かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・梅田の村社「女體神社」(前編)

2023-01-28 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/09/04・2023/01/28

 かすかべには、牛島地区と梅田地区の2ヶ所に女體神社があります。今回は、そのうちの一社、梅田の女體神社のことを…


2023年正月

 古隅田川に架かる十文橋を渡った地域は、かつて「内牧村梅田」と呼ばれていたところです。


十文橋から見た古隅田川 

 明治22年(1889)4月1日、内牧村と梅田村のニヵ村が合併し、「南埼玉郡内牧村」となり、さらに昭和19年4月1日に粕壁町と内牧村が合併、「粕壁町」となりました。

まずは地名のことから、

◆梅田という地名

 この梅田という土地は、日光街道粕壁宿の北に位置し、周囲を大落古利根川と古隅田川に囲まれた低湿地であり、村の開発に当っては低湿地を埋め立て、耕作地にしていったといわれています(説明板にも)。

◆「埋めた田」から「埋田」そして「梅田」に

 地名について、川の流域を埋めて耕作地にしたことから、“埋めた田”、すなわち“埋田”、転じて「梅田」となったという説と、

 古隅田川の上流の新方袋というところに、謡曲『隅田川』などで知られる「梅若伝説」があり、その梅若の「梅」から梅田となった、という説があります。さてどうなんでしようか。

地名の3分類

  1. 民俗学者の柳田国男は、その著書『地名の研究』において、地名を発達史的に捉えて、最初は開発しようとする土地の地形・気象・動植物などの特徴をとらえて命名する(利用地名)。
  2. 次に、領域拡大に伴い伴って住民が地を専有していく過程でその土地毎に命名していく(占有地名)。
  3. そして、最後にこれらを巧みに利用すべく土地を分割し、それぞれに地名をあてる(分割地名)。

と3つに分類しています。

 従って、梅田の地名も村の成り立ちを物語る利用地名の“埋め田”だったのではないでしょうか、神社の説明板も「埋田」となっています。そして、好字の“梅”が当てられと考えられます。あくまでも筆者の私見ですが。

 また、梅田の地内は、梅田東・梅田西・梅田新田の三つに分かれており(これらは分割地名?)、女體神社はそのうちの梅田東の鎮守として祀られています。

 前回ご紹介した「十文橋」から古隅田川沿いに遊歩道を少し歩くと、右手に見えるのが、朱い鳥居のある「村社女體神社」です。

早速行ってみましょう!


古隅田川の遊歩道


さらに進みます

対岸は市立春日部中学校

何やら朱い鳥居が


もう到着です
 

村社女體神社




女體社

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村社女體神社
村社とは

 なお、「村社」とは、戦前までの旧制度の社格の一つで、「郷社(ごうしゃ)」の下、「無格社」の上。多くは村の鎮守の社などが列格され、社掌(しゃしょう)が置かれていました。当女體神社は明治6年4月「村社」に列格。昭和24年5月31日「宗教法人」登録。

また、県道(春日部・久喜線)側から見ると 




女體神社


その裏側は説明板

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女體神社

 日光街道粕壁宿の北に位置し、周囲を大落古利根川と古隅田川に囲まれた低湿地である。この梅田の地名は、「埋田」の意である。梅田東・梅田西・新田の三つに分かれており、当社はそのうちの梅田東の鎮守である。

  醍醐天皇の延喜元年(901)の創立で、当時、梅田に住んでいた織部という人が、村内の子共が幼くして亡くなることが多かったことを憂い、子供が健やかに育つようにと天神に祈願し、国産みの神である伊邪那美(いざなみ)尊を産土神として祀ったのが当社の起源。古隅田川の北岸の最も高地に当たる場所(現在地)に社殿を造営し、祭事を行なったという。

 また、元和八年(1622)に二代将軍徳川秀忠が始めての日光社参に際し、街道筋の由緒ある社寺を訪ねた時、当社にも金千疋の寄付があり、以来、近隣の信仰を集めて大いに栄えたと伝えられてい。

 

 当地の土壌は、牛蒡の栽培に適し、太くて味の良い「梅田牛蒡」が出来ることで知られている。

 

祭典

一、元旦祭(一月一日) 

ニ、新年祭(一月ニ一日)

 

三、百万遍・悪病除祭(五月一日)

 

四、初山・浅間神社(七月一日)

 

五、例祭・夏祭り(七月十五日)

 

六、大例祭・おくんち(十月九日)

 

七、新穀感謝祭(十一月ニ六日)


 平成十七年十ニ月吉日 梅田東氏子会

 なお、説明板は門柱(社号標)の脇にもありますが、色が褪せて読みにくいため、道県(道春日部・久喜線)側の説明板を使いました。

 今も昔も女性が子共を生み育てることは大変なことに変わりません。現代もそうですが、昔は疫病など流行り病で亡くなる幼子が多かったことは容易に想像できます。それがこの神社の社名にそのままなったようです。

後編に続く…


【女體神社】




日光道中粕壁宿・渡るには渡銭が必要だった「十文橋」(後編)

2023-01-24 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/03/18・更新日:2023/01/24

◆梅田の地名

 十文橋を渡った地域は「内牧村梅田」と呼ばれるところですが、古利根川と古隅田川に挟まれた湿地帯のため、川の流域を埋めて耕作地にしたことから、埋めた田、すなわち埋田、転じて「梅田」となったという説と、もう少し上流の新方袋というところに、謡曲『隅田川』などで知られる「梅若伝説」があり、梅若の「梅」から梅田となった、という説があります。

 しかし、古来、日本の地名は、その土地の形状や、利用の目的、周りの環境などで命名されたものが多く、この土地もやはり“埋め田”だったのではないでしょうか。

 一方、この地域は、古利根川と古隅田川に挟まれた水はけの良い砂混じりの耕地と言う利点を活かして、牛蒡(ごぼう)、特に「梅田ごぼう」の産地として知られていました。なお、「梅田ごぼう」については、改めて書く予定です。

 この川の流域は、明治・大正時代には、度重なる水害を受け、この地域で生活する人々にとっては河川改修が悲願でした。昭和になっても昭和13年と同16年に洪水の被害があり、戦時中の昭和19年に河川改修が行なわれ、ようやく水害は、なくなったそうです。  

◆十文の渡し

 古隅田川が古利根川に合流する少し手前の現在の県道春日部・久喜線に架かる橋が、この「十文橋」です。明治時代中頃まで、ここに「十文の渡し」がありました。

 もともとは菖蒲道として、当地と菖蒲(現在の久喜市菖蒲)を結ぶ幹線道路でしたが、明治年間に上流の浜川戸橋(現梅田橋)が石橋に掛け替えられ、菖蒲道の道筋も変わってしまい、この渡しも廃止されました。

 そのため、この地域の人々は対岸の粕壁に行くためには、遠回りして、浜川戸橋を利用せざるを得なくなり、すぐ目の前の商業地にも簡単には足を運べなくなりました。

 この不便さを解消すべく、明治23年、地元の岩松初五郎氏(現在の十文橋のたもとに居住している岩松家の四代前)が、個人で橋を架け、賃取橋(ちんとりばし)にして地域の住民や往来の人たちの便を計りたいと、埼玉県知事に許可を願い出ました。

 その後、正式に県知事の許可が下り、長さ八間(14.4m)、幅一間(1.8m)の木橋を架けて、通行者から橋銭を徴収しました。

 現在、橋のたもとにある岩松家には、当時の橋銭の定額を記した標示板が保存されています。数年前、たまたま拝見する機会がありました。また、袂の句碑の裏面にも刻まれいます。

渡船賃定額

一、徒歩 一人 金壱厘

但、満三歳未満児ハ無賃

一、牛・馬  一疋  金弐厘

一、荷牛馬車 一輌 金弐厘

一、人力車  一輌 金壱厘  

一、駕竜   一挺 金壱厘  

一、長持   一棹 金壱厘

一、諸荷物  一荷 金壱厘

一、諸荷物  一駄 金壱厘

 

 右之通官許ヲ得候事

 埼玉県南埼玉郡内牧村梅田

岩松初五郎

 この橋銭の壱厘は、当時、十文とも言われたので、地域の人々から「十文橋」と呼ばれ、親しまれていたとのことです。

 その後、大正時代には橋銭が五厘となり、昭和になってからは、壱銭と改められましたが、橋の名は「十文橋」のままで、昭和十年までこの賃取橋は続いたと言うことです。

 後に県道春日部・久喜線の改良工事によりその橋も掛け替えられましたが、橋名の「十文橋」はそのまま残り、その後、永久橋に架け替えられました。

 なお、現在の橋は、11年前の平成21年6月に竣工したものです。現代でも「“十文”橋」としてその名が残されています。そして、これからも。

 当時、一厘は、十文に当たったそうです。一文は、約12円とも言われていますので、一厘は、今の価値で表すと約120円程度だったと思われます(違ったらごめんなさい)。

 橋の袂(駐車場)には、「石碑」と「句碑」があります。 

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右石碑 左句碑

石碑

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表面には、

 古隅田川 十匁渡し跡

       八十五■ 竹里書 

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裏面には、 

渡船場の跡

  なつかしや花菖蒲 

   伊勢社宮司庁課◼️◼️ 大竹九平 

 そして、前記の「渡船賃定額」が刻まれています。◼️は欠字もしくは判読不明の箇所。

句碑

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表面には、 

よし切や 渡船 わたれは 五戸の村

                天朗

 五戸の村の「の」は、能のくずし字?。本当に五戸の村だったのでしょうか、わかりません。

 「よし切り」は、スズメ目の鳥のことで、水辺の葦原にすみ、冬は南方へ渡るそうです。

 また、天朗は、裏面を見ると、平原寛空師の俳号とのこと。江戸時代天保、弘化の頃1838〜48の俳人新井天朗(あらいてんろう)ではなかったようです。

裏面には、

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古隅田川はその末流が古利根川に注がれているが、その川の對岸は梅田部落である、この梅田部落は最近住宅が建てられ純市街化して来たが明治大正の時代には農家が数戸点在する寂しい村であった、しかも古隅田川には今日のような架橋もなく渡船を利用して通行したもので河畔には葭柄が茂って初夏には葭切が鳴いていたものである、

今日回顧する時今昔の感に耐えない、この渡船場な初代は岩松初五郎氏でその曾孫にあたる当主岩松喜市氏は其の変遷を偲ぶよすがにしたいと老衲に句碑建設の議を申込まれた、老衲は師弟の関係にある岩松氏の申し出でもあるのでその時の拙句を刻し其の由来を誌すことにした、

昭和四十ニ年秋

仲蔵院住職 平原寛空 

         七十五才

とあります(判読に時間がかかりました)。なお、老衲(ろうのう)の「衲(のう)」とは僧呂がまとう衣のこと。また、平原寛空師は、小渕の寺院「仲蔵院」の第十五世の住職だった方。

 『武蔵国郡村史』によると、かすかべには、この他、大落古利根川の下流の藤塚、赤沼にも同様の渡があったようです。

 そう言えば、テレビの必殺シリーズで、藤田まことさん演じる中村主水が橋の袂の小屋(番屋?)で橋銭を管理しているシーンがありました(恐らく)。「十文橋」もあんな感じだったのでしょうか。

◆最後に

 現在の岩松家は、表札が「岩松工房」となっています。そして、玄関先には、仏像もあります。それもそのはず、今のご当主は工房を営む仏師さんなのです。寺町の妙楽院にも作品があるとのことです。

 もうすぐ桜の季節がやってきます。古隅田川沿いの見事な桜が今年もこの橋の上から見られることでしよう。

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橋の向こうに見えるのは最勝院です。

 地名の“かすかべ”の表記には、春日部と粕壁があるので、私は平仮名で“かすかべ”としています。そのほうが見た目も柔らかく自分でも気に入っています。どうぞよろしくお願いします。


参考文献:

  • 春日部市史 第六巻 通史編Ⅰ
  • 『かすかべの歴史余話』須賀芳郎著 1977年〜







日光道中粕壁宿・渡るには渡銭が必要だった「十文橋」(前編)

2023-01-20 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/03/18・更新日:2829/01/20

◆古道と古橋

 かすかべには、古くから、日光道中をはじめ、岩槻道関宿道などの古道が通っていました。これらの古道は、いずれも当地と各地を結ぶ政治・文化・産業面で重要な役割を果たしてきました。 

 そして、これらの道は、地域内で古利根川や古隅田川その他多くの用水排水路に交差しているため、渡河のためには、水嵩が少ない時期以外には、何らかの渡河の手段が必要でした。往古は、簡易な丸木橋が架けられ、その後、時代とともにより堅固な橋に架け替えられてきました。

と言うことで、

◆十文橋

 今回のかすかべ古橋物語は「十文橋」この橋にもいろいろ歴史がありました。

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橋名のプレート

 正しくは、橋名板(きょうめいばん)と言うそうです。下記に詳しく。

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ひらがな表記

この橋も(じゅうもんばし)ではなく(じゅうもんはし)です。橋の名はみんなこう読むのかな、良く分かりません。

 と言うことで、早速、調べてみました。図書館で調べましたが、わかりませんでしたので、止むなく、Wikipediaの力を借りました。

橋名板 

橋名板(きょうめいばん)とは、橋梁の名称などを示すために設置される板のことで、橋の起点側・終点側、橋に向かって左側・右側、合計4箇所に、それぞれ橋名板が設置される。なお、これは国土交通省の道路橋示方書に基準が示されているものではなく、各自治体が発注する場合の仕様書などに示されている場合が多い。

記載事項の設置一覧

多くの橋名板での、記載事項の位置は、次のようになっている。

  • 道路起点から見て左側に「漢字表記の橋名」
  • 道路起点から見て右側に「交差する河川(鉄道)などの地物名」
  • 道路終点側から見て左側に「ひらがな表記の橋名」
  • 道路終点側から見て右側に「竣工年月」 

「橋」の読み

橋名のひらがな表記については河川台帳等にある正式の読みとは関わりなく、「○○橋→○○はし」のように濁点を抜いて記載すると、規定している例がある。

河川の読み

同様に、正式には○○川(○○がわ)であっても、橋名板上では、濁点を抜いて「○○かわ」のように記される例がある。これは「水が濁らないように」との願いから慣習的に行なわれきたものである。

なるほど、初めて知りました。

 早速「古利根公園橋」や「新町橋」などを調べてみると、いずれも上記のように表記されていました。ただし、橋の起点は古利根公園橋も新町橋も共に、粕壁宿の対岸の八丁目、小渕側が起点でした。やはり、埼玉県も慣習的に、この様に決めているようです。今後は他の橋を見る時にも忘れずに確認したいと思います。

 それにしても、ブログを書くことはいろいろ勉強になります。

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道路起点から見て右側に河川名( 漢字表記)

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道路終点から見て右側に竣工年月

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「十文橋」の全景

この橋の道路起点は、左側の粕壁宿になります。 

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ここは古隅田川と古利根川の合流点

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一級河川「古隅田川」の標識(埼玉県)。ほとんど文字が消えかかっています。

◆古隅田川

 この橋が架かる古隅田川は、『新編武蔵風土記稿』によると、もとは大河でした。かっては、利根川の本流で、武蔵国太田庄と下総国新方庄を隔てていた国境の時代もありました。

 往古、川の流れは、今と逆で、利根川が小淵付近で大きく湾曲して、西の方へ流れ、元荒川に合流していたそうです。今は想像もつきませんが。  

後編に続く…


参考文献:

  • 春日部市史 第六巻 通史編Ⅰ
  • 『かすかべの歴史余話』須賀芳郎著 1977年〜





日光道中粕壁宿・粕壁神明社の気紛れな"にゃんこ”たち・・・

2023-01-16 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2020/10/24・更新日:2023/01/16

 昨年末にも書きましたが、毎年12月14日は、年の瀬の風物詩「粕壁神明社の酉の市」が行われ粕壁宿が賑わいます。

◆白き住人たち

 2年半ほど前、「粕壁神明社」の隣に食品スーパーがあり、買物のついでに、神明社の境内を覗いて見ると、白いネコがいることに気がつきました。

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2020/09/04

 最初の目撃は、2020年9月4日。このように白いネコが2匹。兄弟?それとも親子? どちらが親ネコかはわかりません。

 とにかく警戒心が強く、子ネコ?の方が先に逃げて見えなくなりました。

残ったのは親ネコ?

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親ネコ? 2020/09/04

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さてと? 2020/09/04

 この粕壁神明社は、門などは特にありませんでの、今まで、何度も買い物ついでに境内に入ったことがありますが、不思議なことにネコの存在に全く気がつきませんでした。今まで何処にいたのでしょうか?

2020年9月26日

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恐る恐る 2020/09/26

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落ち着いて 2020/9/26


2020年10月3日

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2匹揃って 2020/10//03

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どうする? 2020/10/03

2020年10月5日

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何処からともなく登場! 2020/10/05

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無視しようっと 2020/10//05

何を見ているのかな…

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隣のレンタカーのお店を見学? 2020/10/05


 当粕壁神明社にいるネコちゃんたちは、毎回登場するわけではありません。たまたまかもしれませんが、見かけない時もありました。

 このネコちゃんたちは、飼いネコなのか、それとも野良ネコなのか、はわかりませんでした。

 私は近所のお家の飼いネコのような気がしていました。そして、神明社の境内は絶好の遊び場なのかもしれないなと。

撮影は容易ではない

 とにかく、ネコちゃんの写真を撮るのは容易なことではありません。第一警戒心が強く、近づくとすぐ逃げてしまいます。また、目線が上からとなりなかなか上手い具合に撮れません。

『世界ネコ歩き』の動物写真家岩合光昭(いわごう・みつあき)氏の凄さがよくわかります。

 朝晩寒くなってくると、あのネコちゃんたちは、暖かい場所で寝ているのかな? といつも気になるネコちゃんたちでした。


追記1(2020/12/22):神明社にいた白いネコちゃんは親子の野良ネコであることがわかりました。以前は飼いネコだったそうですが、その後野良ネコとなり神社境内に居ついたとのこと。この目撃の後しばらくして保護団体に親子共々保護され新しい飼い主さんに引き取られたそうです。やつばり親子でした。

追記2:本記事は、削除しようと思っていましたが、他の記事との関連で削除しないことにしました。備忘録として公開させて頂きます。




日光道中粕壁宿・粕壁神明社の石碑・石造物(後編)

2023-01-12 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2020/10/28・更新日:2023/01/12


◆石塔・石碑

痘神

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一番手前左側の石塔には、よく見ると「痘神」(とうがみ、もがさがみ?・読み方はわかりませんが)と刻まれています。「痘神」「痘」(とう、もがさ)とは、かつて世界で最も流行し、恐れられた疫病の一つ天然痘(てんねんとう)のことです。

 また、痘神は疱瘡神(ほうそうがみ)とも言われ、疫病神の一種で、疱瘡(天然痘)をもたらすと信じられていました。そして、当時の人々は、病気の原因とされる疫病神を痘神(疱瘡神)として祀ることで、感染者の病状が平癒するようにお祈りしたと言われています。

 現代の疫病・新型コロナウイルス感染症は、瞬く間に世界中に広がりパンデミックを引き起こしました。現在も日本のみならず、欧米諸国で大きな波となって猛威を奮っています。

 交通が発達していない時代の伝染病は、村から村へと順々に伝わって行きました。 日本の場合も、疱瘡(天然痘)は恐れられ、人々は「疱瘡神」あるいは「瘡神(くさがみ)がやって 来て、病気を起こすのだと考えたそうです。

 そこで、江戸時代の人々は町や村の入口に「疱瘡神」を祀って、町や村の中に入ってこないようにお願いをしました。もちろん粕壁宿でも「八坂神社」や当「神明社」を祀り、疫病封じ、疫病退散を祈念したことは容易に想像できます。

◆青面金剛 

 その右は「青面金剛」。右側面には「文化十四丁丑年(1817)春三月吉祥日」と、

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 また、左側面には、「粕壁 山中」(これは当地の字名)と刻まれています。

猿田彦太神

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 その右は「猿田彦太神」。その側面には「文化十三年丙子(1816)十一月丙午朔十五日庚申建」と刻まれています。200年以上前の庚申信仰の名残りなのでしょう。

◆散留當ひこ乃碑


 さらにその右奥の丈の高い石塔には、刻まれている文字は崩し字の為、よくわかりませんでしたが、いろいろググッてみると「散留當ひこ乃碑」と刻まれているようです。


建立は弘化

 また、その右側面に「弘化三年丙午(1846)三月庚申立」とありますので、「庚申信仰」に因んだ石塔であることだけは確かです。

几号水準点

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 その左側面には「神明道長廿四丈三尺廣八尺不」と刻まれています。最後の文字は「不」(あらず)と読めますが、これは漢字の「不」ではなく「几号(きごう)」というものだそうです。

 なお、几号水準点とは、明治初期に高低測量を行うために設けられた基準になる測量点だそうです。初めて知りました。

 この方のブログがとても参考になりました。

↓↓

水準点、三角点(几号)

 なお、「几号水準点」が刻まれているということは、この石塔は、奥州街道(日光道中)沿いの神明社の参道入口付近に建っていたと推測されます。

 また、この几号水準点は、明治初期に定められたとのことですが、石碑そのものには、弘化三年(1946)の建立と刻まれていますので、もしかしたら、この「不」の几号だけ、明治になって刻まれた可能性があります(これも推測です)。

◆歌碑?


歌碑?
 そしてその右隣の石碑は、和歌のようなものが刻まれた歌碑のように見えますが、知識がないので、刻まれた崩し字は読めません。
◆力石・石塔(道標)

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その奥には力石と小さな石塔が二基。

◆道標?

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 このように白い"にゃんこ“たちのお陰で思わぬ発見(大袈裟な)がありました。感謝!!


補足:その後、2頭の白い猫は、保護団体に保護されたそうで、現在はこの神明社にはいません。