道と書いてある。
660年前、私がカメラを構えて立っているここを、親王一行は下って行ったのだ。
木屋行實と懐良親王の墓所。
どちらも簡単にはたどり着けない場所である。
「いやー、良く辿り着いたよ。ウヒヒ」
と、
一人車の中で、薄気味悪い笑みを浮かべる私であった。