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Tシャツとサンダルの候

西南の役史跡巡りと高瀬浦川


昨日の夕方。

テーブルで、今日のこの投稿の画像を、記事入力画面に貼り付け作業をしていたら、


「(晩飯が)出来たぞ。テーブル片付けんか。」(家内)

「おっと、もうこんな時間か。さあ、ビール、ビール。」(私)


と、 あたふたと投稿を下書き保存して、パソコンを閉じた。



つもりだった。


今朝、


自分のブログを何気に開いてみたら、何の間違いか、そのまま画像だけの投稿がアップされているではないか。  


あらまあ、である。

どうやら私の脳ミソは、酒を飲むまでもなく、常に酔っぱらっているらしい。


だがしかしだ。

その間抜けな投稿を眺めてみると、下手な文章を書き連ねていない分だけ、よっぽどマシである事に気付く。

面白いので、このままにしておこうかとも思ったが、何しろこれは私の備忘録なのだ。

本分に戻すため、改めて、下手な文言をいつもの様に書き足す事にする。



前置きが長くなった。

やっと本題である。








日曜早朝。


唐突に玉名に行きたくなった。

まだ訪ねられていない、西南の役の戦跡を訪ねたいと思ったのだ。


「ちょいと、玉名に行ってくる。昼飯はいらん。」

「へ?」


今回、田原坂など過去に何回も訪ねた場所は省くようにしている。



正念寺

官軍病院址と石碑に刻まれている。

所謂、野戦病院の一つである。



博愛社(日本赤十字社の前身)の発祥の地でもある。




真ん中の石碑には、

『西南の役』の下に、『官』『薩』の文字が並べられ、その下に『両軍戦没者菩提云々』と見える。

この野戦病院で、治療の甲斐なく亡くなった者の中には、薩軍兵士も多数居た事が窺い知れる。



二俣瓜生田官軍砲台跡。




前方に見える丘陵は、有名な田原坂である。

この台上からは田原坂に立つ、戦争資料館がハッキリと確認できる。

資料館付近には、薩軍主力の砲台陣地があった。

叫べば声が届きそうな距離だ。

政府軍にとって、向かいの家に石でも投げるかのように、いとも簡単に狙い定められたに違いない。

この瓜生田台地を奪取された事が、薩軍にとって如何に致命的であったかが、ここに立つとよくわかる。



オオイヌノフグリがそよぐこの台上は、かつて、砲撃の轟音と硝煙に包まれていたのだ。




吉次峠。

長年、訪れたいと思っていた。

西南の役フリークにとっては、正直、胸の高鳴りを抑えられない。



天然の要害を拠り所とした薩軍により、政府軍の侵攻は何度も挫かれ、地獄峠と恐れられた峠道である。




夏草に覆われる吉次公園。




そこからは、遠く玉名方面まで見渡せる。




半高山(はんこうやま)

ここに陣したのは、二番大隊指揮長村田新八。

この山上から政府軍へ猛攻撃を加えた。



薩軍一番大隊指揮長篠原国幹戦死の地。

吉次峠よりも、さらに政府軍側に突出した場所である。

篠原が銃撃を受けたのは、弾雨の中に身を晒しての陣頭指揮の最中だったと言う。

篠原と言う武人を象徴するような死に様である。



玉名市街へ移動。



河川敷駐車場に車を停め、ここからは歩きである。




菊池川土手沿いを歩いて行くと、草叢の中に小さな石碑を見つけた。




西南の役における関ヶ原、高瀬攻防戦で戦死した、西郷隆盛の末弟西郷小兵衛の碑である。




興味深い逸話が書かれてあったので、このまま掲載しておく。

暇な方は読んで貰いたい。



高瀬裏川へ移動。

例年なら、高瀬菖蒲まつりが開かれているところだが、今年は新型コロナ感染防止の為中止となった。

散策する場合はマスク着用の事とある。



風情ある石橋と石垣が実にいい。


橋にはそれぞれ特徴がある。



酢屋橋。

真ん中が凹んでいるのは、重い荷物を運ぶ時、足を踏ん張り易いように、なんだとか。



土戸橋。

路地に繋がる橋は、大八車を押しやすいように、両端を高くしている。



当然ながら、例年に比べ、川辺の人通りは少ない。







菖蒲の見頃は、これからってとこかな。




先程の酢屋橋。

頭を打たない様にくぐろう。






高瀬眼鏡橋







秋丸眼鏡橋

熊本県では一番古く、あの通潤橋よりも更に22年も古いそうだ。


半日とは言え、小さな旅と言えるものが味わえた。




あー、車旅に出掛けてえ。

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