かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿•樋堀の鎮守「白山神社」

2023-06-05 19:30:00 | 神社

公開日:2019/05/28•更新日:2023/06/05

…前編からの続き

◆本殿は担がれて 

 当社の創建は詳らかではありませんが、口碑によれば、もとは「正福寺」の境内に鎮座していました。そして、明治期の神仏分離令により、氏子一同で本殿を担いで、現在の地に運んで来たと言われています。その「本殿」は九〇㌢四方の神輿形のものであったそうです。

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社殿  もちろん担がれてきたものではありません。中に担がれてきた「本殿」があるのでしょうか。

 当社の南東200㍍ほどの所にある「正福寺」は、山号が白雲山という、粕壁宿の真言宗智山派最勝院の末寺でしたが、無住でもあり、神仏分離令により廃寺を余儀なくされました。その後、地元樋堀村の住民が「大師堂」と改めて再建し、今も崇めて護り続けています。

 また、近くにある牛島の藤で有名な「藤花園」も、もとは真言宗の「蓮花院」というお寺でしたが、どちらも明治期に神仏分離令で廃寺となっています。

◆境内には

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 参道の入口にある幟立(のぼりたて)は、慶応四年(1868)に建立されたもので、昭和初期には、既に幟(のぼり)を立てることは無くなっていたそうです。

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鳥居と灯籠  灯籠は平成9年4月建立

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鳥居は昭和3年11月建立

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 昭和3年11月3日に建立された石碑。石碑には鳥居建設に伴う寄付者の名前が刻まれています。その中に小島庄左衛門というお名前がありました。一瞬、江戸川開削の治水事業や庄内領の新田開発に貢献した「小島庄“右”衛門」か、と思いましたが、「庄右衛門」ではなく「庄左衛門」という方でした。小島庄右衛門は寛文8年(1668)に亡くなっていますので全くの別人。早とちりでした。

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左側は稲荷社  右側は不詳

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力石でしょうね。

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手水鉢
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天の字がありますが判読できません。  もしかして天保?

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こちらにも力石?

 

【白山神社】

 

※「埼玉の神社 北足立、児玉、南埼玉」(埼玉県神社庁)を参考にさせていただきました。

 

樋堀の「大師堂」については、次回に…

 

 

 


日光道中粕壁宿•樋堀の鎮守「白山神社」

2023-05-29 19:30:00 | 神社

公開日:2019/05/28•更新日:2023/05/29

 久しぶりの更新です。今後は週一回程度の頻度で更新していく予定です。

 東武スカイツリーライン春日部駅東口から北東に1.2km程のところに「樋堀」(ひぼり)という地区があります。

 この樋堀地区は大落古利根川沿いの沖積地に位置し、直ぐ側には旧倉松落が流れていています。

◆樋堀という地名

 「樋」とは用水の樋(とい)、堀とは用水路のことで、用水路の樋の意(『埼玉県地名誌』)。

 また、古くは、慶安2~3年(1649~50)の『田園簿』に、既にその名があり、村高は五一石余で全て畑であったことが記されています。 

 『新編武蔵風土記稿』(巻之三十四・葛飾郡之十五・松伏領) には、

◎樋堀村❲附持添新田❳

樋堀村は 江戸より行程九里余 民家十六 東西七町余 南北二町余 東は牛島村 北は樋篭村 南は古利根川を越て埼玉郡粕壁宿なり 用水の便なく専天水を頼めり 外に持添の新田あり 寛延ニ年吉田源之助 稲森勘右衛門糾して 御料所となれり

とあります。江戸時代後期に幕府の御料所になりました。

※寛延ニ年:1749年。第九代将軍家重の時代。

※持添新田:新開地で反高はあるが村居の農民が不在の土地。出作するために拓いた新田。

※御料所:幕府の直轄地

 また、『武蔵国郡村誌』に、「稲麦に宜し水利便にして時々水害に罹る」と記されているように古くは農業地帯でしたが、時々水害もあり、そのため「倉松落大口逆除」のような逆流防止装置(樋門)が設置されました。

 その農業地帯も昭和三十年以降、宅地化が進み、現在では、その面影はなく、ほとんどが住宅地域となっています。  

※『埼玉県地名誌  名義の研究』(韮塚一三郎著  北辰図書 1969):『新編武蔵風土記稿』、『武蔵国郡村誌』所載の16郡名と約2千の宿町村名の名義の研究をまとめたもの。項目が市町村別になっており、各市町村にある地名の起源や由来が掲載されています。巻末に索引あり。(『国立国会図書館レファレンス協同データベース』)

※『田園簿』:『武蔵田園簿』は『正保田園簿』とも呼ばれ、正保国絵図の郷帳の案であるとされている。幕府は正保元年(一六四四)に全国に国郡図と諸城図の作成を命じている。このうち武蔵国図の作成は慶安二年から三年にかけて行われていると考えられている。『武蔵田園簿』からは、村名・村高・田高・畑高・領主名および支配高を知ることができる。(『宮代町史民俗編』) 

※『新編武蔵風土記稿  全12巻、索引編』(蘆田伊人編集 校訂 雄山閣 1996):  徳川幕府が文化7(1810)年~文政11(1828)年に編纂した武蔵国の地誌。各村にある山、川、寺社なども掲載され、当時の村の状況を知る上で欠かせない資料。由来が掲載されている地名もあります。(『国立国会図書館レファレンス協同データベース』)

※『武蔵国郡村誌  全15巻』(埼玉県編  埼玉県  1953-1955):明治8(1875)年の太政官布告により全国で行われた地誌編纂により、埼玉県が地理寮に提出したもの。明治初期の各村の状況がわかります。(『国立国会図書館レファレンス協同データベース』)

そして、その樋堀地区にあるのが、

◆樋堀の鎮守「白山神社」( はくさんじんじゃ)

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ごく普通の小さな社ですが、白山と言う神社名が気になります。

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 この神社は、伊弉諾命を祀り、加賀国一宮白山比咩神社(かがのくにいちのみや・しらやまひめ・じんじゃ)の分霊を祀ったといわれています。かなり遠方なのですが、何かご縁があったのでしょうか、もしかして、この白山神社も、「しらやまじんじゃ」と読むのでしょうか。わかりません。

 参考:白山比咩 (しらやまひめ)神社 

↓↓

アクセス情報 | 白山比咩神社 | 石川県

  この白山神社は、樋堀村の鎮守として祀られており、前掲の『新編武蔵国風土記稿』の樋堀村の項に「白山社 村の鎮守なり、正福寺持」と、また、明治九年の『武蔵国郡村誌』には、「平社々地 東西五間一尺六寸八分 南北二十五間 面積百二十二坪 村の西方にあり 伊弉冊命を祭る 祭日二月六日七月六日」とあります。 

後編に続く…


【白山神社】

 

※「埼玉の神社 北足立、児玉、南埼玉」(埼玉県神社庁)を参考にさせていただきました。

 


 

 

 


粕壁宿と共に歩んだ東八幡神社(其の四)

2022-06-14 19:30:00 | 神社

更新日:2022/10/14・公開日:2021/11/02

◆末社群
東八幡神社境内の本殿裏には、その他にも末社の祠が並んでいます。順に見ていきましょう。

◆浅間神社

浅間神社

祭神 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

富士山の浅間神社を勧請したもので、安産、子供の安全成長の守護神で、毎年七月一日には、赤子の初参の風習がある。

※木花咲耶姫命は、日本の木の花を代表する桜の美しさを象徴していると同時に、日本を象徴する富士山の神霊でもある。本来の山の神の性格と火を吹く富士山を神聖な山として崇める古くからの信仰が結びついたものと言われている。さらに、民間信仰の子安神と結びつき、子授け・安産の神として庶民の生活に密着し広く信仰されている。

※筆者補足。

◆大杉神社

大杉神社

祭神 大山津見神(おおやまつみのかみ)

天下泰平、国土安穏、災難悪病避けの守護神で、従者は天狗と伝えられる。茨城県稲敷郡桜川村の大杉神社を勧請したもので、古くから代参詣りとして大杉講がある。

※大杉神社は、現在の茨城県稲敷郡阿波にある神社、主祭神は、倭大物主櫛玉命(やまとおおものぬしくしかたまのみこと)。日本唯一の夢むすび大明神で、「悪魔ばらえのあんばさま」と称され、厄除け、八方除け、星除けの神と言われている。(※「観光いばらき」より)

ご祭神は大山津見神と書いてあります。大山津見神は日本の山の総元締めの神で、浅間神社の祭神・木花咲耶姫命(このはなさくやひめやみこと、富士山の神)磐長姫命(いわながひめのみこと、岩の神)の父神で、

茨城県の大杉神社のご祭神倭大物主櫛玉命とは違っています。

何故そうなったかはわかりませんが。大杉神社は末社として春日部市内の多くの神社でよく祀られています。疫病や自然災害が多かった時代、毎月お金を積み立てて、代表者が参詣する代参講(大杉講)が盛んであったことが伺えます。末社として東八幡神社に大杉神社が祀られていると言うことは、災難厄除けの神として、大落古利根川の舟運での安全祈願を祈ったのかもしれません。

※筆者補足

◆大国玉神社

大国玉神社

祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)

大国主命とも呼ばれ親しまれている神で、島根県出雲大社より勧請したもので、縁結びの神として崇敬されている。

※ご祭神の大己貴命は、「因幡の白兎」の話の主役としてよく知られていますが、出雲神話の中では、国土の支配者で国つ神の絶対的な存在としてその存在感を示しています。また、大国主命は、中世以降、インド生まれの仏教の守護神・大黒天と習合し、ダイコクさまと呼ばれるようになり、のちに民間信仰の七福神の大黒さまと同一視されるようになりました。以後、打ち出の小槌を持ち、大きな袋を担いで米俵を踏まえて立つ、お馴染みの財福の神のイメージが定着しました。そして、現代でも五穀豊穣の神、商売繁盛の福の神として大黒さまは信仰されています。

なお、少し気になったのは、案内の立札のご祭神・大己貴命のフリガナですが、立札は「おおなむのみこと」となっていますが、正しくは「おおなむのみこと」ではないかなと思います。今まで何方も指摘されていないようなので、これからもこのままなのでしょうね。

※筆者補足

◆豊玉稲荷大明神


鳥居

祭神 宇迦之魂神(うかのみたまのかみ)

三河国豊川稲荷を勧請したもので五穀豊穣、商売繁盛、の守護神である。神使は狐と伝えられる。

なお、「ふるさと春日部『春日部の神社/東八幡神社』須賀芳郎/著/1996年」には、

往古粕壁宿川久保の金子豊次郎氏の屋敷神として鎮座ありしが、明治末期にここ八幡神社境内に奉遷される。

と記載されており、この「豊玉稲荷大明神」も明治末期の合祀令で当社に合祀されたことがわかります。

◆天満宮


天満宮

祭神 菅原道眞朝臣(すがわらみちざねあそん)

 

京都北野天満宮より勧請したもので、学問、書道の守護神として信仰厚い。

菅原道眞、弘法大師、小野道風を日本三聖人として称えている。

いわゆる「天神さま」です。東京の湯島天神のように、学問・受験合格祈願の神さまとして親しまれています。なお、学問、分筆の神としての天神信仰が、庶民の間に広まったのは、江戸時代に寺子屋が隆盛してからのことと言われており、今も盛んな受験合格のご利益のはしりとされています。

また、菅原道眞、弘法大師、小野道風の三人は書道の世界に於いて平安末期の書論『夜鶴庭訓抄』(類従本)に、書の三聖として挙げられています。書論とは、書道に関する理論のことで、一般にはその著作物をさし、書論書とも言われます。(Wikipedia)

◆神社は面白い

如何でしたか、こうして身近な神社の境内を歩くと結構面白いですよ。

さらに、当東八幡神社にお詣りすることで、日本各地の神々にお詣りすることができるので、何かお得な気分にもなります。

末社のご紹介はこれでひとまず終わりますが、境内には、まだまだ面白いところがありますので、この続きは次回に…。

続く…


粕壁宿と共に歩んだ東八幡神社(其の三)

2022-06-10 19:30:00 | 神社

更新日:2022/06/10・2021/10/28

「摂社」と「末社」  

境内本殿の左手には小さな社殿(・ほこら)が幾つか並んでいます。本殿に祀られている神様が主祭神とすれば、その境内にある祠(ほこら)にお祀りされているのが従の神様。そのような従の神様を祀る小さな社殿は「摂社」(せっしゃ)もしくは「末社」(まっしゃ)などと呼ばれています。

「摂社」は主祭神と関係性の高い神様を祀っている(やしろ)、「末社」は主祭神と関係性の低い、他所から勧請した神様などを祀っている社と概ね区別されています。

当神社の場合は、主祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと=第15代応神天皇)ですので、境内の祠は全て関係性の低い末社と見做していいと思います。

と言うことで末社を順に観ていきます。

まずは、

松の木稲荷大明神

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朱い鳥居 稲荷社です。
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松の樹

稲荷大明神

祭神 宇迦之魂神(うかのみたまのかみ)

京都伏見稲荷を勧請する。農工の守護、商売繁盛の神として信仰厚く、神使いは白狐と伝えられる。

古時松ノ樹の氏神として祭られていたが、明治末期の頃、政府の神社統合令にもとづき、当境内に合祀される。

※神社合祀令:明治39年(1906)内務大臣 原 敬によって発出された勅令

なお、この「松の樹稲荷大明神」について、「ふるさと春日部『春日部の神社/東八幡神社』須賀芳郎/著/1996年」には、

由緒は不詳なれど、古来粕壁宿の松樹の里【現在の粕壁東…三枚橋町内会で粕壁小学校の裏手】に鎮座せるものを、明治四十四年十一月、ここ八幡神社境内に奉遷される。
社前に『春日部駅松之樹の里』と刻まれた石碑が建立されている。

と記載されています。

その石碑

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石碑 表面には「春日部驛松樹里」の文字が、

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また、側面には「庚申塔」の文字が刻まれています。

◆川久保雷電神社

松の木稲荷大明神の隣りには、

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雷電神社
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川久保雷電神社
祭神 別雷命(わけいかずちのみこと)

群馬県板倉雷電将軍

を勧請する。古時川久保地区の氏神として祭られていたが、明治末期の神社統合令にもとづき、当境内に合祀される。

※群馬県板倉雷電神社は群馬県邑楽郡板倉町にある、主に関東地方にある「雷電神社」や「雷電社」の事実上の総本社格の神社で、板倉雷電神社とも呼ばれています。

※雷電神社はその名の通り、落雷から身を守ってくれる神さまであると同時に稲作の守護神として信仰されており、雨乞いなど農業守護のご神徳があるとされています。春日部市内にも板倉雷電神社を勧請した雷電神社が数社あります。

前掲書『春日部の神社/東八幡神社』には、

「雷電神社」
往古粕壁宿川久保に鎮座せるも、明治末期にここ八幡神社境内に奉遷される。

と記載されている。なお、川久保とは、粕壁宿の南東に位置する地域で、この雷電神社も、やはり明治の合祀令により当神社に合祀されました。

◆弁天社

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古利根川方向に少し下っていくと
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鳥居がありました。

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弁天社です。

また、社殿の左手には、小池の跡地のような低地あります。

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昔は水のある池だったようですが、干上がったのでしょうか、今は水はありません。

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弁天社

祭神 

市杵島姫神命(いちきしまひめのみこと)

福徳開運、財福をもたらす神。

女性加護の神として信仰が厚い。

神使は白蛇と伝えられる。 

市杵島姫命は、宗像三女神の内の一神。市杵島姫命は、神仏習合によって仏教の弁財天と同神とされ、「弁天様」として知られ広く信仰されています。また、弁天社は、知恵、財福、戦勝、子孫繁栄のの他、音楽、技芸など芸能に関する神徳があるとされています。

由緒などは書いてありません。この弁天社は他の末社から少し離れたところに在ります。ことから、この弁天社は、元元々ここに在ったの神社のようにも考えられます。

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土地奉納の石碑

御大典記念

土地五畝十歩

関根嘉兵衛

昭和三年十一月十五日建之

昭和3年(1928)の大典とは、11月10日に京都御所で行われた昭和天皇の即位の礼のことだと思います。

その慶事を寿ぎ約150坪の土地を奉納した石碑です。もしかしたら、弁天社があった土地ごと奉納したのかもしれません(あくまでも推測ですが)。

当東八幡神社には、この他にも明治末期の合祀令によって合祀された末社が何社かあります。時代は変わっても土地の氏神さまは地域の人々の心の拠り所であることには今も変わりません。

次回に続く…


粕壁宿と共に歩んだ東八幡神社(其のニ)

2022-06-06 19:30:00 | 神社
更新日:2022/06/6・公開日:2021/10/24
東八幡神社の境内
境内前の案内板には、「当神社のご祭神として、誉田別尊ほんだわけのみこと、第十五代応神天皇)をお祀りしている」と書かれています。

本殿

境内前の案内板には、「当神社のご祭神として、誉田別尊ほんだわけのみこと、第十五代応神天皇)をお祀りしている」と書かれています。

一方で、郷土史家の須賀芳郎氏は、御祭神について、

御祭神

誉陀別尊(ほんだわけのみこと)【応神天皇】

息長足姫命(いきながたらひめのみこと)【神功皇后】

武内宿禰(たけのうちすくね)【春日部氏の祖】

比売神(ひめのかみ)【宇佐の土地の守り神とされた海神】

豊受姫命(とようけひめのみこと)

倉稲魂命(うがのみたまのみこと)

素盞鳴命(すさのうのみこと)

神大市比売(かみおおいちひめのみこと)

引用:ふるさと春日部『春日部の神社/東八幡神社(大砂)』須賀芳郎/著/1996年)

と多くの御祭神が祀られているとお書きになっています。

◆御祭神について

ここで、誉田別尊と息長足姫命以外の神々について、少々補足を。

  • 比売神は一般に主祭神の妻や娘、または主祭神と深く関係する女性神で、八幡神社の比売神は宗像三女神を指すことが多いとされています。
  • 豊受姫命は、穀物を生育させる霊力を象徴するワクムスビ神の娘で、食物神の代表的な神です。トヨは豊かさを表わす美称で、ウケはケと同じく食(け)の意味であり、その名は伊勢神宮外宮(豊受大神宮)のご祭神として知られています。つまり天照大神の食べ物を司る神です。
  • 倉稲魂命は、宇迦之御魂神とも言い、稲の精霊を神格化、した神であり、神名の食(うけ)と宇迦(うか)は同じ意味で食物のことを指し、基本的な性格は五穀・食物を司る神。一般的には、お稲荷さん(稲荷神)と呼ばれ親しまれています。
  • 素盞鳴命は、日本神話の八岐の大蛇を退治したとされる荒神で、牛頭天王と同一神とされ、八坂神社のご祭神として知られています。
  • そして、神大市比売は山の神オオヤマヅミの娘で素盞鳴命と結婚し、宇迦之御魂神など代表的な穀物神を生みました。

こうしてみると、当東八幡神社には、大きく分けて武人の神食の神が祀られていることがわかります。

また、武内宿禰は、他の神々とは異なり、景行天皇から仁徳天皇までの五代の天皇に仕えた伝説上の忠臣とされ、300年以上生きたと言われています。そして、遂には神格を与えられ、延命長寿や武運長久の神、宰相の神として崇められてきました。

なお、郷土史家の須賀芳郎氏によると、春日部市外の八幡神社の場合、多くの場合、誉田別尊息長足姫命そして豊受姫命の三柱をもって御祭神とされているそうですが、春日部市内の八幡神社の場合は、春日部氏の祖先の紀貫之(土佐日記の作者)の先祖とされる武内宿禰を合祀しているそうです。

◆狛犬

阿形




台座側面に、文久3年(1863)八月十五日建
石工 宮仙蔵の銘あり。

吽形


足下に子犬が。

御神木


樹齢約600年の「東八幡大けやき」、幹の周囲が4.70mとされる巨木。

この樹齢約600年の大けやきですが、当地にある神社の御神木の多くは、樹齢約600年となっています。
「春日部八幡神社の大銀杏」は樹齢700年、「碇神社のイヌグス」は600余年です。600年前に何があったのでしょうか。

なお、樹齢約600年と言うと、この神社の創建以前かもしれません。そうすると、けやきの木があったところに神社をつくったと言うことになりますが、、、。

手水屋 


手水石には、元禄12年(1699)の銘があります。逆光になっていますが、ご容赦願います。


つづく…